第一章 完璧な食卓
第一章 完璧な食卓
クチャ、クチャ、クチャ……。
遮光カーテンが引かれた薄暗いリビングに、ひたすらに水分の多い粘着質な音が反響している。
クチャ、ネチャ……チュルッ。
目の前の特等席で、妻の理沙がゆっくりと、ただひたすらに顎を動かしている。
ダイニングテーブルの上には、パステルカラーの可愛らしいお皿が並べられ、そこに理沙の手作りハンバーグが綺麗に配膳されていた。彩りの良いニンジンのグラッセと、ブロッコリーが添えられている。
しかし、理沙はフォークで切り分けたハンバーグを俺の口に運ぶことはしない。すべて自身の口に放り込み、咀嚼するのだ。
彼女の艶やかな唇がわずかに開くたび、細かく噛み砕かれた挽肉と、大量の唾液が糸を引いて混ざり合う光景が覗く。肉汁と濃厚なデミグラスソースが理沙の口内で完全にすり潰され、ドロドロのペースト状へと変わっていく音だった。
「……ん、クチャ……チュプ……」
理沙は目を閉じ、恍惚とした表情で咀嚼を続けている。
肉の繊維が奥歯で断ち切られる微かな振動音。舌の上でソースと唾液が撹拌される水音。飲み込むことをギリギリで耐え、ひたすらに食感を破壊し、液体に近い状態になるまで練り上げる。
五分。いや、十分だろうか。
俺はダイニングチェアに深く腰掛けたまま、その執拗な咀嚼音のシャワーを全身で浴びながら、雛鳥のようにただただ口を開けて待っていた。
俺たちは今、『おままごと』をしている。
幼い頃、誰もが一度は通ってきたあの無邪気な遊びだ。おもちゃのお皿に料理を並べ、「パパ、ごはんよ」「ママ、美味しいね」と笑い合う。
俺たちは、三十を過ぎてからその遊びの「究極形」に行き着いた。
お皿に綺麗に配膳するところまでは同じだ。だが、いい大人が本気でやるおままごとは、そこから先が違う。
本物の愛を確かめ合うこのおままごとでは、ママがすべての料理を完璧に咀嚼し、パパに直接口移しで与える。これが俺たちの、最も純粋で、最も狂気のない『究極の家族の食卓』のルールだった。
「……うん、パパ。ママが美味しくしてあげたわよ」
理沙の顎がようやく止まった。唇の端には、茶色く濁った肉のペーストが微かに付着している。
「あーんして」
「あーん」
俺が大きく口を開けると、ふわりと甘い香水と、生温かい肉の匂いが混ざり合った香りが鼻腔をくすぐった。
理沙の顔がゆっくりと近づいてくる。
彼女の吐息が俺の鼻先にかかり、次の瞬間、俺たちの唇が隙間なく塞がれた。
チュッ……ジュルル、グチュ。
生温かく、原形を留めないほどにすり潰されたハンバーグが、理沙の舌に押し出されて俺の口内へとゆっくり流れ込んでくる。
それは一度にすべてが入ってくるわけではなかった。理沙はまるで、本当に赤ん坊に離乳食を与えるかのように、少しずつ、少しずつ、自分の舌を使って俺の舌の上へと肉の泥を乗せていく。
ジュプ……チュル、ネチャァ……。
互いの舌が絡み合い、デミグラスソースの塩気と、理沙の甘い唾液が完全に一体化して口の中を満たしていく。
俺はそれを一切噛まない。噛む必要がないからだ。
ママが十分な時間をかけて砕いてくれたそれを、パパはただ受け入れるだけ。
だが、口移しはまだ終わらない。
理沙は俺の口内に残ったわずかな隙間を埋めるように、何度も舌を這わせ、自分の口内にある最後の一滴までを絞り出すように押し付けてくる。
クチャ……ジュル……チュポ。
息継ぎのためにわずかに唇が離れると、二人の間に茶色く濁った唾液の糸が細く長く引かれた。プツンとそれが切れると、理沙は再び唇を重ね、さらに奥へと押し込んでくる。
(まだ……まだ入ってくるのか……)
俺の口の中はすでに限界まで満たされていたが、理沙の舌は休むことなく動き続け、俺の喉の奥へと肉のペーストを追いやろうとする。呼吸が苦しくなり、鼻から荒い息が漏れる。それでも彼女は、俺が完全に飲み込むまで絶対に唇を離そうとはしない。
ジュルル……グチュ……ゴクリ。
大きな嚥下音が部屋に響いた。ようやく、すべての肉が俺の胃袋へと落ちていった。
「美味しい?」
ゆっくりと唇を離した理沙が、指先で俺の口元から溢れたわずかなソースを拭いながら微笑んだ。その顔は、ただひたすらに優しい「ママ」のそれだった。
「ああ、美味しいよ。すごく柔らかくて、肉の旨味がよく出てる」
「よかった。次は付け合わせのニンジンさんにするわね」
理沙はフォークを取り、可愛らしいお皿の上にちょこんと乗ったニンジンのグラッセを刺して、自身の口へと放り込んだ。
コリッ、クチャ、クチャ……。
硬い根菜が歯で砕かれ、再び粘液質な音へと変わっていく。
クチャ、ネチャ……ジュル。
綺麗に配膳された食卓を前に、終わりのないおままごとは続く。密室のマンションの一室に、今夜も濃厚な咀嚼音だけが、幸せの証明のように延々と響き続けていた。




