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第1話:おじいちゃんの遺言と、黒スーツの朝

ボロアパートの、安っぽい畳の青臭い匂いだけがやけに鼻を刺した。



「……結局、最後まで、見栄一つ張らない人たちだったな」



天馬蓮華てんまれんげは、安物のプラスチックケースに収まった二つの遺骨を見つめ、小さく呟いた。



親を早くに亡くした蓮華を、細腕一つで育ててくれたおじいちゃんとおばあちゃん。



おばあちゃんの手は、いつも内職の糊と冷たい水仕事のせいで赤くあかぎれていた。

おじいちゃんの背中は、町工場の油に塗れていつも小さく丸まっていた。



それなのに、蓮華の学費や、じいちゃんが夜な夜な教えてくれた「勉強」のための本だけは、どこから工面したのか、いつもピカピカの新品を用意してくれた。



その二人が、先週、老衰で立て続けに亡くなった。



「……さて、と」



涙は、もう葬儀の夜に枯らし尽くした。



残されたのは、今にも底が抜けそうな築五十年の六畳一間。

それと、じいちゃんが死に際に蓮華に握らせた、古い『手紙』。



湿気たアパートの窓を開けようとした、その時だった。



ドオォン、と。



およそこの寂れた下町には似つかわしくない、内臓を揺らすような重低音が路地に響いた。



「……ん?」



窓から下を見下ろした蓮華は、思わず息を呑んだ。



黒塗りの、排気量がいったいどれほどあるのか想像もつかない最高級セダンが数台。

軽自動車がようやく通れるほどの狭い路地を、文字通り『埋め尽くす』ように停車している。



中から出てきたのは、仕立ての良いスリーピーススーツを纏った、体格の良すぎる男たち。

耳元には、一目でそれと分かる細い通信用のインカム。



ドタドタと、古い木造の階段を激しくきしませる足音。

それが蓮華の部屋の前でピタリと止まり、薄いベニヤ板のドアが、これ以上ないほど丁寧な所作でノックされた。



「――どなたですか?」



おそるおそる扉を開けると、そこにいたのは、磨き抜かれた革靴を履いた白髪の老紳士だった。



老紳士は、蓮華の姿を認めるなり、直角に頭を下げた。



「お迎えに上がりました、蓮華お嬢様。私は天馬てんまグループ総帥付弁護士の御子柴みこしばと申します」



「……は? お嬢様? 部屋、間違えてますよ。うちは見ての通りの貧乏アパートですし」



蓮華が苦笑いしてドアを閉めようとすると、御子柴は懐から一枚の古い写真を差し出した。



そこに写っていたのは、まだ若い頃のおじいちゃんとおばあちゃん。

そしてその背景にあるのは、テレビのニュースでしか見たことがないような、広大な日本庭園だった。



「失礼ながら、間違いではございません。一昨日お亡くなりになられた天馬源一郎様、ならびにトシ様は――我が国を裏から動かす最大財閥『天馬グループ』の最高権力者であらせられました」



「……は?」



頭が、一瞬で真っ白になる。



あんなに質素に、毎日スーパーの割引シールを狙って暮らしていた二人が、日本最大の財閥のトップ?



「源一郎様の遺言状に基づき、天馬グループの総資産、ならびに傘下企業の全支配権は、唯一の直系血族である蓮華お嬢様が継承されます。本日より、あなた様が『女帝』にございます」



蓮華の指が、かすかに震えた。

じいちゃんが遺した、あの不器用な丸文字で書かれた手紙を強く握りしめる。



『蓮華へ。驚かせてすまないな。

お前をあえて貧しい環境で育てたのは、この国の『底辺の痛み』と『金なき者の絶望』を知る人間に育ってほしかったからだ。

今の日ノ本皇国は、老人ばかりが増え、若者が希望を失い、静かに沈みゆく泥船だ。

上に立つだけの特権階級には、この国の本当の泥臭い危機はわからない。

蓮華。お前が夜な夜な俺から学んだ『帝王学』も『経済学』も、すべてこの日のためのものだ。

お前に天馬のすべてを託す。金も、権力も、人脈も、すべてお前のものだ。

この枯れ果てた国を、お前の新しい発想で、もう一度建て直してくれ。

じいちゃんとばあちゃんより、愛を込めて』



ポタポタと、手紙の紙面に大粒 of 涙が落ちて、文字を滲ませていく。



貧乏だった日常。だけど、そこには確かに温かい愛があった。

二人は、この国の未来を、自分の孫である蓮華にすべて賭けたのだ。



「……御子柴さん」



蓮華は手の甲で乱暴に涙を拭い、顔を上げた。

その黒い瞳から、先ほどまでの弱々しさは完全に消え失せていた。

すっと背筋を伸ばしたその佇まいは、それだけで周囲を黙らせる圧倒的な覇気を帯びている。



「はっ」



「手紙の最後にね、じいちゃんがこう書いてるの。

『お前が愛したあの街の住人たちの顔を、もう一度よく思い出すといい』って。……これ、どういう意味?」



御子柴は、表情を一つも変えず、口元に微かな笑みを浮かべた。



「言葉通りの意味にございます。蓮華お嬢様が物心ついた時から暮らしていたあの『鴉羽商店街』は、天馬グループが丸ごと買い取った私有地……いわば、お嬢様を育てるためだけに配置された『箱庭』にございます」



「……箱庭?」



「はい。お嬢様にいつも大盛りの唐揚げを奢ってくれた定食屋の店主・源造は、元財務省の事務次官。

いつも将棋 of 相手をしてくれた駄菓子屋の鉄様は、元警察庁長官にございます。

他にも、お嬢様に語学を教えた家庭教師は元特命全権大使。工場の拓様は、元最先端AI研究所の所長。

全員が、天馬の給与で動く『使用人』にございます」



「――――っ!」



背筋に、冷たい電気のような衝撃が走った。



自分が信じていた温かい下町の人間模様。そのすべてが、天馬財閥の圧倒的な財力によって周到に配置された「一流の役者」たちだったというのか。



不気味なほどのスケール感。

だが、不思議と怒りは湧かなかった。

むしろ、胸の奥から湧き上がってきたのは、じいちゃんから注ぎ込まれた天馬の血が呼び覚ます、圧倒的な昂ぶり。



「お確かめになりますか? 皆、外でお待ちです」



御子柴がドアを開ける。

蓮華は吸い寄せられるように、ボロアパートの、今にも錆び落ちそうなベランダへと足を進めた。



狭い路地を見下ろした瞬間、蓮華は息を詰まらせた。



さっきまでよれよれのTシャツでタバコを吸っていたはずの町工場の親父が。

エプロン姿で井戸端会議をしていたはずの、近所のおばちゃんたちが。



――全員、一分の隙もない高級黒スーツに身を包み、路地に整列していた。



その数、数十名。

蓮華がベランダに姿を現した瞬間。



かつて「蓮華ちゃん、今日も可愛いねえ」と気さくに声をかけてくれた大人たちが、一斉に、軍隊のような見事な動作で――アスファルトに片膝をつき、頭を垂れた。



「「――蓮華お嬢様。お命じくだされば、いつでも」」



地を震わせるような重低音の唱和が、寂れた下町に響き渡る。



その最前列。

蓮華と『同い年』の幼馴染であり、いつも「蓮華、今日も貧乏飯か?」と軽口を叩き合っていたはずの少年――黒鉄颯太くろがねそうたがいた。



彼は、普段のよれよれのパーカーではなく、仕立ての良い黒のベストスーツを纏い、銀髪を冷たく揺らしていた。

その腰には、大統領警護SPのみに許される特殊警棒と、不敵な笑み。



颯太は膝をついたまま、スッと顔を上げ、蓮華に向かって片目を瞑ってみせた。



「待たせたな、お嬢。……今日から俺が、お前の盾だ」



「……ふふ」



蓮華の喉から、震えるような、しかし凛とした笑いが漏れた。



「なるほどね、じいちゃん。これだけの『手駒ブレイン』を、最初から私に持たせてくれていたわけだ」



世界最高の頭脳と、最強の暴力を、最初から手の中に収めていた少女。



蓮華はベランダの手すりを強く掴み、眼下の精鋭たち――かつてのご近所さんたちを見下ろした。



「御子柴。まずは財務省と警察庁のトップをここに呼び出して」



「御意。理由をお伺いしても?」



蓮華は、妖艶に、そしてこの上なく冷徹に微笑んだ。



「決まっているでしょう? あの、利権しか頭にない無能な少子化対策大臣を、今すぐ合法的に引きずり下ろす。――あの椅子は、私がもらうわ」



日ノ本皇国の歪んだ歴史が、この瞬間、たった一人の「少女」の手によって、根本からひっくり返ろうとしていた。



(第1話・了)

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