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第01話 孫臏転生す

時は紀元前300年頃、中国の戦国時代。斉の国に孫臏という名の若き軍師がいた。彼はその卓越した戦略眼と知識で数々の戦いを勝利に導き、名声を博していた。しかし、彼は才能を妬む者に裏切られ、両足の筋を切断されるという憂き目にあっていた。車椅子に座ったまま、彼は自らの意図を盤上に示す。過去の憎しみはそのままにして、目の前の謀略へと身を投じるのであった。祖先と言われる孫武の兵法書を読み込み、当時の軍略を最新に改め、更に心理作戦を交えて敵を追い詰める。心理戦は裏切られた者だからこそできる芸当であったろう。直接的な兵力の比較とは異なり、地形を駆使するだけでは済まない。謀略に誘い込み、相手の心理を読み解き、更に手を打つ。孫臏はその才能を遺憾なく発揮し、斉の国を守り抜いた。


孫臏が一定の地位を確立した頃、戦場への視察に誘われた。斉の軍勢が押している戦場はまさしく孫臏が作り上げたものだ。孫子の兵法における地の利と絶対的な戦力で押し、確実に着実に敵を追い詰める包囲網の中で敵は逃げまどい、味方は悠々自適に戦場を見下ろすことができる。孫臏は、車椅子から降りて杖を突きながら戦場を見下ろしていた。順調に地を奪っていく自軍を見ていた。

そして、孫臏の背に矢が刺さった。

彼は驚き後ろを振り向こうとしたが、既に体が動かなくなっていた。車椅子の背があれば防げた矢である。まさか、ここで裏切りがあったのか、それとも敵の矢であったのか。孫臏はぼんやりとしつつある意識の中でそう思った。謀略に長けた孫臏でありつつも、最後に矢により倒れたことは彼の汚点になるだろう、と考えた。彼はそのまま意識を失い、戦場に倒れた。


「亜子、亜子、大丈夫?」


幸いにして孫臏は目覚めた。死を覚悟しつつも、自分はまだ生きているようだ。背中の傷が痛む……ことはない。どのくらいの時間が経ったであろうか。治療して背中の傷は癒えたのだろうか。そもそも、自分は車椅子で過ごすほどであったから、背中に矢が刺さったとしてもあまり問題ではない。普段通り車椅子で過ごせばよいことだ。

孫臏は周りを見渡した。

見知らぬ部屋であった。いや、そもそもが戦場ではなかった。土埃と血の匂いのする戦場が懐かしく思えるほど、そこは何もない部屋だった。いや、紙……だろうか、床にたくさんの紙が散らばっている。手軽な木簡ではなく、紙が散っているのは実に贅沢だ。こんなにたくさんの紙は見たことがない。


「亜子、大丈夫?」


若い女性が孫臏の傍らに立っていた。自分はとこではなく、ゆかに寝ていたらしい。戦場の土の上でなくて幸いではあるが、せめて布を敷いて欲しいところだ。


「お前は誰だ?」

「お前……って、あの、亜子、どうしたの?」


自分の声が部屋に響き渡った。さほど大きな声を出しているわけではない。自分の声のような気がしない高い声だった。まるで、そう、女性にょしょうのようだ。女性が戦場に居る訳がない。しかし、自分は背中に矢を受けたのだから、戦場から離れたのかもしれない。医官がいれば男のはずだが、隣にいるのは女性だった。しかし、奇妙な着物を着ている。なにやら黒い服を着ている。どこかの西洋の貴族かもしれない。西洋の貴族は、そのような不思議な服を着ていると聞いたことがある。そうなると言葉を改めねばなるまい。


「いや、失礼した。あなたはどなたですか?」

「・・・亜子、ちょっと待って、いま部長を呼んでくるから」


ひとり孫臏は残され、体を起こして周りを見回した。

部屋には紙が散らばっている。貴重な本がたくさんならんでいる。不思議な黒い板が並んでいて、絵が動いている。え?絵が動いている?なんだ、まるで生きているような絵ではないか。これは、え、ひょっとして、まさか、異世界転生というやつでは?


そう、孫臏が思ったかどうかはわからないが、孫子の時代にはまだ異世界転生は無かったはずだ。未来から過去へ飛ぶことができるのはドラえもんの世界ぐらいなものなのだ。『戦国自衛隊』は昭和初期に飛ぶ。医者が江戸時代に飛ぶ話もある。異世界なのか、いや、違う、つまりは過去から未来に飛んでしまったのである。


「え、ちょっと、待って。斉の軍勢はどこに行ったの?戦況の結果はどうなったの?いまの状況を誰か教えて」


孫臏は混乱しながらも、亜子の声と思考に侵食されつつあった。いや正確に言えば、亜子の思考を孫臏が侵食していったといっても過言ではない。


部長がやってきた。


「ああ、よかった。目を覚ましたのだね。孫さん」

「はい、ええ、目を覚ましたのはいいのですが、状況がわかりません。私は一体どうしたのでしょう?」

「まあ、落ち着いてください。あなたは、メールを見て倒れたのですよ。状況は私にもわからないけど、どうやらプロジェクトの過労が祟ったのかもしれません。随分の激務でしたからね。いや、そこでゆっくりと休んで欲しいのはやまやまではあるのですが、状況も状況でしてね。マネージャとしてここで倒れられても困るのです。まだがんばれますよね?」

「部長・・・」


状況は把握できないが、最悪な事態になっているのは確かなようだ。若い女性が心配そうに私を見つめてくる。亜子と呼ばれる私のことを心配しているようだった。


「じゃあ、ええと、亜子、私はちょっと忙しいから、ここは部長に任せて、また後で、ね」


心配しているのだろうが、関わりになりたくない態で、若い女性は去って行った。少々、呆れつつも戦場ならば持ち場を離れるわけにはいかないだろう。


「部長、私は一体、何をすればいいですか?」

「そうですね。まずは、このプロジェクトの惨状を把握しましょう。どうやら、あなたが倒れたことでプロジェクトは先ほど来たメールにより、更に悪くなってしまったようです。外注していた会社が違法行為をしていたことが発覚し、プロジェクトが更に悪くなっています。先方の不都合がまるっとこちらに降り掛かってきます。いわゆる、背を刺されたという感じですね」

「背を刺された?」

「ええ、まあ、喩えですよ。もともと状況が悪いところに、更に悪いことが重なってしまったのですが、会社としては逃げる訳にはいきません。ここでは、孫亜子さん、あなたの力が必要なのです」

「ああ、ええ、それは、重々承知していますが、軍師として」

「軍師として、ですか?まあ、そうですね。昔で言えば軍師、現在でいえばプロジェクトマネージャーというところですね。では、引き続きよろしくお願いしますね」


つまり、わたし孫臏は、孫亜子として、転生したようだ。プロジェクトというものが大変な状況になっているが、これは今までと変わらない。何も変わらない。多分、変わらないのだけど、きっと、多分……


【つづく】


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