【090】ドリームのようなオーシャン
教国を旅立った聖女イーシャと剣聖エインが南大陸へと向けて帆船で移動している最中。
港町を治めるガレリア・フランケル元侯爵の計らいにより、一隻を丸々自由に使っていいと貸し出された大型帆船の片隅には、サングラスをかけた幼女がこっそりと紛れ込んでいた。
「まるであたちのドリームのように、オーシャンは広く大きく、なのよ……」
目立たない場所で青々と広がる海を眺め、ちょっと何言ってるのか分からないけど自信たっぷりで、とにかく物思いにふけるこの幼女こそ、最近エリートとして認められたちびっこ天使メルメル。
数ヶ月前、天使長であるプレアニスから金メダルとチョコマシュマロを受け取ったメルメルは、一旦教国へと渡り日々様々な功績を積み重ねていたのだが、なんだか功績の匂いに変化があったということで先日、満を持してこの船に乗り込んだのであった。
ちなみに功績の内容は小さなことから大きなことまで様々だが、一番目立つものは攫った亜人を奴隷にし、不正に売買を重ねる子爵の屋敷を灰にしたことだろうか。
本人としては捕まって可哀そうな亜人たちを解放するために、ちょっとだけ手を貸すつもりだったらしいのだが、どうやら乗り込む前に子爵の屋敷の前で盛大に燃やしていたキャンプファイヤーの火が、脱出作戦を繰り広げているメルメルと亜人たちがその場から離れた頃に引火してしまったらしい。
いくら火の制御を覚えたといっても、さすがに放置してたらちゃんと引火するので、これは当然の帰結である。
とはいえ、屋敷からは既に攫われた亜人たちを全て救出し終えており、なかなか消えない天使の火が全てを燃やし尽くした頃には、その場に残っている者は人の道を踏み外し富を成す奴隷商人と子爵だけであった。
最終的に財産や奴隷契約書もろとも灰になっていく屋敷を眺めた子爵は、その後逃げ出した奴隷たちの証言により、不正の証拠がないかと探っていた聖女イーシャの手によって成敗されたのである。
ナイスメルメル。
さすがエリート。
ちびっこ天使はやればできる子なのであった。
「あたちって、やっぱり優秀なのよね~……」
そんなことを呟きながら、月の光を反射するイカしたサングラスをクイッと持ち上げ、「ふぅ……」と溜息を吐く。
実際、今回の件では素晴らしい働きを見せたのでその通りではある。
屋敷が燃えたのを見届けたメルメルは、「こういうやりかたもあるのね~」と妙に納得し、ちょっとだけ知恵をつけていた恐ろしいちびっこ天使でもあるのだ。
このちびっこ天使は、今日も今日とて通常運転なのであった。
そしてふと、広い海を眺めていたメルメルは思い出す。
「そういえば、勇者たちは元気にしてるかちら? ブレイブエンジンは感情に任せて使ったり、力に溺れると暴走するから、ちょっとだけ心配なのよ」
むむむ、とおでこにシワをよせて唸るちびっこ天使はなんだか不安になり、これは急いで様子を見に行くべきかもと判断する。
故郷である天界でも忘れられがちだが、メルメルの凄いところは運がいいところだけではない。
その超越的な直感こそがちびっこの武器であり、今まで決算書類を寸分たがわずピタリと報告してきた長所そのものだ。
故に、ここでメルメルが不安を感じるということは、実績という根拠に裏打ちされた信ぴょう性のあるものであった。
「こうしている場合じゃないの。もしブレイブエンジンが暴走したら、勇者自身のためにならないのよ。今すぐここから飛んでいかないと間に合わないかもなの」
善は急げということで、さっそく大型帆船の片隅から飛び立つ。
天使の翼を広げ、ぱたぱたと羽ばたきながらお世話になったこの船の皆に別れを告げ、一人旅を再開した。
余談だが、別れを告げたといっても特に声をかけたとかそういう訳ではない。
単純に心の中で「乗せてくれて、ありがとなのよ~」と感謝しただけである。
もちろん空から乗り込み、勝手に無銭乗船して勝手に去って行ったメルメルに気付いた者などいなかったので、特に何かが起きた、という訳でもないのではあるが……。
◇
「あら? 今、清らかな魔力の気配が一つ空へと飛んでいったような……」
「は? 空へ? 気のせいではないですか、お嬢様。きっと疲れてるんですよ」
「そうねぇ……。うん、そうだわ。だって、こんな大海のど真ん中で船から離れるなんておかしいもの」
じゃあ気のせいね、と頷くのは聖女イーシャその人。
急に突拍子もないことを言い出した自らの主君である聖女に、旅の共としてついてきた剣聖エインは苦笑いである。
この帆船ではフランケル侯爵の手の者達が魔物の襲撃などを常に警戒していて、海からの襲撃にはよく注意を払っている。
今は日が沈み空の方はよく見えないとはいえ、さすがに大型の魔物が飛行していれば気づくはずだ。
だからこそ聖女の言う気配の持ち主が船の上空を通り過ぎたという仮説には、いささか疑問を抱かざるを得なかった。
「まあ魔物といっても、小さい子供くらいの大きさであれば見逃すかもしれませんけどね。とはいえ、その場合は脅威にはならないでしょう」
「それもそうね~」
たとえ甲板に小さな鳥型の魔物が現れたとして、それがいったい何の脅威になるというのか。
さすがに皇女であり聖女であるイーシャを乗せて進む大型帆船の乗組員に、その程度の魔物を脅威とするような腑抜けはいない。
どのケースであっても、全て気にする必要のない些細なことなのであった。
そうして、すぐそばにちびっこ天使が居たり居なかったりしながらも、二人の旅は続く。
最初の目的地は、情報屋から金髪碧眼の少年アルス第一の活躍として話を聞いていた、魔法大国ルーランスの王都。
魔族の問題にちょくちょく介入しているという彼の所在を掴みたいのであれば、まずはそこで情報収集をすると良いとアドバイスを受けていたのだ。
そうすることで、既にルーランス王国最強の暗殺者として復帰を果たしている、常闇のエルガから質の良い情報を手に入れることができるはずだと、情報屋チュウキューは語っていた。
「それにしても、あのチュウキューとかいう情報屋は何者だったのかしら。死にかけていた私を治療したお礼をしようにも、大人数で現地に押し掛けると絶対に所在が掴めなくなるのよね」
あの謎の中級商人、もとい情報屋にはしばらくは会うことはないだろうが、教国に多大な貢献を果たしている彼にはいつかお礼をしたいと思うも毎回躱されるのだ。
騎士団を連れて掘っ立て小屋に訪れればもぬけの殻だし、かといって個人で訪れて、今までの功績を認め爵位すらも与えると切り出せば、「そんなものはいらん」と一蹴される始末。
全くもって、不可解な人間である。
「ははは。まあ、彼には彼なりの目的と信念があるのでしょう。俺にはなんとなく、その気持ちは分かりますよ」
「そうなの? 男って不思議だわ~。私だったら、貰えるものはなんでも貰うけどねぇ……」
他愛もない話をしながら情報屋のことについて語る二人の表情には、どこか信頼から来る笑顔があった。
しかしその時────。
────なんだ、なんだあれは……!
────空が朱く光っているだと……!
と、船の甲板で騒ぐ乗組員たちの声が聞こえてくる。
その叫びに驚いた聖女と剣聖が急いで外に出ると……。
「お嬢様、これは……!?」
「なんなの……、あの恐ろしい魔力の気配は……」
禍々しい魔力の気配を漂わせる空に、二人は何か恐ろしいことが起こっている予感を感じ取るのであった……。




