10 彼と近付く少女
優弦が勘違いをして美和のポーチを男子達から取り返した事で美和との仲は元に戻り、結果的に佳乃子と合わせて三人の仲が良くなった。
「もうすぐ中間テストだねー。二人共勉強してる?」
昼休み、教室内にいる優弦達は席に固まって話をしており、佳乃子は嫌そうに二人に聞く。
「してないしてない。平均点取れればいいんだから一夜漬けでも何とかなるし」
「美和ちゃんの勘て結構当たるもんね」
テストに向けての勉強は特にしておらず、美和は前日にだけやるらしい。それで点が取れるのならば彼女は一夜漬けが合っているのかもしれない。
「私も一週間前からやるだけかなぁ。優弦ちゃんは?」
あの一件以来、優弦への呼び方は名前に変わっていた。
「……私もしません」
「えーっ勉強しないの!? 優弦ちゃん絶対すると思ってたのに」
「…………」
――テストに向けて何かしているというわけではないし……。でも毎日やっている予習復習もある意味テスト勉強になるのかな。
佳乃子になぜか驚かれたので実はしていたのかと彼女は考える。
「優弦は授業だって真面目だし、家帰っても復習するタイプだから何か特別にはしてないって事でしょ」
まるで通訳するように優弦の意図を汲み取り、美和はそう説明した。
佳乃子もなるほど、と相槌を打つ。
「うんうん、そうだよねきっと。鶯林行ってたんだから勉強してないはずないよね」
その時、ふっと一瞬だけ優弦の眉が動いた。
「……鶯林かぁ。そういえばずっと聞いてなかったけど、何でこっちに来たの? あそこならエスカレーター式なのにさ」
「私も不思議だった。何でだろうって」
二人共ずっと気になっていたようだ。この質問は以前健にもされている。だがその時優弦は具体的な言葉で答えていない。
「…………」
優弦の脳裏に思い浮かぶ、中学三年の最後の学期。
狭い密室の空間、男性教師、手と肩に触れた硬い感触の手。
「優弦ちゃん?」
「…………」
考え込んでしまった優弦に佳乃子が心配そうに声をかけてきた。
自分の世界に入ってしまいそうだった優弦だが、辛うじて現実に戻ってくる。
「……はい」
「言いたくないなら言わなくていいよ。家庭の事情とかもあるんだろうし」
何故エスカレーター式に入学できる学校をやめてまでして違う高校を選んだのか。
その事はあまり人には言わないようにと両親から言われている優弦はやはり二人にもその件については口を塞いだ。
「はい。すみませんが……」
「ま、それはもういいけど……。んー、それよりさぁ」
どこか違う方を見ていた美和が少し前へ乗り出し、優弦と佳乃子だけにしか聞こえないようにこそっと話し出す。内緒話のような感覚に優弦の心は少しワクワクした。佳乃子も「何々?」というような顔をする。
「優弦って伊勢谷君から何も言われてないの?」
「…………」
「何もって? って思ってるよ、優弦ちゃん」
「うん。私にも分かる」
言葉には出さないが優弦の言いたい事は二人に伝わっているようだ。
「……優弦と伊勢谷君、たまに一緒に帰ってるでしょ?」
「…………ええ、まぁ」
優弦も大輝も特に部活に所属しているわけではないので帰宅時間は一緒。帰る時はいつも大輝から誘われているだけだが、週に何回か一緒に帰っているのは事実だ。
「こんなにアピールされてるのに、優弦ちゃん何も感じない?」
「…………」
ここでまた優弦の頭の中に「アピールとは何の事でしょう」という疑問が浮かび、その事を考えながら教室の前方にいる大輝を眺めた。
一緒に帰るのは特に断る理由も無いから。帰り道一人になるよりは安全だろうからと、そういう事を最近大輝は言っていたが。
美和と佳乃子がまた大輝絡みで色々と言ってくるので、優弦は今回も何かやらかしたのではないかと考え込む。
「…………私はまた大輝君を傷付けるような事をしてしまったんですね。そしたらもう彼とは……」
「違うって、話飛びすぎだから。優弦は伊勢谷君といてどう? 楽しい? 楽しくない?」
優弦の考えをはっきり否定する美和に、きょとんとした表情を見せた後、優弦はまた大輝の事を見た。
――……大輝君といるのは楽しい。彼の顔を見ているだけでも楽しいし、一生懸命話をしてくれるのも、私の話を我慢強く聞いてくれるのも、とても嬉しい。いつもにこにこして、本当に太陽みたいな人。
今も大輝は隼人とお喋りしながら満面の笑みを浮かべている。眩しいくらいに感じるその笑顔に優弦の体の中心がぎゅっと締め付けられた。
「……楽しくて、嬉しく思います」
その優弦の素直な気持ちを聞き、佳乃子と美和は顔を見合わせた。
「どう思う? 美和ちゃん」
「これはまぁ間違いないと思うけどね。抱き着いて安心できるのは伊勢谷君だけ。一緒にいて楽しいと思う。もう決定的でしょ」
「…………」
何の事でしょう。
たまに二人は大輝の話を振ってきては優弦が分からないような会話をよくする。しかし自分は関わっていいか判断つかないので、優弦は決まってそれを傍聴するだけだった。
「あのさ、優弦ちゃん。それって伊勢谷君の事を……」
「蓮見さん」
「……望月君」
佳乃子が最後まで言う前に優弦の事を健が呼んだ。
いつものように笑みを浮かべ、優弦を見る。
「先生が学習委員の仕事があるから来いって言ってるんだけど」
「はい。では行きます」
そう言ってから優弦は椅子から立ち上がり健の後に続いて教室を出て行った。
二人の後ろ姿を見てそれがなくなってから美和が口を開く。
「……佳乃子の見解は?」
「うーん。……望月君も侮れないよね」
健の優弦への気持ちは、大輝と同様クラスメイト全員が気付いているものだった。
美和と佳乃子は優弦と大輝が男女間の仲としては良いものだと思っているのだが、本人達はそれには気付いていないし、何より優弦がそういう感情に疎い。
圧倒的に距離を縮めているのに彼女達の間には誰かのつま先さえ入ればあっという間にその距離は開いてしまうのだ。
「伊勢谷君と違って女の子のデリケートなとこをすぐに感じ取ってくれるし、見た目も爽やかだしねぇ。優弦相手だからまだ何の進展もないようだけど、違う子だったらすぐに彼女になっちゃってるね」
健と美和達は同じ中学出身だ。その時代から気遣い上手な健は女の子達にモテていた。しかし健自身があまり相手の子に本気になれないため別れては付き合いの繰り返しだった。
「でも、望月君よりは伊勢谷君の方が優弦ちゃんと合うよ……」
「あの天然具合だから似た者同士の伊勢谷君とってのが理想なのは間違いないかな」
でもねー、と美和は視線を大輝の方に逸らす。
相変わらず大輝は無邪気な笑顔で隼人とお喋りをしていた。
「やっぱり危うさを感じてないのは問題かも。……一緒に帰ったりするだけじゃ何にも進展ないし」
二人が一体どういう会話をしながら帰っているのか美和は知らないが、交際に発展するような会話をしていない事だけは分かる。
「そうだけど……。優弦ちゃんと一番仲が良いのは伊勢谷君だよ?」
「それだけじゃ駄目なんだってば。いくら一番仲良いからって恋人になってるわけじゃないじゃん。私達でさえまだ優弦の事ちゃんと分かってないからね……どう転がるか分かんないよ」
大輝としたら付き合う事が本望なのだが、一筋縄ではいかないだろう。
優弦はそういう危うさを持っていた。
「じゃあコピー機2台あるから最初に全教科分印刷しちゃおう。蓮見さんは現代文ね。俺は古文やるから」
「はい」
放課後のコピー室。
担任からテスト範囲を各教科分原本を預かった学習委員である優弦と健はそれらをクラス全員分印刷するように頼まれた。コピー機はしばらくフル稼動だ。
「ライティングの範囲40ページかぁ。結構広いね」
「…………」
聞こえているのかいないのか。健の話には応えずコピー作業に集中している。
めげずに健は続けた。
「……蓮見さんは普段から勉強してるし、全然余裕そう」
「…………」
ここでもまた無視されるのか……。
そう思った健の限界は早かった。
「ねぇ蓮見さん、聞いてる? 俺の話」
「……はい」
「聞いてるなら何か反応して欲しいな」
「…………特に質問があるようではなかったので……」
話し掛けられても問い掛けられているわけではないので何も返さなかったらしい。相手に興味を持たない子だなと分かってはいたけれど、まさかここまで関心を寄せられないと悲しくなってくる。
けれどあの人物に関しては例外のような気が、健はした。
「伊勢谷とは、結構長く会話してるみたいだよね」
「…………大輝君、ですか」
流れ落ちてくる印刷物を見ていた優弦の目が、初めて健の方へと向く。
「反応違うね、アイツの事になると。最近一緒に帰ってるみたいだし……。伊勢谷だけにはやっぱり特別な感情持ってるんじゃない?」
「…………」
特別な感情。
それは一体何なのか。
優弦は答えを求めるようにじっと健を見るが、彼は笑って誤魔化した。
「……鈍感中の鈍感だな。俺、男女間に友情なんて有り得ないと思ってるから、余計分かるんだよね。特に蓮見さんは分かりやすいくらい態度で示してるし」
「…………すみません。とても、難しいお話です」
頭の良い優弦でも、人間関係についての個人的見解を話されてもすぐには理解できない。
けれど健には都合が良かった。
今は一方的に話すだけ。それで彼女の頭の中がぐちゃぐちゃになればいいと思っていた。
「他の人にとったら全然簡単に分かっちゃう事なのにね。蓮見さんって、扱いにくいようで扱いやすいな……。そこがまたいいのかもしれない」
「…………あの……」
「このままずっと一緒にいたら、俺の気持ちも分かってくれるのかな……」
「あの…………すみません、」
健が愛でるような目で優弦を見詰めるが、彼女は平常心で呟き、コピー機の電源を落とす。
「……17時になりましたので、これで帰らせていただきます」
出来上がった印刷物をまとめ、優弦はそれだけ言うとコピー室を出て行ってしまった。
健を敬遠してこの場を離れたのか、それとも本当に帰りたかったからああ言ったのか、健には分からない。
でも、警戒はされただろうな。苦笑しながら健はコピー室の鍵を掴んだ。
「優弦ちゃん」
優弦が玄関を出ると、彼女を呼ぶ声が近くから聞こえてくる。
スポーツバッグを肩から提げながら大輝が寄って来た。
「…………」
「えーっと……まだ靴があるから、いるのかなぁと思って」
――何か聞きたそうな顔。
優弦にもそれが分かった。
「……学習委員の仕事をしていました」
そう答えると大輝の顔は和らぎ、けれどすぐに険しくなった。
「あ……そうなんだ。てことは、望月と一緒だったの?」
「はい」
大輝はキョロ、と周りを見渡す。健の事を探していた。
「でも、優弦ちゃん一人?」
「はい。時間も遅いので先に終わりにさせてもらいました」
「そっ……か。うん、玄関にもいないし……」
ようやく納得したのか、大輝はホッと息をつく。
――望月君の事が気になるのでしょうか。彼ならまだコピー室にいますよと伝えた方がいいような……。
なぜ大輝が健の事を気にかけているのか分かっていない優弦はそんな風に考えるが、彼女がそれを提案する前に大輝が歩き始めた。
「じゃあ、今日もまた一緒に帰ろう」
「…………」
――……もし大輝君が望月君の事を探していたのなら、私はそれを言った方がいいのに、なぜだろう。言いたくないような、そんな事を考えてしまう。
今までに感じた事の無い感情を優弦は生みだそうとしている。いや、既に感じ始めていた。
健と共にいた時とは随分違う、この安心感のようなものを手離したくない。
少し先で待つ大輝の傍に優弦は立った。
「…………」
「よし、行こっか」
「……はい」
(伊勢谷だけにはやっぱり特別な感情持ってるんじゃない?)
コピー室で言われた健の言葉が頭に浮かぶ。
特別な感情。
もしかしたらこれがそういうものなのだろうか。
――……特別……。
しかしそれがどういうものから生まれる感情なのか分からない優弦だった。
そしてそれから一週間、事態は思わぬ方向へと展開していった。
もう10話です。早いですが、思い描いている終わりがまだまだ見えません……(焦




