case3 捕らわれの探偵5
俺を襲ってきた男達を、カナタと共に撃退した翌日の夜二十時。
普段であればその外門を潜ることすら憚られるような高級料亭『まつかぜ』の一室で、俺は懐石料理などをつついていた。
純和風の広い室内には床の間もあり、掛け軸やら活花で持て成されてしまっている。
写真などでしか見たことのない光景だが、正直なところ俺にはその風情が良く分からなかった。
もっとも分かる必要もない。遊びに来ているわけじゃないからな。
場違いにも俺がこんなところへ来ている理由。それは俺を襲撃し、そして逃がしてやったあの男。アイツにつけておいた発信機が、現在地をここだと指し示していたからである。
俺はそれを再確認するため、左腕のデバイスを起動した。すると、左腕に緑色のマップが表示される。その中には赤く点滅を繰り返す光点があり、これがあの男に付いている発信機の現在地なのだ。
その位置はここから実に三メートル。つまり、隣の部屋である。
「さてさて。いったいこんな所で何をしてんのかね」
おどけながら俺は、聴診器のようなものを隣の部屋とを仕切る壁に取り付けた。
これはコンクリートマイクと呼ばれるものだ。こうして壁に付けると、イヤホンを通して隣の会話を聞くことが出来る。いわゆる探偵の秘密道具ってやつだな。まぁ俺のは通販で購入した安物だが。
セットを終えると、さっそく俺はイヤホンを耳に装着。ボリュームを捻りながら、隣の部屋の様子に傾注した。
すぐに聞こえてきたのは偉そうな初老の男の声と、叱責されている若い男の声だった。
『直に先生がお見えになる。それより例の件は今度こそ大丈夫なんだろうな』
『はい』
『まったく手間を掛けさせてくれる。安くない金を払ってるんだ。それなりの仕事はしてもらわなければ困るぞ』
『申し訳ございません』
俺が発信機をつけた男は、抱きついた感触からがっしりと鍛えられた若い男だった筈である。ならば、今叱責されていた方があの男なのだろう。
となれば、初老の男はその雇い主か? どうやら一網打尽に出来そうだと俺はほくそ笑む。
しかし今の会話。先生が来るとか言っていたな。
先生と言うくらいだ。初老の男よりも立場が上の人間なのかもしれない。
俺を襲うように指示した黒幕。そう考えるのが自然か。ならば先生とやらが来るまで、ここで様子を見てもいいかもしれない。
そう考えた俺は一度イヤホンから耳を離し、窓の外へ視線を移した。
ここはニューポートセンター街より遥か北。所々に料亭や高級レストランが散見される、俺にとってはあまり縁のないエリアである。
外を歩いている人間もニューポートセンター街とは人種から違うかのようで、誰もが高級ブランドで身を固めていた。ともすれば、辺りは流れる川のせせらぎが聞こえるほどに静かで、俺のような人間にはどうにも場違い感が否めない。
そういえば聞いたことがあるな。この辺りは政治家や芸能人なんかがお忍びで来ることもあるらしいと。
どうりで街も人もお上品なわけだ。今窓の下を歩いている奴等も、ひょっとしたら有名人なのかもしれない。
正直この料亭に入る時も『一見さんはお断り』と言われるんじゃないかとひやひやしたものである。
まぁそんな考えは杞憂に終わり、こうして俺は難なく部屋へと通されたわけだが。
と、再びお膳の上に箸を伸ばそうとした矢先。
廊下を歩く音が聞こえ、俺は慌ててイヤホンを装着し直した。
『ふんっ。まずは弁明から聞こうか』
今のがやってきた男。つまり先生と呼ばれていた男だろう。
彼は部屋に入るなり、そう言って男達を威圧していた。
『それについては直に片が付きます。先生にはご迷惑をお掛けしませんので――』
『当たり前だっ』
次いでドスッという音。乱暴に座布団の上へ腰を下ろしたのだろう。音から察するに、そこそこ体格の良い人物のようだ。
『有用な卵を潰したなどとなれば、奴等からの突き上げがどれほどのものになるか分からん。本当にその卵は潰して大丈夫なんだろうな』
『無精卵というわけではないようですが、問題はないと報告があがっております』
『ふんっ。ならばさっさと片を付けておけ』
会話の内容は問題なく聞き取れているが、意味まではさっぱり分からなかった。
卵? こいつらはブロイラーでもやっているのだろうか?
しかし何故かその会話が気になり、俺はより注意して聞き耳を立てることにした。
『しかし卵か……。これほど待っても卵は孵らんではないか。ふんっ、そろそろ奴等も気付く頃だろうな。私の言が正しいのだと』
『左様ですね。……ただ、SOLTに関しても依然進展はないようで』
『時間はあるのだ。好き好んで時計の針を進めようなどというのが、そもそもの間違いだと思わぬか?』
『えぇ。先生の仰る通りで御座います』
そこまで聞いて、俺は何故二人の会話が気になっていたのかに気付いた。
卵。そしてSOLT。この二つの単語に聞き覚え。いや、見覚えがあったからなのだ。
となると、もしかしてこの壁の向こうにいる一人は……。
そうであれば『先生』などと呼ばれている理由も説明がつく。この世で『先生』呼ばわりされる人間は限られるからな。
『とにかくだ。ちょろちょろと嗅ぎまわっていた女同様に、男の方もさっさと片を付けるのがお前の役目だろう。もう失敗は許さんぞ』
『もちろん心得ております』
『ふんっ。しかし鈴は付いていた筈なのだが、これっぽっちも役に立たんではないか』
『なにぶん十五年ですから仕方ない部分もありましょう。ご心配なさらなくとも、すぐに片を付けてご覧にいれます。なにせ、あの男は今』
――え?
『隣の部屋にいるのですから』
その言葉と同時だった。
俺が後頭部に凄まじい衝撃を受け、一瞬にして視界をブラックアウトさせてしまったのは。
意識を耳に傾け過ぎていた。
背後から近付く気配に、まったく気付くことが出来なかったのだ。
しかしなぜ、俺がここにいるとバレたのだろう?
もしかして発信機がバレていた? バレたうえで、それを利用して俺を誘き出したのか?
なるほど、どうりで。こんな風体の怪しい男が、苦もなく『一見お断り』みたいな高級料亭へと入ることが出来たわけだ。
そこに思い至らなかったとは……。
そう反省しつつ、俺は意識を手放すのであった。
……。
そうして現在。
監禁されるまでの経緯を思い出し終え、同時に俺は違うことを思い出してしまっていた。
そう。尿意である。
寄せては返す波どころか、すでに決壊寸前なほど高まった尿意はビックウェーブといっても過言ではないだろう。
全てを飲み込むのは時間の問題である。
飲み込まれるのは俺のズボンとプライドと世間体か……最悪だ。
と、昇天しかけていたところで、錆び付いた鉄の扉が不快な音とともに開かれた。
天の助けである。
「トイレに行かせてくれっ! じゃなきゃここで漏らすぞっ!」
「……捕らえられているというのに元気だな。肝の太い男だ」
扉を開けたのは三十代くらいの男だった。彼は呆れながら俺を見やり、仕方なくとトイレまで連れて行ってくれた。男に見られながら用を足すというのは最低の経験だったが、漏らしてしまうよりはマシである。
男に監視されながらだが、俺はなんとか装備品を確かめようとバレないようにモゾモゾ動く。
まず左腕のデバイス。これは当然取り外されていた。同様に対魔銃。確認するまでもなく、ショルダーホルスターにはなんの感覚もない。まぁここまでは予想済みである。問題は――
「足の裾に隠してあったナイフも襟首についていた発信機も。それから腰に下げられていた小型無線も全部預かっているぞ」
「あ、そう。そりゃご丁寧にどうも……」
こちらの思惑はお見通しだったらしい。最悪である。もっとも希望も見えたのだが、それを顔に出してやるほど俺は親切じゃないがな。
再び手枷を嵌められた俺は、今度は比較的大きな部屋へと連れて行かれた。
移動中も油断なく辺りを観察していたが、どうやらここはどこかの倉庫のようである。
一度も窓を見ていないことから地下なのか、もしくは元は冷蔵保管庫のように密閉性の高い建物なのかもしれない。
つまり、どれだけ大声で騒いでも外に聞こえる心配のない場所ということだろう。あまり嬉しくない情報だった。
「意外と落ち着いているな」
部屋にいたのは初老の男性。声から察するに、あの料亭に最初からいた男だろう。
年齢は六十歳前後か? 小柄だが威圧感があり、なにより左の口端が耳元まで大きく裂けた異様な男だった。
「おかげさんでスッキリしたんでね。危ういところだったぜ」
「ははっ。随分と図太い性格のようだ」
笑ってはいるが、その声音からまったく温度を感じない。これはやばい。たぶん好ましくないタイプの人物だ。というか、見た目からも絶対堅気じゃあない。
それを証明するかのように、彼は逃げ出したくなるような台詞を吐いた。
「さて。では楽しい拷問タイムでも始めようか」




