夏の恋人 終
満足するまで彼女を抱きしめた後、彼女を腕の中から解放すると、彼女は足をベンチから下ろしてストレッチをし始めた。
そういえばさっきまで渾身の土下座を披露してくれていたんだった。足が痺れてしまっただろうか、申し訳ないことをした。
ストレッチをしている彼女の肩に、寄りかかった。彼女が確かに隣にいるのを、体温で感じたかったのだ。
彼女が僕の隣にいるのをしっかりと確認した後、僕はいよいよ切り出した。
「…僕がどういう”存在”かっていうのも、思い出した?」
「…妖怪、なんだよね?」
「……うん。僕と君は、同じじゃない。それでも君は、僕のことを嫌いにならない?」
彼女は、何て言うのかな。
今までの関係は、今日で終わってしまうのかな。
恐る恐る聞いてみると、真剣な声色をした彼女の声がした。
「例えあなたが、夜陰が妖怪であっても、夜陰が夜陰であることに変わりはないよ」
その言葉に、彼女に寄りかかっていた体を起こし、彼女の方を見た。
昔と変わらない、夜空の星々よりも美しい君の瞳。
君がその小さくて愛らしい口から紡ぐ言葉は。
「好きだよ、夜陰」
『よくよかんないけど、おにいちゃんがふつうじゃなくてもよかげおにいちゃんはよかげおにいちゃんじゃないの?こなつはおにいちゃんがすきだよ』
気付いたら僕は、彼女をぎゅっと抱きしめていた。
ああ、彼女は昔から変わっていない。やっぱり彼女は、僕を救い出してくれた彼女だ。
だけど、好きの意味は昔とは違う響きを持っていて。
ああ、好きだ、僕は君が好きだ。
「く、苦しい…」
「あ、ごめん!」
思った以上の力で抱きしめてしまっていたらしい。彼女が苦しくならない程度に力を緩めた。
嬉しくて、もうこの気持ちを抑えておくことはできなくて。
僕は彼女への想いを、彼女へとぶつけた。
「僕、嬉しくて!僕も小夏ちゃんのこと、ずっと昔から好きだったよ!」
「む、昔から!?」
「だって君は僕の、初恋の人だから」
あの時5歳だった君に、僕はずっと捕らわれている。
ずっと、好きだったんだ。忘れられなかったんだ。諦められなかったんだ。
「…夜陰は、お姉ちゃんに話しかけられてたけど、好きにはならなかったの?」
やっぱり、勘違いしていた。
ちゃんと訂正して、君の不安を取り除かなくちゃ。
じゃないと君は、また僕を置いていってしまいそうで不安になる。あの女性が彼女の姉であることは分かっていたけれど、知らなかったフリをして答えた。
「ん?ああ、あの人がお姉さんだったんだね。別に好きにはならなかったよ。僕が好きなのは、君だけだ」
「ええええ!?あんたそれでも男か!?」
「小夏ちゃん、僕が君のお姉さんに惚れたと思ってたの!?心外だ!僕は君しか見ていない!」
「だ、だってお姉ちゃんは私から見ても完璧な姉だよ!?皆と言っていい程皆、私と仲良くなった人は最終的にはお姉ちゃんの方に行くんだ!好きになるんだ!なんでならないの!?それでも男!?」
「好きな人がすでにいるのに、なんでその人以外を好きになるのさ!?」
「た、確かに…」
かなり動揺した様子だったが、とりあえず納得してくれたようだった。
「君と両想いになれるなんて…!」
彼女は動揺し過ぎて僕と彼女が同じ気持ちであることに気付いていなかったらしい。その事実に気付いたら、顔を林檎飴みたいに真っ赤にしていた。
君と僕が同じ気持ちだなんて。叶わないと、夢みたいなものだと思ってた。嬉しい。
だけど実際、気持ちが通じ合っても夢みたいなものだ。彼女と僕は、住む世界が違う。
彼女にきちんと、そのことを伝えなきゃ。
「異種族間の恋愛なんて、叶わないと思ってた。所詮、僕らは住む世界が違う。今年だってもう、明日からは会えない」
「え!?」
驚く彼女に、僕は抱きしめるのをやめて彼女に向き合い、詳しい説明をした。
明日から会えない理由。こちらに留まれない理由。その理由を話す度に、辛そうな顔をする彼女を見るのが、辛かった。
会えない理由を離さなきゃいけない自分が、許せなかった。彼女にこんな顔をさせる自分が、許せなかった。
早く、早く彼女と生きられる方法を探さなきゃ。そう、強く思わせられた。
「じゃあ、浴衣は?」
彼女は彼女なりに、僕と会える理由を探してくれているのかもしれない。
その言葉が、嬉しかった。
「浴衣は、小夏ちゃんが持っていて。来年も僕と君が会うための約束として」
「…分かった」
本当は彼女に贈ったと思っていた浴衣。それが君が会えない間の不安を埋めてくれるなら。
会えると信じられる約束が欲しいなら、僕は喜んで君にその約束を差し出そう。
俯く彼女の顔は不安そうで、泣きそうで。まだ何もしてやれない不甲斐ない自分に苛立った。
約束だけじゃ、次また会えると思えるほどには君の気持ちを満たしてはくれないかな。
なら、もっと強い約束を。僕の揺るぎない想いを君に差し出そう。
「ねえ、小夏ちゃん」
「…なに」
「難しいことは十分わかってる。僕たちが一緒になれないことは十分わかってる。夏しか会えないことは、十分わかってる。それでも、僕は君が諦められない」
彼女と生きていける方法が見つかるかなんて分からない。一生見つからないまま、終わるかもしれない。
でも僕は、諦めが悪いから。いくら頑張っても、一緒に生きていく方法が見つからないとしても、きっとそれでも探し続けてしまう。
11年経っても、想いは消えはしなかった。
これからも、僕の想いはきっと変わらない。それだけは、確かなことだから。
「僕の、恋人になってくれませんか?」
君の不安を取り除くために、僕の一生を君に捧げよう。
その想いを込めて、僕はまた彼女を抱きしめた。
彼女は答えに困っているようだった。
違う世界を生きていて、一年のうちに夏しか会えないというのは、君には耐えられないだろうか。
僕と彼女は同じ気持ちを抱いているのは確かだ。でも、その想いの大きさは、同じじゃない。僕は彼女がいないと生きていけないけれど、彼女にとってはそうではないだろう。
きっと、彼女の想いは風に吹かれたら消えてしまうくらいに小さい。
ずっと、友人だった。夏だけの友人だ。いきなり色んなことを言われて、受け入れるには圧倒的に時間が足りない。僕への気持ちだって、まだ戸惑っているような小さい恋心なんだろう。
僕は彼女に断られたら、どうなってしまうのだろうか。僕が生きる全ては、彼女と生きる為に捧げる。それが叶わなかったら。
両想いでも、僕らの間にある違いは物凄く大きくて。彼女が答えを出すには時間が全然足りなくて。
二人の間に流れる沈黙が、僕をどんどん不安にさせていく。
彼女がどんな答えを出すのかが怖くて、身体が震えた。怖い、怖い。
断られたら、僕は生きて行けない。どうしよう、僕は断られたらどうしたら…。
突然、彼女が僕をぎゅっと抱きしめ返した。
彼女は答えを、出したのだろうか。
「夜陰…正直、色々頭がついて行かないし、いきなりいろんなことを受け入れろって言われても、受け入れられないと思う」
彼女の言葉に、反射的に身体がびくりと震えた。
待って、その先は言わないで。待って。
彼女は、なおも言葉を紡ぐ。
「でも、きっとこれからも一緒にいれば、少しずつ受け入れていけると思う。私はあなたのことを、あまり知らない。あなたの世界のことに関しては、全然わからない。次元の狭間とか、夏しか会えないとか、はっきりいって意味が分からないことだらけだ。それでも…私もあなたが、夜陰が好きだよ。だから、これから、毎年夏しか会えなくても、普通の人たちより一緒にいられなくても、少しずつ互いを知っていけたらいいと思う」
「小夏ちゃん…」
それは。
その答えは。
「だから私、夜陰の恋人に、なりたいです」
僕を信じて待っていてくれると、受け取っていいのだろうか。
彼女の言葉を頭の中で反芻し、徐々に意味を紐解いていく。
彼女は、僕の恋人になってくれるって。本当に、そう言っているんだよね?
僕は恐る恐る、返事をした。
「ありがとう、小夏ちゃん。これからよろしくね」
「こちらこそ、ありがとう。そしてよろしく」
彼女は間違いなく、僕の恋人になった。
夜も遅くなってしまったので、彼女を家まで送り届けることにした。
昔と変わらないことをしているはずなのに、友人じゃなくて恋人として彼女を家に送り届けることができることが、とても嬉しかった。
彼女とはいつもと変わらない、他愛無い話をした。何も言わずとも、僕も彼女も自然と歩く速度はゆっくりで、二人で今年最後の時間を惜しみながら歩いた。
「ねえ、夜陰。あの浴衣の花って、意図して選んだの?」
話が途絶えて黙って歩いていると、彼女が突然そう問いかけてきた。
「そうだよ。だって僕のこと、思い出して欲しくて。忘れて欲しくなかったから」
「お、お前という奴は羞恥心は持ち合わせていないのか!」
「小夏ちゃんに対しては素直でいたいからね」
「こ、こいつ…!」
恥ずかしがっている彼女は、とても可愛い。
「小夏ちゃん、あの浴衣、来年返してくれる約束って言ったけど、もらってくれないかな?」
「え?なんで?」
元々贈ったと思っていた浴衣。
不安が取り除かれた今、あの浴衣は君に持っていてほしい。
「約束を取り付ける必要がなくなったから」
「必要が…なくなった?」
「恋人同士になれたから、もう会えなくなる不安がなくなって、必要なくなったんだ」
「おおお、お前という奴は…!」
恥ずかしがる彼女が可愛くて、少しからかいすぎたかもしれない。
だけど、僕の本心でもあるんだよ。
あっという間に彼女の家の前に着いてしまった。
もう、今年は会えない。
彼女が苦しそうな顔をして、僕と会えなくなるのを惜しんでくれている。それだけで、僕は十分嬉しいよ。
不安そうな彼女の手を、優しく握った。
「来年の君の夏休みに、また会いに来る。どうかそれまで僕のことを、忘れないで」
「うん…」
「僕は君を忘れない。僕を忘れそうになったらあの浴衣を思い出して。絶対に、会いに来るから」
「分かった。私も、あなたを忘れない…」
最後の別れに、彼女を抱きしめた。
来年の夏まで、もうこの体温を感じることができない。僕の夏は、もう今年は終わってしまう。
彼女を腕の中から出してしまうのが、辛かった。
「じゃあまた、来年」
「じゃあまた、来年」
その言葉を最後に、僕らのこの夏の逢瀬は終わった。
◇ ◇ ◇
自分の世界に戻ってから、僕はひたすら人間の世界について調べた。休日になれば祖父母の所へ通い、祖父から人間について色々と教えてもらった。
僕は持てる時間の全てを、彼女と一緒に生きる方法を探す為に費やした。両親とはそのことで大喧嘩をしたが、僕がまったく諦める気配がないと分かると大喧嘩は終息した。
僕が一度言い出したら聞かないことと、僕の彼女への想いの重さを知って、彼女と生きる方法を毎日模索する姿を見て、諦めがついたようだった。
見つけられないままに、時間だけが無情に過ぎていく。
だけどまだ、探し始めたばかりだ。文献に残っていたのだ、きっと方法はあるはず。
気付いたら、また夏が来ていた。
終業式が終わると僕はすぐに祖父母宅に向かった。まだ今年は次元の隙間はない。
落ち込みながらも、僕は祖父の書斎の人間の世界に関する書物を読み漁り、その日を過ごした。
次の日、いつもの紺色の着物を着て神社へ向かうと、隙間が出来ていた。
彼女は、僕を忘れないでいてくれただろうか。
彼女はまだ、僕を恋人だと思ってくれているだろうか。
最初は短い夏の友人だった僕ら。そんな僕らは今、恋人という関係に形を変えて関係を続けている。
僕は、隙間に手を伸ばす。一瞬体が浮くような心地がした後、見覚えのある神社の拝殿の裏へと出た。
拭いきれない不安を抱えながらいつものベンチへ向かうと、懐かしい姿が目に映る。
ああ、会いに来てくれたんだ。
声を掛けようとすると、彼女はベンチを立ちあがった。
「もう帰るの?」
去年彼女に声を掛けた言葉と同じ言葉を、思わず問いかけていた。
驚いて肩を揺らす彼女は、去年と同じ反応をしている。
彼女は今年も変わらず、そこにいてくれている。
「久しぶり、小夏ちゃん」
「夜陰!」
嬉しそうに笑う彼女が、夏の太陽みたいに眩しかった。
僕は、絶対に彼女と一緒に生きる未来を諦めない。この笑顔を、常に傍で見ていられるようにする為にも。
今年の夏もまた、僕らはこの神社で出逢った。きっと、来年も、再来年も。その先の未来も、僕らはここで出逢うだろう。
今は夏だけの恋人は、きっといつか夏だけじゃない恋人にしてみせる。
彼女の笑顔が眩しくて、僕も目を細めて彼女に笑いかけた。
これにてこの物語は全て終了となります。
最後までお付き合いいただきまして、ありがとうございました。