3 君へ贈る言葉
翌年、秋。
ヴァレリオン公爵領の大聖堂には、多くの人々が集っていた。
ヴァレリオン公爵家とノルドガルド辺境伯家の親類縁者をはじめ、王太后、春に世継ぎが誕生した王太子夫妻、王女シャルロットとアイゼンベルク公爵家嫡男ジーク。
さらに、ローゼンベルク侯爵家、マリステラ侯爵家、アーヴェル伯爵家をはじめとする数多の貴族が、新たな門出を祝うため参列している。
その規模は、王太子夫妻の婚礼にも迫るほど盛大なものだった。
花嫁の控室では、公爵夫人がエルナのヴェールを丁寧に整えていた。
その手を動かしながら、ふと、あの夜のことを思い返す。
(本当に、心配したのですよ……)
王宮を出たルシアンとエルナは、すぐ後ろを発ったはずなのに、いつまで経っても屋敷へ戻ってこなかった。
門の守衛から、オスカーが「少し散歩をしてから戻る」と伝言を残していたと聞かされた時は、何事が起きたのかと胸がざわついたものだ。
側仕えや護衛騎士も同行していたため、万が一の心配はしていなかった。
それでも、気が気ではなかった。
そして、ようやく帰ってきた二人の表情を見た瞬間、その心配は杞憂だったのだと悟る。
「式の日取りを決めたい」
そう穏やかに告げた息子を見て、公爵夫人は隣に立つ夫とそっと視線を交わした。
ようやく、この子は自分の想いを伝えられたのだと。
「さあ、これでよろしいでしょう」
公爵夫人が数歩下がり、花嫁姿のエルナへ目を細めた。
純白の花嫁衣装は、公爵領の職人たちが一年もの歳月をかけて仕立て上げた、まさに渾身の一着だった。
幾重にも重なる柔らかなレースには、公爵家の紋章である宝石を抱く鳳凰と月桂樹、そして辺境伯家の紋章である盾を抱えた銀狼と針葉樹が、一本一本の糸で精緻に織り込まれている。
花嫁の歩みに合わせて揺れる長いヴェールにも、同じ意匠が途切れることなく連なっていた。
「あまりにも細かい仕事で、職人たちが泣き言を漏らしておりましたよ」
そう言って公爵夫人は、小さく笑う。
それでも誰一人として手を抜こうとはしなかった。
この世でただ一人、公爵家へ迎える花嫁のために。
一生に一度しか訪れない、今日という日のために。
エルナは鏡へ映る自分の姿を見つめ、小さく息をついた。
大聖堂には、数え切れないほどの人々が集まっている。
そう思うと、胸の奥が少しだけ強張る。
けれど、不思議と不安はなかった。
その心は、これから始まる未来への希望で満ちていた。
家族と暮らした辺境伯領を離れる寂しさは、もちろんある。
それでも、公爵夫人がそばにいてくれる。
その温かな笑顔が、これからは母として自分を迎えてくれるのだと思うと、自然と肩の力が抜けていった。
祝福の舞台を前にして、早くも控室にはすすり泣く声が響いた。
「だめ……もう泣いちゃう……」
花嫁姿の義妹を見つめるヒルダは、今にも涙腺が決壊しそうだった。
「あらあら」
辺境伯夫人は苦笑しながらハンカチを差し出す。
「ありがとうございます……」
受け取ったヒルダは目元を押さえるが、涙は止まりそうになかった。
辺境伯夫人は改めて娘へ視線を向ける。
いつの間にか、親の知らないところでも立派に歩める娘になっていた。
少し前までは馬に乗って領地を駆け回り、家臣の子どもたちと木登りや雪合戦をして遊んでいた娘が、今ではこうして公爵家へ嫁ぐ日を迎えている。
込み上げるものを堪えきれず、辺境伯夫人も静かに目元を潤ませた。
今度は公爵夫人がそっとハンカチを差し出す。
「泣くのは、式が終わってからにしてくださいませ」
その一言に、控室は小さな笑いに包まれた。
情に厚い人たちばかりなのは、困りものだった。
「そろそろ、あの子を呼びに行きましょうか」
花嫁衣装は、仕立ての途中ですらルシアンには見せなかった。
試着の際も、公爵夫人は頑として立ち入りを許さなかった。
きっと今ごろ、誰よりも早くエルナの花嫁姿を見たいと待ちきれずにいることだろう。
「エルナぁ……またあとでねぇ……っ」
涙をこぼすヒルダの背を、辺境伯夫人が優しくさすりながら控室を後にする。
公爵夫人も静かに扉を閉めた。
控室は、しんと静まり返った。
先ほどまでの賑やかさが嘘のように消え、聞こえるのは自分の鼓動だけ。
いよいよなのだ。
エルナは胸の前でそっと手を重ね、小さく息を整えた。
やがて、控えめなノックの音が響いた。
ゆっくりと扉が開く。
ルシアンだ。
月を映したような銀髪に、冬の湖を思わせる青い瞳。その瞳を縁取る、煙水晶の丸眼鏡。
漆黒の礼装には白いベストと白いネクタイ、そして白い手袋。
銀糸で鳳凰と月桂樹の刺繍が施され、公爵家の紋章を戴く紺地に金縁のサッシュが、その胸を凛々しく彩っていた。
まるで月夜に舞い降りた貴公子のような姿に、エルナは思わず見惚れる。
やがて、ルシアンはゆっくりと歩み寄った。
「エルナ……」
名を呼ぶ声は、どこまでも優しい。
青い瞳が細められる。
もう、あの日のように言葉をためらうことはなかった。
「綺麗だ」
そのひと言に、エルナは柔らかな笑みを浮かべた。
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