第2話 北方の猛者
アルヴェリア王国北部、ヴァルグレイヴ男爵領。
領主館の応接間には、重い空気が落ちていた。
俺は椅子に深く腰掛け、天井を見上げる。
「はぁ……」
思わず、ため息が漏れた。
王都から軍が北方へ入り込んでから、数日。
いったんは、領内の混乱も落ち着き始めていた。
とはいえ、屋敷の中はまだ慌ただしい。
レオノーラは、領主館と宿駅を行き来している。
リシュアンは、宿駅と倉庫から動かした物資の記録を確認するため、朝から書類に埋もれていた。
リエネは、王都軍が通った道筋と、宿駅から届く報告を照らし合わせている。
俺の家族、働き者すぎだろ。
誰に似たの?
「まさかねぇ」
壁際で腕を組んでいたバーデンが、ぽつりと言った。
「こんな事態になるなんて思わなかったわ」
「そうだな……」
俺はもう一度、深く息を吐いた。
「いや、正直途中から嫌な予感はしてた……」
なら、動けよ。
自分でそう思う。
気づいていたなら、何かできたんじゃないか。
もっと早く動いていれば、兵士たちをあんな目に遭わせずに済んだんじゃないか。
こういう時に動けない自分が、嫌になる。
「……でもねぇ、どうすることもできなかったわよ」
バーデンが、壁際から離れた。
「王都の軍が本当に来るかどうかも分からないうちに、こっちから兵を動かせば、それこそ反逆扱いよ」
「それはそうなんだが……」
本当に、ろくでもない。
命令したやつは、暖かい王都の屋敷にいる。
寒い道を歩かされるのは、いつだって下の兵士たちだ。
その時、扉が軽く叩かれ、レオン殿下が姿を見せた。
顔色はあまりよくない。
目の下には、薄く疲れが滲んでいた。
「旦那様。兵たちの様子を見てまいりました」
「おお……すまんな。殿下に手伝わせて」
「いえ。私にできることがあるなら、何でもいたします」
そう言って、殿下は小さく頭を下げた。
相変わらず腰が低い。
いいのか、王子としてそれで。
「そうか。助かる」
顔を上げた殿下は、表情を曇らせていた。
だけど俺は気づかないふりをして、椅子の背にもたれた。
「しかしまあ……」
俺は、あの日のことを思い出す。
――意を決して戦いに向かった日。
白い外套を羽織り、弓を受け取り、領民たちの前で俺は言った。
『行くぞ。ヴァルグレイヴ軍』
我ながら、格好つけすぎた。
そもそもヴァルグレイヴ軍など、勝手に領内で名乗っているだけである。
まあ、これから戦に向かうのだ。
少しぐらい鼓舞するつもりで、ああ言っても許されるだろう。
俺たちは、王都軍が向かってくるという南街道へ向かった。
春先とはいえ、北方の朝はまだ冷える。
吐く息は白く、踏みしめる雪は固かった。
そして、しばらく進むうちに、空の色が変わった。
山の向こうから、灰色の雲が低く流れ込んでくる。
風は正面からではなく、山肌を回り込むように吹いていた。
遠くの木々が、ざわざわと嫌な音を立てている。
「……降りますな」
バルドが、空を見上げて呟いた。
「……この時期だぞ?」
「山風が巻いております。あれは荒れますな」
「うそだろ……」
その時、街道の先へ出していた見張りが、雪を蹴って戻ってきた。
「旦那様!」
「どうした」
「王都軍は本道を進んでいます。ですが、山側から風が巻いています」
「え……荒れそうなのか?」
「かなり。林に入れていた弓兵は撤退させました」
周囲の者たちが、顔を見合わせた。
「本道のどの辺りだ?」
「黒松坂の曲がりを越えたあたりです」
「あそこ、吹雪きやすいのよねぇ」
バーデンが、頬をかいた。
バルドもこちらを見る。
若い兵たちも、判断を待っている。
俺は空を見上げた。
王都軍はまだ遠い。
ここで粘れば、迎え撃つことができる。
だが、雪が荒れたら?
俺は、深く息を吸った。
「……撤退するか」
若い兵のトマが、目を瞬いた。
「よろしいのですか?」
「天気が悪いから仕方がないだろう」
「ですが、王都軍が――」
「王都軍も天気には勝てない」
俺は弓を肩に担ぎ直した。
「罠係は?」
「戻しています」
「待避用の荷馬車は?」
「第三宿駅まで下げられます」
「よし。全員、第三宿駅まで下がれ。林には残るな」
「見張りはどうします」
「残す。だが一刻ごとに替えろ。早馬を出して、リエネとリシュアンに伝えろ。俺たちは第三宿駅で天気を待つと」
「すぐに伝えます」
「それじゃあ……帰るか」
バーデンが、ぷっと吹き出した。
「さっきまで格好よく出陣したのにねぇ」
「仕方がないだろう。天気には誰も勝てん」
バルドが低く笑った。
「正直、助かりましたわ。年寄りにはきつい」
「だよなぁ」
そう言って、俺たちは来た道を引き返した。
第三宿駅は、南街道沿いにある大きめの宿駅だ。
屋敷まで戻るには遠い。
だが、ここなら兵を休ませられるし、天気が戻ればすぐに再出撃もできる。
暖炉に火を入れ、濡れた外套を脱がせ、見張りの兵には温かいスープを配る。
「王都軍は、このまま進むと思うか?」
俺が尋ねると、バルドは椀を両手で包んだまま首を振った。
「止まるでしょうな。止まらねば、馬が先に参ります」
「王都の兵は、北方の吹雪に慣れていないものねぇ」
バーデンが窓の外を見る。
「けれど、止まれば止まったで困るわよ。あの辺りに、まともに暖を取れる場所なんてないもの」
「宿駅閉じたもんなぁ。ところで、あの軍の指揮官は誰なんだろうな」
「見張りの報告では、本隊の中央にハーゲン家の旗があったそうです」
「……オルト爺さんか」
「あの人なら吹雪の中で無理に進ませたりはしないんじゃない?」
「どうですかなぁ……」
バルドは窓の外を見た。
「オルト殿なら、止まるでしょう。だが、後ろに王都の監察役でもついていれば……」
「進めと言われるか」
「ええ」
バーデンが、スープを飲んでから息を吐いた。
「嫌な話ねぇ。分かってる人ほど、馬鹿な命令に挟まれるもの」
「本当にな」
そして、その半刻後。
空は割れたように荒れた。
春先とは思えない雪が、横殴りに吹きつけてくる。
視界は白く潰れ、街道の先はほとんど見えない。
木々は唸り、宿駅の馬小屋では、馬が落ち着かなげに鼻を鳴らしていた。
「……危なかったわねぇ」
「しかし、天は我々に味方したのか、してないのか」
「したんじゃないの?」
「このために金がだいぶ飛んだぞ」
宿駅は閉じたし、馬糧も買い上げた。
人手も集めたし、薪も食事もいつもより減っている。
待機させた荷馬車だって、本来なら荷を運んで金を稼いでいたはずだ。何日分になる? 考えるだけで頭皮に悪い。
「命より安いわよ」
「……それはそうだな」
それから、しばらくして。
ようやく風が少しだけ弱まった頃、扉が強く叩かれた。
「旦那様!」
雪まみれの見張りが飛び込んでくる。
外套の肩には、白い雪が厚く積もっていた。
「黒松坂の曲がりの先を確認しました!」
「王都軍は撤退したか」
「いえ……」
「なんだ? あの吹雪の中を進軍したのか?」
「いや……というより」
見張りは、一度息を呑んだ。
「いません」
「いない?」
「はい。本道にも、林の脇にも、隊列が見えません。踏み跡は吹雪で消えています」
宿駅の中が、静まり返った。
トマが、ぽかんと口を開ける。
「え? どういうことですか?」
バルドが、椀を置いた。
「散ったか」
「散った、って……」
「隊列を保てなくなったのでしょうね。吹雪の中で、道を見失ったのよ」
「え? でも、大通りしか道はないんですよ?」
トマが困惑した顔で言う。
バーデンは、少しだけ苦笑した。
「あなた、北方に来てまだ浅いものねぇ」
「はい……」
「大通りでも遭難するのよ。吹雪けば、前の人間の背中も見えなくなる。そこで列が乱れたら、もう道の上にいるかどうかも分からないわ」
トマの顔から、血の気が引いた。
俺は立ち上がった。
「探すぞ」
「探す、のですか? 相手は王都軍ですよ」
「敵でも、遭難者だ。放っておけば死ぬ」
それに、オルト爺さんが指揮していたなら、なおさらだ。
「あの辺りの宿駅を開けろ。火を焚いて、鐘を鳴らせ。街道沿いに見張りを出す。無理に深追いはするな。見つけた者は、近い宿駅に入れろ」
「すぐ手配します!」
「怪我人と凍えた兵は、まず温めろ。暴れるやつは縛っていい」
「はい!」
「第一、第二、第四宿駅も開けろ。リエネとリシュアンにも伝えろ。食料と毛布を回せ」
俺は外套を掴んで羽織った。
さっきまで王都軍を迎え撃つはずだったのに。
ヴァルグレイヴ軍は、ものの数刻でヴァルグレイヴ救助隊になってしまった。
見張り曰く、王都軍はおよそ五百だそうだ。
遭難者として拾うには、あまりにも多い。
俺は外を見渡した。
雪はまだちらついているが、さっきほどの吹雪ではない。
動くなら、今のうちだ。
「近くの集落にも声をかけろ。動ける者は宿駅へ。薪も、毛布も、飯も、出せるものは全部出してもらえ」
「全部、ですか?」
「五百だぞ。それくらい用意せねば足りん」
遭難救助は、前世でも金がかかるとニュースでやっていたが、今世も変わらない。
だが、ここで惜しめば人が死ぬ。
その時、外から馬の蹄の音が近づいてきた。
「旦那様……!」
宿駅番がぎょっとした声を上げる。
なんだ、と思って宿駅番の視線を追う。
雪を払って馬から降りたのは、レオン殿下だった。
「殿下……」
来るとは思っていた。
思っていたが、屋敷にいろよ。
「私も救助に……」
「駄目です。危険です」
俺は即答した。
凍えた王都兵が、助けに来た相手の中に殿下を見つけたらどうなるか分からない。
収拾がつかなくなる。
「ですが、あれは王国の兵です。私が屋敷で待っているわけには――」
「駄目です」
俺は、最後まで言わせなかった。
「それより、殿下にしてほしいことがあります」
「……では、私は何を」
「救助した王都兵に、武器を置けと。ここは敵陣ではないと説明してください」
殿下の顔が、一瞬強張る。
けれど、すぐに頷いた。
「分かりました」
「バーデン」
「はいはい」
「殿下のそばにいてくれ。あと、運び込まれた連中の振り分けを頼む」
「任せなさい」
俺は次に、バルドを見た。
「捜索隊を三手に分ける。街道沿い、林の縁、黒松坂の曲がりの先だ」
「すぐに分けます」
「それと、死体も置いてくるな」
バルドが、眉を動かした。
「……ですが、旦那様。それは手間も時間も食いますぞ」
「分かってる」
生きている者を探すだけでも手一杯だ。
死んだ兵まで運ぶとなれば、さらに人手がいる。
だが、放置すれば、北方が殺しただの、第二王子を隠すために始末しただの、王都の連中はいくらでも突いてくるだろう。
それに。
俺は、雪の向こうへ目をやった。
「この地に、兵士の死体を転がしたままにはしたくない。家族のもとへ返してやれ」
「……そうですな」
バルドはそれ以上何も言わず、外套の襟を締め直した。
指示を一通りしたあと、俺も様子を見るため、街道の方へ出た。
雪はまだ細かく舞っていた。
さっきほどの吹雪ではないが、視界は白く霞み、少し離れた木立も輪郭がぼやけている。
街道は雪に埋もれ、どこからどこまでが道なのか分からない。
その時だった。
街道脇の吹き溜まりに、妙な影が見えた。
雪の盛り上がりにしては、形がおかしい。
「……おい」
ゆっくり近づく。
人だった。
しかも、一人ではない。
兵が三人、倒れていた。
「こっちだ! 人がいる!」
俺は振り返って怒鳴った。
「荷橇を寄せろ! 毛布も持ってこい!」
遠くにいた猟師と宿駅番が、雪を蹴って駆け寄ってくる。
「生きてるか!」
俺は一番近くの兵に呼びかけた。
兵は、俺を見るなり剣に手を伸ばそうとしたが、指が震えて柄を掴めない。
「く、来るな……!」
「落ち着け。今はそれどころじゃないだろ」
「殺すつもりだろ……!」
「しない」
俺はその兵の前に膝をついた。
若い。
トマとそう変わらない年だ。
顔は青く、唇は紫に変わっていた。
残りの二人も、年はそう変わらない。
「仲間なんだろ」
兵の動きが止まった。
「死なせたくないなら協力してくれ」
「……っ、ロイ……」
兵の唇が震えた。
「ロイが、隣に……いた……」
「ロイだな」
「あと……マルクも……。馬車の、後ろに……」
「どっちへ行った」
「分からない……白くて……何も……」
兵は歯を鳴らしながら、涙をこぼした。
「置いてきた……俺、置いて……」
「置いてきたんじゃない。はぐれたんだ」
俺は振り返って怒鳴った。
「ロイとマルクという兵を探せ! 馬車の後ろにいたらしい! 近くにいるぞ!」
「はい!」
兵は毛布にくるまれながら、まだ震えていた。
「助けて……」
「分かってる。そのために来た」
俺たちは三人を荷橇に乗せ、第三宿駅へ戻った。
着いた頃には、宿駅の中はすでに別の場所になっていた。
大鍋には湯が沸き、隅では粥が炊かれている。
毛布は山のように積まれ、濡れた外套を掛けるための縄まで張られていた。
近くの集落から来た女たちが、湯気の立つ椀を手に、運び込まれた兵たちの間を歩いている。
「はい、口開けて。飲めるだけでいいよ」
「急に温めると痛むよ。手を火に近づけすぎないで」
すでに、王都兵が何人か床に寝かされていた。
うん。早い。
さすがだな、北方女衆は。
というより、北方の人間は遭難対応の手際がやたらいい。
俺たちが運び込んだ三人も、すぐに毛布で包まれた。
「この子、意識あります!」
「こっちは返事なし!」
「まず奥へ! 濡れた手袋は外して!」
声が飛び交う。
その中に、見慣れた黒髪があった。
「……レオノーラ」
俺は思わず声を漏らした。
レオノーラは袖をまくり、鍋のそばで椀を受け取っていた。
「お父様」
こちらに気づいたレオノーラが、顔を上げる。
「どうしてここに」
「人手が必要でしょう」
「危ないだろう」
お前、狙われているんだぞ。
「そんなことを言っている場合ではないでしょう」
レオノーラはそう言って、倒れている若い兵のそばに膝をついた。
「少しだけ飲めますか。無理に飲まなくていいです」
兵は、震える目でレオノーラを見た。
口元が歪み、涙がこぼれる。
「……すみ、ません」
「謝らなくていいですよ。今は温まってください」
俺の娘は聖女か?
普通、この惨状を見たら怯むだろう。
少なくとも、俺なら一瞬は固まる。
あの兵など、指先の色が悪いんだぞ。
少し離れた場所では、レオン殿下が運び込まれた王都兵に声をかけていた。
「武器を置いてくれ。ここは敵陣ではない」
「殿下……我々は、あなたを……」
「分かっている。今は生きることだけを考えてくれ」
兵は震える手で、剣から指を離した。
「第二王子殿下……」
誰かが、呆然と呟く。
その声に、他の兵たちも顔を上げた。
泣き出す者や、言葉を失う者。
力が抜けるように床に崩れる者もいた。
殿下は、その一人一人を見るようにして、言った。
「武器を置いてくれ。ここは敵陣ではない。……頼む。治療を受けてくれ」
その言葉で、ようやく何人かの兵が肩の力を抜いていた。
俺は、レオン殿下の横顔を見た。
やっぱり、生まれながらの王子というのは違うな。
……いや、違うか。
こいつは、本気で言っているのだ。
その言葉に飾りがないから、兵たちにも届くのだろう。
「旦那様!」
外からまた声が上がった。
「林の縁で五人見つけました!」
「生きてるか!」
「三人は意識あり! 二人は分かりません!」
「運べ! 空いてる場所を作れ!」
「急げ、奥を空けろ!」
五百人か。
まだまだ先は長い。
だが、俺の領地で死なせたくない。
少なくとも、拾える命は拾う。
「レオノーラ。無理はするな」
「お父様こそ」
それだけ言って、娘は飲み終わった椀を片付けていた。
お前は本当に、リエネに似たな。
怖がっていないわけじゃない。
それでも、自分で決めたならやめない。
そういうところが、嫌になるくらい似ている。
俺は外套の襟を締め直した。
「次、行くぞ!」
「北方無双は!?」と思われた方、申し訳ございません。
父ちゃん、自分の領地で殺し合いをしたくなかったので、天候が仕事してしまいました。
引き続きお付き合いいただけますと幸いです。




