第1話 可哀想なエスメラルダ
たくさんの応援、本当にありがとうございます。
皆さまに読んでいただけたおかげで、
このたび連載として続きを書くことにしました。
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どうぞよろしくお願いいたします。
昔々あるところに、エスメラルダという美しい娘がいました。
月光を溶かしたような淡い金の髪。
宝石のように澄んだ翠の瞳。
真珠のような肌に、人形師が彫り上げたような整った顔立ち。
誰もが、彼女を美しいと言いました。
けれど、エスメラルダは、自分のことをこの世で一番不幸な娘だと思っていました。
父は国王の弟でした。
そのためエスメラルダは、美しい姫君のように扱われながら、本物の姫ではありません。
大切にされながら、自由ではありません。
褒められながら、いつかは家のための婚姻に使われる娘でした。
なんて可哀想なわたくし。
エスメラルダは、毎日そう思っていました。
幼い頃、王弟家の庭で開かれた茶会でのことでした。
ひとりの令嬢が、菓子皿を取ろうとして手を滑らせました。
薄い茶の雫が跳ね、エスメラルダの白い手袋に小さな染みを作りました。
令嬢はすぐに青ざめました。
「ご、ごめんなさい、エスメラルダ様」
周囲の令嬢たちも慌てて布を差し出し、侍女が新しい手袋を取りに走りました。
誰もが、失礼のないように気を遣っていました。
けれど、その手袋は、エスメラルダのお気に入りでした。
エスメラルダは、また思いました。
ああ、なんて可哀想なわたくし。
目の前の令嬢は、今にも泣きそうな顔をしていました。
申し訳なさそうに、何度も頭を下げています。
けれどエスメラルダは、その顔を見ながら、こうも思いました。
わたくしを悲しませたこの子は、わたくしより悲しまなければならないわ。
それからしばらくして、その令嬢の噂が流れました。
友人から贈られたリボンを、自分で破って泣いたらしい。
気に入らない令嬢を仲間外れにしようとしたらしい。
優しいふりをして、裏では侍女にひどい口を利くらしい。
最初は、小さな囁きでした。
けれど噂は、茶会から別の茶会へ、仕立て屋へ、屋敷の侍女たちへと広がっていきました。
やがてその令嬢は、茶会に呼ばれなくなりました。
招待状が届かなくなり、届いても母親が断るようになりました。
ある日、久しぶりにその令嬢を見かけた時、彼女は母親の後ろに隠れるように立っていました。
以前のように笑わず、誰とも目を合わせません。
その姿を見た瞬間、エスメラルダの胸は、すっと軽くなりました。
ああ。
不幸な者を見るのは、なんて清々しいのでしょう。
人の不幸は、甘い蜜の味がしました。
エスメラルダは、その蜜をとても気に入りました。
けれど、どんな蜜も舐め続ければ、甘さに慣れてしまいます。
やがて、その令嬢は社交の場から姿を消しました。
最初は楽しかったはずなのに、いなくなってしまえば、それで終わりです。
エスメラルダの胸には、物足りなさだけが残りました。
それからというもの、エスメラルダは花の蜜を探す蝶のように、茶会や夜会へと飛び回るようになりました。
同じ色のドレスを着ていた令嬢は、婚約者の家から距離を置かれ、やがて遠い家へ嫁がされました。
廊下で肩が触れた令嬢は、消えた小さな飾りをめぐって盗みの疑いをかけられ、家ごと信用を失いました。
舞踏会でエスメラルダより先に褒められた令嬢は、身に覚えのない密会の噂を流され、家の名を守るためという理由で修道院へ送られました。
エスメラルダの茶会を断った令嬢は、次の季節には、どの夜会でも壁際に追いやられるようになりました。
エスメラルダが蜜を吸った花は、次々に枯れていきました。
そんなある日、王宮で舞踏会が開かれました。
その夜のエスメラルダは、誰よりも美しく装っていました。
淡い金の髪には宝石を散らし、翠の瞳が映えるよう、銀糸を縫い込んだ薄緑のドレスをまとっています。
広間に入った瞬間、いくつもの視線がエスメラルダへ向きました。
美しい。
まるで人形のようだ。
さすが王弟殿下の姫君だ。
そんな囁きが、あちらこちらから聞こえてきます。
エスメラルダも、当然だと思いました。
だって、わたくしは美しいのだもの。
男たちは遠くから見るばかりでした。
近づこうとして、やめる者。
隣の者と目配せをする者。
王弟家の娘という名に怯え、軽々しく声をかけられない者。
エスメラルダは、それも当然だと思いました。
わたくしに釣り合う男など、そう簡単にいるはずがないのだから。
この国には、三人の王子がいました。
エスメラルダの父は、いずれ娘を王家へ入れるつもりでした。
第一王子は、母親の影が濃すぎる。
第三王子は、まだ幼い。
第二王子なら、まあ悪くない。
エスメラルダは、そう思っていました。
第二王子レオンハルトは美しい王子でした。
王家の血を引く整った顔立ちに、灰色の瞳。
穏やかで、礼儀正しく、軽々しく女に声をかけることもない。
エスメラルダの隣に立つのなら、あれくらいでなければ。
周囲の令嬢たちも、囁いていました。
エスメラルダ様とレオンハルト殿下なら、お似合いですわ。
まるで絵のようですもの。
今夜の最初の舞踏は、きっと。
そうでしょう。
そうでしょうとも。
エスメラルダは微笑みました。
レオンハルトがこちらへ歩いてくるのを見て、扇の陰で口元を整えます。
けれど、レオンハルトが手を差し出した相手は、エスメラルダではありませんでした。
北方の男爵家の娘――レオノーラ。
は?
エスメラルダは、理解できませんでした。
レオンハルトは、レオノーラの手を取っていました。
レオノーラは驚いたように目を見開き、それから美しいカーテシーをして、レオンハルトと共に広間の中央へ進みました。
広間がざわめきました。
あの方はどなた。
北方の男爵家の娘らしい。
でも、綺麗な方ね。
レオンハルト殿下が、あの方を。
エスメラルダの指が、扇を強く握りました。
まただ。
また、わたくしは不幸だ。
こんなに美しいのに。
こんなに可哀想なのに。
わたくしが選ばれるべきなのに。
わたくしに恥をかかせて。
エスメラルダは、広間の中央で踊る二人を見つめていました。
そして、思いました。
レオンハルトなんて、消えてしまえばいい、と。
では、エスメラルダはどうするのでしょうか。
レオンハルトを刺し殺す?
階段から突き落とす?
いいえ。
エスメラルダは頭の回る娘でした。
自分の手を汚すようなことはしません。
エスメラルダは、ただ囁くだけでした。
最近、第二王子殿下の周りに地方諸侯が集まっているようですわね。
北方の男爵家とも、ずいぶん親しいとか。
王太子殿下より、第二王子殿下を推す声があるのではありませんの。
エスメラルダは、第一王子派の者たちにそう囁きました。
ほんの少し心配しているふりをして。
王家のためを思っているふりをして。
自分は何も知らない娘のふりをして。
すると、第一王子派の者たちは勝手に疑い始めました。
レオンハルトの周囲に置かれる者が変わりました。
見張りの目が増え、味方に見える者の中にも、敵の耳が混じるようになりました。
事故。
遠征先での不運。
任務中の行方不明。
そういう言葉が、王宮の影で囁かれるようになりました。
エスメラルダは、それを聞いて微笑みました。
いつかしら。
いつ、その日が来るのかしら。
そう思いながら、その日を楽しみにしていました。
ついでに、レオノーラも不幸にしなければ。
計画を立てている時のエスメラルダは、とても楽しそうでした。
そんな時でした。
なんと、レオンハルトは王宮を離れてしまいました。
自分の命が危ういと察したのか。
それとも、あの北方の娘のもとへ逃げたのか。
エスメラルダはショックを受けました。
ああ、またわたくしの楽しみを奪って、わたくしを悲しませるのね。
レオンハルトは、まだ生きている。
レオノーラもまた、まだ幸せそうな顔をしている。
許せない。
許せるはずがない。
エスメラルダは、扇の陰で唇を噛みました。
あの者たちの不幸を見なければ、わたくしの心は晴れないわ。
エスメラルダは、いちばん美しいドレスを選びました。
淡い金の髪を結い上げ、翠の瞳がよく映える宝石を飾り、白い扇を手にしました。
そうしてエスメラルダは、王都の夜会へ向かったのでした。
◆
アルヴェリア王国王都、貴族区画。
王宮から少し離れたその一角には、古くから王都に屋敷を構える貴族たちの邸宅が並ぶ。
その夜、伯爵家の広間には、穏やかな音楽が流れていた。
きらめく灯りの下で若い令息や令嬢たちが軽やかに踊り、壁際では夫人たちが扇の陰で茶会の噂を交わし、紳士たちは葡萄酒の杯を手に時勢を語っていた。
「北方へ兵が出たそうですな」
紳士のひとりが、グラスを傾けたまま、わずかに眉を上げた。
「第一王子殿下のご命令で?」
「ええ。名目は、第二王子殿下の保護だとか」
「保護に兵を出すとは、ずいぶん物々しい」
「北方男爵家が、殿下を手元に置いているという話にしたいのでしょう」
そこで、別の男が薄く笑った。
「もっとも、北方男爵家も近頃は目立ちすぎておりましたからな」
「リュミエールとの宝石交易で、北方の男爵家とは思えぬほど潤っているとか」
「田舎の男爵家が、宝石の道を握る。王太子殿下の周りにおられる方々には、少々目障りに映ったのでしょうな――おや」
その声に、数人の視線が一斉に動いた。
広間の入口に、淡い翠のドレスをまとった令嬢が現れた。
令嬢は、白い扇を手に、人々の間をゆっくりと進む。
その姿に、見とれた者が息をのみ、誰かが小さくため息をこぼした。
「エスメラルダ嬢、ごきげんよう」
「ごきげんよう、皆様」
エスメラルダは微笑んだ。
「何のお話をなさっていましたの?」
「北方の件です。第二王子殿下のことを」
「まぁ……」
「エスメラルダ嬢も、さぞご心配でしょう。第二王子殿下は、あなた様にとっても大切なご親族ですから」
エスメラルダは、淡く目を伏せた。
「ええ。大切な従兄弟ですもの。一日も早く、無事に王都へ戻ってきてほしいですわ」
年配の婦人が、感心したように呟く。
「エスメラルダ嬢は、本当にお優しい」
「優しいだなんて……当然のことです」
エスメラルダは、困ったように微笑んだ。
「ただ、レオン殿下はお優しい方ですから……北方の方々に情を移されて、ご自身のお立場を忘れてしまわれていないか、それだけが心配なのです」
「殿下は、昔から少し情に厚すぎるところがおありでしたからな」
ひとりの紳士が、困ったように笑った。
「ええ。だからこそ、王都へお戻りいただかなくては。レオン殿下ご自身のためにも」
周囲の者たちは、同意するように頷いた。
しばらくして、エスメラルダは会話の輪を離れた。
壁際にいた令嬢二人のうち、一人が小さく息を吐く。
「……レオノーラ嬢は、大丈夫かしら」
「あなた、彼女と親しかったの?」
「ええ。手紙のやりとりをしているの……」
そのとき。
「ご友人のご心配?」
背後から、柔らかな声がした。
令嬢の肩が、びくりと震える。
振り返ると、エスメラルダが立っていた。
「エ、エスメラルダ様……」
エスメラルダは、にこりと微笑んだ。
「お優しいのね、クラリッサ様」
「い、いえ、わたくしは……」
その時、エスメラルダの手から、白い扇子が滑り落ちた。
扇子は、クラリッサの足元に転がる。
「あら。落としてしまったわ」
エスメラルダは、首を傾げた。
「お優しいクラリッサ様。どうか、拾っていただけませんか」
クラリッサは、視線だけを横へずらした。
先ほどまで隣にいた令嬢は、扇で顔を隠している。
近くを通った給仕は、銀の盆を手にしたまま、こちらへ気づかぬふりをして通り過ぎた。
「っ……はい……」
クラリッサは青ざめたまま、恐る恐る身を屈めた。
震える指が、扇子に触れる。
楽音が、ひときわ高く跳ねた。
その瞬間――。
「ひっ……」
クラリッサは、喉の奥で悲鳴を噛み殺した。
真珠飾りのついた白い靴先が、クラリッサの指を踏みつけていた。
痛みに耐えるように唇を噛み、潤んだ目でゆっくりと視線を上げる。
白い靴。
淡い翠のドレスの裾。
細い首にかかる、真珠と翠玉の首飾り。
そして――。
底の見えない翠の瞳。
エスメラルダは、深く微笑んでいた。
第2話は本日20時投稿です。
毎日20時投稿予定になります。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
続きが気になる、また読みに来てもいい、と思っていただけましたら、
ブックマークしていただけると本当に助かります。
ブクマが増えると、作者のやる気が露骨に上がります。
父ちゃんたちの行く末を、見届けていただけると嬉しいです。




