第二章 5
疑問符を浮かべていたシャロンをよそに、写真集作成は滞りなく進められた。
こうなると商人として天才的な嗅覚を持つラルフの独壇場だ。次々と子細が決まっていき、気づけば『事務局会員限定写真集』が出来上がっていた。
顧客名簿に登録されている人しか買えないと判明すると、事務局に入会する人がさらに増加した。また噂が噂を呼び、上流階級で話題になっていると察した商人や、裕福な一般市民なども加入し始める。
増え続ける会員数と会費。
だがここで、写真集作りに一つ問題が発生した。技術的な問題があり、会員すべてにいきわたる部数は発行できないというのだ。
しかしラルフはそれすら逆手にとって『抽選による購入権』を提案した。
写真集を手に入れるには事前に申し込みをせねばならず、当選した会員だけが購入できる。また手渡す際、シャロンが握手と署名を行うと銘打ったものだから、そこから先はまさに阿鼻叫喚の地獄となった。
発行される部数が少なく、次いつ手に入るか分からないという希少さは、男性たちの所有欲を煽り、申し込みは殺到した。中には偽名を使い、何回も申し込むものもあらわれたため、当日は身分証代わりの紋章の掲示が義務づけられることとなった。
「いやあ……実に素晴らしい……」
「……」
当選者リストを眺めながら、ラルフは恍惚とした表情を浮かべていた。彼の大好きなお金が、何もしなくても自ら懐に飛び込んでくるのだから、愉悦以外のなにものでもないだろう。対してシャロンは複雑そうな様子だ。
「あなたに恋する男性たちがこんなにも。やはり私の目に狂いはありませんでした」
「お兄様……少し、やりすぎではありませんか?」
「登録費用も書籍の代金も、良心的な価格に設定しています。嫌だと思う人間は申し込まねばいいというだけの話です」
「それは、そうなのですが……」
もちろん嬉しそうなラルフの姿が見られるのは、シャロンにとっても喜ばしいことだ。だが元々は一介のメイドでしかなかった自分に対し、ここまで多額のお金を使わせていることに、シャロンは罪悪感を覚え始めていた。
だがそんなシャロンの憂鬱を感じ取ったのか、ラルフは眼鏡の奥を優しく細める。
「大丈夫、あなたはもう立派なアイドルです。ここまで来るのに、あなたがたくさん努力してきたことを私はちゃんと知っています」
「お兄様……」
「あなたはもうただの女性ではない。男性たちを虜にし、女性たちの憧れとなる『アイドル』として、新しい舞台に上がる時なのです。その自覚を持っておきなさい」
「……はい」
ラルフの言葉を受け、シャロンはそれ以上の言葉を呑み込むしかなかった。
そして開催された握手会は、大変盛況なものとなった。
ラルフの邸にある大ホールで開催されたのだが、抽選にあぶれた会員たちが一目でいいからシャロンを見ようと押し寄せたため、邸の外周を取り巻く人垣が出来ていた。
玄関ホールでは、当選者の証である手紙と、身分証代わりの紋章を抱えた貴族たちが、得意げに入場していく。男性だけではなく女性の姿もあり、会員たちは改めてシャロンの人気の幅広さを思い知ることとなった。
ホールの奥では山積みにされた写真集と、本物のシャロン――それを守るようにラルフとサルタリクスが待ち構えていた。当選者は念願のアイドルと間近で会えたことに感激し、さらに握手されることで泣き出すものまで現れた。
シャロンが署名をすると「家宝にします」と涙ながらに宣言するファンもおり、シャロンはそれらすべてに、ありがとうございますと丁寧に応対し続けた。そんなやり取りが朝から晩まで――遠方から来る相手のことも考慮し、握手会は三日三晩続けられた。
「――ありがとうございました!」
シャロンは相手が見えなくなるまで手を振ると、扉が完全に閉まったのを確認してから、ようやく腕を下ろした。握手会を始めた当初、あれだけ積まれていた写真集が今や影も形もない。
「お疲れさまでした。先ほどの方で最後ですね」
「は、はい……無事に終わって、良かったです……」
レッスンよりも激しい疲労感に、シャロンは椅子にぐったりともたれかかった。食事も簡素なものしか食べていないし、飲み物も最小限に抑えていた。空腹感はないが、おそらく中枢が麻痺してしまっているのだろう。
「あとで食事を運ばせますから、今日は自室に戻ってゆっくり休みなさい」
「はい。ありがとう、ございま――」
ラルフの言葉に微笑み返したシャロンだったが、突然ぐらりと頭の奥がかき混ぜられるような不快感に襲われた。慌てて気を保とうとするが、一瞬で視界が濁り、手や足に力が入らなくなる。
(あれ、わたし、どうして――)
「――シャロン? シャロン⁉」
どこか遠くで、ラルフが必死に名前を呼んでくれている。
(ラルフ、さん……)
どこか幸せな気持ちに包まれながら、シャロンはそのまま意識を失った。
次にシャロンが目覚めた時は、ベッドの上だった。
「――シャロン、大丈夫ですか?」
「お、にい、さま……? わたし、一体……」
視線をずらすと、今まで見たことがないほど焦燥した様子のラルフが、シャロンを覗き込んでいた。その必死な顔つきに、シャロンは思わず首を傾げる。するとラルフもまた安堵のため息を零したかと思うと、ぽつりと口にした。
「倒れたんですよ。握手会が終わると同時にぱったりと」
「たおれ……えっ⁉」
するとシャロンは大きく目を見開き、慌てて体を起こそうとした。だがすぐにラルフから止められる。
「起きてはいけません。今日はこのまま安静にしていなさい」
「でも、今日の分の勉強がまだ……」
「あなたの体の方が大切です。明日もレッスンは休みにしましょう」
諭すようなラルフの声に、シャロンも観念したように頭を枕に戻した。やがて恥ずかしそうに毛布を口元まで引き上げながら、眉尻を下げる。
「あの、誰がわたしをここまで……」
「私が運びましたが」
「で、ですよね! すみません、本当に申し訳ないです……」
聞かなければ良かった、とシャロンは改めて後悔する。
(は、恥ずかしい……体調管理もアイドルの仕事のうちだと言われていたのに……)
だがラルフは特段怒っている様子もなく、ただじっとシャロンの目を見つめていた。そのあまりに熱心な視線に、次第にシャロンの方が困惑し始める。
「お兄様……?」
「――いえ、何でもありません」
何か欲しいものは? と聞かれ、シャロンはふるふると首を振る。するとラルフはシャロンの額に手を伸ばすと、そっと前髪を押し上げた。少し冷たいラルフの手のひらの感触に、シャロンは心地よさそうに目を瞑る。
「本当に、申し訳ありません。無理をさせてしまいました」
「そ、そんな! お兄様のせいじゃありません!」
「ですが……」
「わたしなら大丈夫です。アイドルとして、また頑張りますから」
「……」
「だから、そんな悲しい顔しないでください……」
そう言うとシャロンは、額に押し当てられていたラルフの手に、自身の手のひらを重ねた。ラルフが愁色を濃くするのを見て、シャロンは何故か涙が込み上げてくる。
頭がひどく痛い。熱が出ているのかもしれない。思考回路がおぼつかない。
(なんだか、ぼーっとする……)
シャロンは静かに瞼を閉じる。
睫毛に押し出されるように、涙がぽろぽろと頬に零れ落ちていく。
「――ラルフさん、ごめんなさい。……わたし、せっかくあなたの商品になれたのに、こんな情けない、ことで、迷惑をかけてしまって……」
「……シャロン?」
「ごめんなさい、……ごめんなさい……」
やがてシャロンは、再びぐたりと眠りに落ちる。
脱力した手を毛布の中に戻してやりながら、ラルフは一人何かを考えこんでいるようだった。




