第七話 森の主
「我の知る世界とは、ずいぶん違うようだな」
エルゼはぽつりとこぼした。答える者があるわけでもなく、その声は深い森に吸い込まれていく。
見渡す限り、かつてのような人工物が見当たらない。空には航空機の影ひとつなく、眼下に見え隠れする集落も、木と石で造られた質素な家屋ばかりだ。
エルゼは神を殺した。
それだけのために造られ、それだけを成し遂げ、そして眠りについた。目が覚めたとき、世界はまるで変わっていた。あの輝かしい魔法文明も、共に戦った者たちも、何もかもが跡形もなく消えている。
どれほどの時が流れたのか。それすらも、彼女には知る由もない。
当時は高度な魔法文明が花開いていた。空には魔導飛行船が行き交い、戦場では魔導砲が一面を焼き尽くす世界だ。
そんなエルゼの記憶と比較すると、この時代の文明は遥かに衰退してしまったらしい。まるで、魔法文明が花開く遥か以前――人々が剣と馬で生きていた頃に逆戻りしたかのようだった。
「そのようじゃな……とはいえ、儂も今の世界がどうなっておるか、何も知らんのじゃがの」
ミアが冗談めかしてそう言うと、「てへっ!」と舌を出す。手を繋いで歩くフィーネがつられて舌を出すと、その仕草が楽しかったのか、きゃっきゃと笑う。
十二歳ほどのミアと、小さな四歳児のフィーネ。その横を長身のエルゼが並んで歩く。はたから見れば、若い母親と幼い姉妹のようであった。
「しかし、フィーネは元気じゃな。森に入ってからは、ほとんど自分の足で歩き通しておるというに」
そのフィーネを見下ろし、ミアは感心したように目を細めた。
「フィーネ、少し休むのじゃ。水でも飲もう。ほれ、魔法で冷やしておるぞ」
そう言って、ミアは空間魔法の収納から水入りの竹筒を取り出す。
「いらなーい!」
ミアの声にフィーネは勢いよく顔を背け、繋いだ手をブンブンと振って歩き続ける。
「……我らは歩みを緩めておるわけではないのじゃぞ?」
ミアが呆れたように言うと、背後を歩くエルゼが頭上から静かに応えた。
「我と同族ゆえな」
エルゼは右肩に担いだ十文字槍の柄を、指先だけでくるりと弄ぶように回した。
同族――すなわち、かつての高度な魔法文明が生み出した”生物兵器”の末裔ということだ。人の形をしながら、その内側に兵器としての異能を宿している。フィーネもまた、そんな存在のひとりだった。
「主殿からそうは聞いておったが、この見た目じゃからのう」
ミアは横を歩く小さな保護対象に対し、改めて値踏みするような視線を向けた。
「我よりも新しい種だ、かなり強い」
「ならば、なぜあのような雑兵どもに容易く討たれたのじゃ? 主殿」
あの村を襲った連中はそれなりに数を揃えていたし、統率の取れた動きを見るに、訓練も行き届いていた。おそらくこの世界では、精鋭と呼ばれる部隊であったのだろう。
しかしそれでも、神の信奉者を蹂躙するために造られた彼らが、ああも簡単に滅ぼされたことがミアには不思議でならなかった。
「忘れたのであろうな……戦いを」
生態兵器として造られたフィーネの父は、身体能力が常人をはるかに超えていた。一人で多数に囲まれながらもなお六人を屠ったことが、その証明となっている。だが、兵器としての異能は、意図を持って発動させねばならない性質のものだった。
平穏な隠れ里で何世代にもわたって暮らすうちに、彼らはその力の引き出し方すらも失伝してしまったのだ。
「なるほどのぅ……であるならば、フィーネがこれからどれほどの戦士に育つのか――将来が楽しみじゃな、主殿」
ミアは振り返り、後ろを歩くエルゼを見上げるようにして、屈託のない笑みを向けた。
「良きものとなるか、それとも枷となるか」
エルゼは眉一つ動かさず、無機質な表情で言った。そしてそのまま、木々の隙間から覗く空を仰いだ。
「静かであるな」
山を下る森の中、およそ二時間ほど歩き続けている。山の上から見た景色では、もうあと一時間も歩けば森を抜けられそうではある。だが、ふと気づく。
これほどの森なのに、獣の気配がほとんどないのだ。虫や小型の鳥類、ネズミやリスの類はそこかしこに蠢いている。しかし、これほどの森であれば、それらの捕食者である中型から大型の獣がいてもおかしくはない。
「来るぞ、ミア」
ミアは急速に膨らむ魔力の気配へ意識を向け、フィーネの手を引いて抱え込むようにしゃがんだ。瞬時に虚空がきらりと輝き、透明な魔法障壁が展開される。
その直後、凄まじい風刃が落ち葉と土埃を巻き上げ、周囲の草木と太い木の幹をずたずたに切り裂いた。
強力な風属性の範囲攻撃魔法。
だが、エルゼは吹き荒れる風刃を意に介することなく、魔法が放たれた方角へと飛び出した。重厚な十文字槍を右上段に振りかぶり、行く手を塞ぐ大樹もろとも、その奥に潜む敵に向けて袈裟懸けに叩きつける。
「ぐぎょえぇぇっ!」
直撃を受けた巨体が奇妙な悲鳴を上げ、そのまま転がるように吹き飛んだ。周囲の木々に身体を打ち付けながら、七メートルほど土を抉ってようやく停止する。
「主殿、これはなんじゃ」
「キメラ……生き残りか」
キメラ(異種交配獣)は繁殖能力を持たない。その代わり、様々な生物の因子を掛け合わせて造り出された、恐るべき生物兵器である。膨大な魔力と強靭な肉体に加え、無限の細胞分裂がもたらす異常な再生能力は、肉体から老いという概念を奪い去った。
結果として、この醜悪な兵器に寿命は存在しないのだ。
全身の骨という骨が砕けているのだろう。キメラは受けたダメージが大きすぎるのか、思うように身体を動かせずにもがいていた。
その姿は――虎を思わせる頭部に、熊のような巨大な体躯。背骨に沿って分厚い鱗が列をなし、全身の各所には艶のある硬質な装甲が貼り付いている。尾はワニを彷彿とさせる、太く強靭なものだった。全長四メートル。
筋骨隆々の怪物を目の前にしても、エルゼは涼しい顔のまま。ちらりと背後のフィーネを見やり、次いでミアへと視線を移す。
「ミア、フィーネを頼むぞ」
短く告げると、エルゼはもがくキメラへとゆっくり歩みを進めた。その後ろを、魔法障壁を維持したままのミアが、フィーネを背負って慎重に続く。キメラの傍まで来ると、エルゼはふとしゃがみ込み、そっとその顔を覗き込んだ。
「グルルゥ……」
キメラが警戒するように低く唸る。
「我の言葉がわかるか」
エルゼの問いに対し、キメラはただ喉を鳴らすのみ。やがて再生が進んだのか、キメラはゆっくりとその巨体を持ち上げた。四つん這いの状態ですら、肩の高さはゆうに三メートルに届こうかという巨体だ。
すぐ手の届く距離に、自分を打ち倒したエルゼが居る。
しかしキメラは反撃するどころか、そのまま四肢を折りたたみ、深く頭を地に伏せた。その赤黒い瞳は、エルゼを、そしてその後ろのミアを静かに見据えている。
「我は行く。邪魔をせぬなら何もせぬ」
エルゼはその鼻先にそっと手を伸ばし、柔らかく触れた。直後、キメラの巨体が淡く薄緑色に発光する――やがて光が収まると、彼女は悠然と背を向け、振り返ることなくミアたちのもとへ戻った。
「あ、主殿。あれは放っておいてよいものなのかのぅ」
ミアが伏せたままのキメラへ視線を遣り、エルゼを見上げた。
「あれは、この森で生き続けるであろう。何者かに討たれるその日まで」
ミアの横まで歩いてきたエルゼは、そっとフィーネの頭に手を乗せる。不安げな視線をミアとともにエルゼに向けていたフィーネの瞳が、くすぐったそうに首をすくめながら細くなる。
「敵対せぬのであれば、あえてここで討つ必要はないというのじゃな。しかし、それでは他の者らが襲われるやもしれぬではないか、主殿」
ミアの言うことには一理ある。深く頷きながらも、エルゼはあえてキメラにトドメを刺すような真似はしなかった。
「弱肉強食。あれが自然と共にあるのなら、それもまた野生の理」
そう言ってエルゼは再び、山の麓へ向けて下り始めた。その背中を追いかけながら、ミアが言った。獣道をほんの少しマシにしただけのような細く険しい道を、三人は進む。
「なるほどのぅ。この辺りにまともな道もなく、人の暮らす気配がなかったのは、此奴がおったからじゃな。そして……フィーネの村はそれこそ強者の集落として、このキメラの目には映っておったのじゃろう」
「そういうことだ」
キメラがこの地に長い年月居座っているのは、この世界の人々に討つだけの力がないからか。あるいは、犠牲と対価を天秤に掛けたとき、割に合わぬと判断されたのか——いずれにしても、あれが立ち塞がっていれば、フィーネの村を襲撃した兵士どもとてただでは済まなかっただろう。
やがて鬱蒼とした森を抜け、ふいに視界が開けた。
目の前には広大な牧草地が広がり、牛や羊がのんきに草を喰んでいる。そしてその先には、十軒ほどの小さな家屋が、肩を寄せ合うようにして建っていた。
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