第三話
そのあとパンを貪ってベッドに潜った私は、まだ寝足りなかったらしい。
目を開けたらもう夜で、窓の外には星がちらちら光っていた。
腕を曲げたり伸ばしたりして、確実に調子が良くなっていることを確かめる。
「……お腹空いた」
布団にくるまって目をつぶる。
固い地面で寝てきた日々のことを、ふと思い出した。
「……行かなきゃ」
どこにか、それは分からなかった。でも、こんなところにいたらいけない気がする。
こんなところにいたら、またいつか、あの環境に戻ったときに生きていけない。
自覚してしまえばあっという間。私はやっぱり、すごく小さい生き物なんだ。
唇を噛んだ。
忍び足で広間まで進む。
扉の前に立つと、中からは明かりが漏れていた。消し忘れたんだろうな、とぼんやりそれを開ける。
ぎ、と小さく音が鳴った。
「起きたか」
「わっ」
予想していなかった声に、心臓が跳ね上がる。
そっと覗くと、椅子にはヴァイレート様が座っていた。
「……おはようございます」
「随分とよく寝たようだな、あはは」
口元を隠して笑うヴァイレート様だが、その声は可笑しさを隠そうともしていない。
彼の笑い声は、この部屋を照らしているものそれ自体みたいだった。決して太陽じゃないけれど、私を導いてくれるもの。
座らないのか、と言わんばかりに、ヴァイレート様は私を見る。
私は慌てて席についた。
「――こんな遅くまで起きてるんですね」
「まあそうだな。天才にも眠れない夜はある」
彼はコップに目をやった。野イチゴみたいな、ちょっとすっぱくて甘い香りがする。
「ヴァイレート様って、どうして死なないんですか」
「……っはは、なんだ」
私が不意に口にした疑問に、彼は机に伏して笑っている。
「なにかおかしいですか」
不思議に思うのは当たり前でしょう、と添えると、彼は急に頭を上げた。
「そうだな、すまない」
頬杖をついた彼の指に、白い髪が絡みつく。
「……そんなことを聞かれることなんて、あまりなくてな」
「え、気にならないんですかね」
首を傾げる私に、ヴァイレート様は目を細めた。
「さあな。僕は不死身の魔法使い、なぜならこの僕が死んだら皆が困るからだ」
その響きは、決して重くもないし鋭くもない。ただ、圧倒的な大きさが私の前に立ちはだかっているみたいだった。
「――確かに、ヴァイレート様がいなくなったら大変です」
「ふふ、そうだろう」
彼は満足そうに微笑みを浮かべる。
「きっと、どうでもいいのだろうな」
「……それって、どういう」
私が小さく身を乗り出すと、ヴァイレート様は目を逸らす。
「いや。――僕が不死身で強ければ、きっとそれ以上は必要ないんだ」
頭を下げたいと、そう思った。
きっと、ずっと私もそうだった。
私たちが見てきたのは、勝手に信仰してきたのは「ヴァイレート」という人じゃなかったのかもしれない。
きっとそれは「不死身の大魔法使い」、その言葉が持つ暴力だ。
「……すみません」
「何をあやまっている貴様!」
思っていたより数倍大きな声が飛んできて、私は身を竦めた。
「お前が興味を持ってくれたことが、僕は嬉しい。ただ残念だがな、もう覚えていないんだ」
長い睫毛が伏せられていた。
私はその理由を知らないし、これからも知ることはできないのかもしれない。
ただ、彼は同時に笑っていた。
「思い出したら教えてやろう。人間をやめたいのだろう?」
目を開けた先にいたのは、元通りの神様みたいなヴァイレート様だった。
「はい!」
「お前、変な人だと言われたことはないか。人間をやめるには、変であることも大事だ」
「ないです」
思わず口をついて出た答えに、彼は目を丸くする。
「そうか。……僕はよくある。なぜだと思う」
「なぜ、ですか」
しばらく頭を捻ったが何もでてこなくて、私は彼の目を見つめた。
「あまりに美しすぎるからに決まっているだろう!」
「……そういうところが変なんだと思います」
胸を手に当てているヴァイレート様に、思わず声が出てしまった。
「今なんと言った小娘!」
「その通りだと思います、と言いました」
「ならいい」
また笑顔を浮かべる彼を見て、私は耐えられなくなってしまった。
「――っふ、あはは」
「どこに笑う要素があった」
「いえ、なにも、あはは」
変なひとだなあ、と思った。ヴァイレート様は不思議そうにこちらを見ていて、それがもっと面白い。
いつか、もし、どこかで私が元通りになっても。
それでも彼と出会えたこの現実が無駄なんて、絶対に思わないようにするんだ。
ヴァイレート様が悪態をついて、私がまた笑って、外がだんだん明るくなってきて。
夜が、ゆっくりと終わっていく。
*
目が覚めた私がやること。着替え、顔を洗う。
その後は軽く朝ごはんを作る。そのあと――一番重い仕事が待っている。
「起きてください、ヴァイレート様」
扉に拳を叩きつけるようなノックを、さらに五回。
何も返ってこないことを確認しつつ、私はさらに声を張り上げる。
「ヴァイレート様!今日は大事な話があるって言ったのは誰ですか!」
私がヴァイレート様と過ごすようになって、三週間が経った。
この間に分かったことだけれど、彼はまず起きてこない。それから、料理が壊滅的に下手。
「ノマ、少し待て……」
「また寝る気ですね!」
どうにかして彼を起こさなければ。朝以外は丁寧に接しているものの、七日目ごろからだんだんと気づくのだ。
……放っておくと夕方まで起きてこない、と。
しょうがない、と呟いた私は、右手にゆっくりと魔力を集め始める。
指を鳴らすと、扉の向こうから大きな声が聞こえた。
「何故布団が捲れるんだ!ノマ!」
「ただの遠隔魔法です、ヴァイレート様」
「最近の魔術は知らん!」
駄々をこねている場合ではありません、と口にしつつ、私は人差し指を天に向けた。
ほどなくして悲鳴が聞こえてくる。
「僕の睡眠を邪魔するな!」
「何時間寝てると思ってるんですか!」
観念したのか、扉の向こうからごそごそという音が聞こえてくる。
ため息をついた私は、二人分の食事が用意されている広間まで歩く。
なんでだろう、まるでスキップみたいなそのテンポに、思わず笑ってしまいそうだ。
「今日、話したいことがあると言ったな」
食器を洗いながら、ヴァイレート様はふと口にした。
テーブルを拭く私の手が止まる。
「端的に言うと、お前の最初の仕事についてだ」
私は小さく頷いた。
食器洗いを終えた彼は、いつもより少しだけ早く椅子に腰かけた。
「侯爵家のパーティーだ」
「……え?」
言葉を呑み込むことが上手くできなくて、私の口から出てきたのはたった一つの驚きだけだった。
「侯爵からパーティーに呼ばれている。政治は面倒くさくてな、いつ何があるか分かったものではない」
そう言うと、ヴァイレート様はいかにも「つまらん」と言わんばかりに腕を組む。
「侯爵って……一番偉い人じゃないんですか」
「知らん」
僕を面倒な貴族界に呼ぶ奴は皆阿呆だ、と零した彼は私を見る。
「ノマ、貴族社会のルールはわきまえているか?」
「いえ。ちょっとだけ勉強したくらいです。細かいマナーは全然」
「そうか」
学院でやったきり、貴族に対する礼儀なんて教わっていない。
そもそも今回出向くのはノマじゃなくて、ヴァイレート様としての私だから……。
混乱でぐるぐる回る頭を抱える私は、不意に口に出した。
「ヴァイレート様、爵位がないって本当なんですか」
伝説みたいなものだった。
ヴァイレート・アムレアは、貴族でもなんでもない。正義を貫くために、貴族の世界を嫌っている英雄なんだとか。
「ないぞ」
「……本当だったんだ」
呟いた私に、彼は大きな声でこう添えた。
「手続は煩雑、マナーは全くもって覚えられなかった!」
だからお前も貴族なんかに頭を下げるな、ヴァイレートは貴族社会のことなど知らん、と口にすると、彼は満足げに口角を上げた。
思っていたよりも人間臭い理由に、吹き出しそうになる。
「まあ貴族どもの名前だけでも覚えていけば、それで十分だ」
「頑張ります」
勢いよく席を立った私とは反対に、ヴァイレート様はふいと顔を背けた。
「……どうせ、僕の名前しか必要としていないからな」
油断していれば聞き逃してしまいそうな、僅かな揺らぎだった。それは空気と、それから私の鼓膜の奥を震わせる。
「……ヴァイレート様」
「さあ、貴族の名前でも暗記するか」
「今ですか」
ふと目をやると、彼は分厚い手帳のようなものを手にしてにっこりしている。
嫌な予感がした。
「ああ。パーティーは明日だからな」
*
熱が出るのかと思うくらい、大変な作業のあと。
羊皮紙に書き取りをした私は、それらを持ったまま机に突っ伏した。
「あはは、さすがに疲れているようだな」
「笑いごとじゃありません」
これ全部覚えるんですか、と口から不安が零れ落ちる。
「大丈夫だ。こいつは阿呆、それでこいつも阿呆だ」
「覚え方になってません」
呑気そうなヴァイレート様に、恨みがましい視線を送る。
彼曰く、出席することそれだけに意味があるらしい。そこらへんに立っていればいいのだと、何度も繰り返して言われた。
不意に外を見ると、空はもう橙色に染まり始めている。
「命を狙われるとかそういうことって、今回はないんですかね」
夕暮れに身を任せてしまったから、そんなくだらないものが口をついた。
彼の横顔を見る。
「今回は何も心配いらない。ただの練習だし、何かあれば僕を呼べ」
教えてやろう、と彼は手を差し出す。
握られていたのは、赤い石のついた指輪だった。
金でできた輪につけられたそれは、簡素なカットをされていた。ずっと前からあるような、王道なもの。
だからこそ、その美しさが際立っていた。
吸い込まれそうな赤が燃えていて、でも熱いというよりは冷たい火みたいだった。
「――ヴァイレート様みたい」
呟いた私の右手に指輪が渡される。
「綺麗だろう」
はい、とゆっくり声にする。声にしないと、その炎に呑まれてしまいそうだった。
「これを右手の中指にはめると、変装ができる」
「そんな簡単なものなんですか」
「ああ。僕の発明だからな」
指輪をじっと見つめる私に、ヴァイレート様は笑った。
「簡単だろう。隠されているもの、誰も知らないもの――その真実は意外に簡単だ」
*
朝になっていた。
なんてことないみたいな顔をして、いつもと変わらない日が昇っていた。
「……寝れなかった」
空が明るくなるまで目が冴えていて、ひたすら寝返りを打っていた記憶しかない。
珍しくこの時間に広間にいたヴァイレート様は、私の顔を見るなり声を出した。
「お前、さては寝ていないな。クマがひどいぞ」
「さすがに緊張しますよ」
机の上に置いてあるのは、昨日必死に書き記したメモだ。
それを手に取って、頭の中で復唱する。
「さて。変身の時間だ、ノマ」
数枚の紙切れに目を奪われていた私の真上から、彼の声が降ってきた。
ヴァイレート様は、指輪をつまんでこっちに渡してくる。
恐る恐る、両手で指輪を受け取る。
「――行ってきます」
「ああ。いってらっしゃい」
私の部屋。ヴァイレート様がいつも身に着けている黒いシャツやローブを、ゆっくりと身に纏う。
そして、最後にそれを手に取った。
指輪はその大きさの割には重くて、どことなく手に馴染む。
「……よし」
深呼吸をひとつ添えて、私は中指にそれを通した。
刹那――視界がぐらりと歪む。
でも、その違和感はたった一瞬。私の周りに広がっていたのは、今までよりもちょっとだけちっぽけな世界だった。
「視線が高い……足が長い」
自分の体ではない入れ物に、意識だけが放り込まれたみたいだ。でも感覚も思考もちゃんとしていて、私はその楽しさに部屋を歩き回った。
覚悟を決めてついに辿り着いたのは、部屋の姿見の前だった。
ゆっくりと開いた瞳を縁取っている睫毛が、とても長い。瞬きするだけで、それはまるで羽みたいに動く。
真っ白で光沢のある髪は背中まであって、指を絡めるとさらさらと解けた。
「……すごい」
人間じゃない、と声にした。
彼の美貌はどう考えても、人の持つそれではなかった。
そして、それを被る私もまた、今はノマから解放されているんだ。
「すごい、綺麗」
繰り返すと、形のいい唇から低い声が零れる。
私は、しばらくそのまま鏡と睨めっこしていた。
「おいノマ!馬車が来ている」
「今行きます!」
普段より大きな一歩で部屋をあとにする。振り返った私の目に映る姿見の中に立っていたのは、まぎれもなくヴァイレート様そのひとだった。
「いい感じだな。さすが僕の完璧な魔術だ」
玄関先まで出ていった私に、ヴァイレート様は目を細める。
「もっと堂々と胸を張れれば完璧だ。僕の美貌が際立つ」
「そうですね。……自分で言わなければもっとかっこいいんですけど」
「なんと言った、今」
軽口をたたいていると、心臓の鼓動が落ち着いてくる気がする。
「無事に帰ってくることだ。行ってこい、ノマ」
「いってきます、ヴァイレート様!」
部屋に引っ込んでいくヴァイレート様は、去り際に不器用なウィンクを残していく。
それができないことが私と同じで、ちょっとだけ励まされた。
ほぼ籠りきりだった屋敷の敷地には、至る所に草花が生い茂っている。
なんだか、童話に出てきそうな建物。
門の外には馬車が控えていて、こちらを見るなり馭者は深く頭を下げた。
「レーチェ侯爵の屋敷まで、頼む」
馬車なんてのは初めて乗ったけれど、意外と揺れるものみたいだ。かたかたというそのリズムは心臓まで揺らしてきて、上手くできるかなんて不安になる。
――朝まで何度もイメージしてきたんだ、大丈夫。
ヴァイレート様だったらこうするだろうと思ったから、私は彼みたいに足を組んでみた。頬杖をついて、無理やり口角を上げてみる。
そんなことをしていたら、かなりの時間が経っていたみたいだ。
「到着いたしました」
「ご苦労」
地面をゆっくりと踏んだ私の目には、視界に収まりきらない宮殿が飛び込んでくる。
思わず立ち止まったそのとき、門番がこちらに礼をした。
「ヴァイレート・アムレア様ですね。こちらへどうぞ」
「ああ。よろしく頼む」
宮殿の中は、外よりももっと、おとぎ話のお城みたいだった。
天井にも壁にも絵が描かれているし、階段の手すりは金色。ヴァイレート様の屋敷なんて、平民の私にとってはまだ優しいほうだったんだ。
なるべく周囲をきょろきょろしないように、なるべく一歩を大きく。
心の中で何度も唱えながら、ひたすら前を見て真っすぐに歩く。
先が見えないと思ってしまうくらい長かった廊下の先には、どこまでも広がるような空間があった。
磨き上げられた床は光を反射して眩しく、荘厳な柱がいくつも立っている。
煌びやかな衣装を身に着けた客たちを、穏やかな曲が包み込んでいく。
私がそこに足を踏み入れると、入り口に立っていた従者が声を張り上げた。
「――赤の塔より、ヴァイレート卿」
その場にいた貴族たちの視線が、一瞬でこちらへと集中する。
尊敬か畏怖か、それとも陰謀か。私には判別がつかない様々な表情、そしてざわめきが会場を覆った。
数分が経った。
歓談を始めている貴族たちは、一切こちらに話しかけてこない。
百年生きている魔法使いという響き、それから爵位を断る態度。そういうものが、ヴァイレート様をこの空間からはじいているような気がした。
彼は「絶対にこちらからは話しかけるな」と、私に教えてくれていた。
私の覚えた名簿は意味をなさない。ただ、空白の時間が流れていく。
貴族の服は面白い。
私が今着ている服も装飾は多いけれど、ヴァイレート様は簡素なものの方が好きみたいで、周囲を見渡すともう目が眩みそうになる。
大きな宝石とかひらひらとした布とか、そんなもので彼ら自身を飾っている。
私は、きっとそうだ。
こうやって綺麗な世界で生きる人々のことが、少しだけ怖いんだ。
「お集まりいただきありがとうございます」
はっと正面を向くと、壇上には一人の男性が立っていた。
ここにいる誰よりも鮮やかな、青の燕尾服を身に纏っている。
「本日の主催をいたします、ルーク・レーチェです――皆さま、よい時間をお過ごしください」
男は丁寧に一礼をし、ゆっくりと段を下っていく。
その黒い髪を靡かせる姿は、どこか上品ででも強そうだと思った。
最後の段に足をかけた、その瞬間。
レーチェ侯爵が一度だけこちらを見た気がして、私は瞬きする。
それが気のせいだったというように、目を開けたら彼は横を向いていた。
レーチェ侯爵がステージから降りたのを確認し、貴族たちはまたグラスを手にする。
宴が始まることを告げるように、ヴァイオリンの音色が響く。
曲とともに彼らは中心を向いて、そのまま歩きはじめた。
貴族たちが「舞踏会」とかいうものをやる、と聞いたことはあったけれど、私が実際に見るのはもちろん初めて。
私はワイングラスを手にしたまま、それをじっと見つめた。
踊り自体はそんなに複雑なものではなさそうだけれど、やっぱり上手い下手は分かるなあ。そんなことを考えることにして、必死に紛らわせる。
宮殿に入った時から、私の心臓は締め付けられていた。
夜が近づくなんて考えないようにする。
貴族服を着た男性が、その手を女性の腰に添える。たったそれだけのことが視界に入るたび、私の目の前はちかちかしていた。
押し殺していたものが、だんだんと影を大きくしていく。
――私は大丈夫。もうあの時の私じゃない。
もう無力じゃない、もうノマじゃない。
……限界だった。
もし、私が偽物だとばれてしまったら?
その発想が頭をよぎった瞬間、手が汗で濡れていく。
こちらに向かってくる人がいないこと、それだけが救いだ。
音楽に、そしてそこで繰り広げられるもの全てに背を向ける。
そして、次の瞬間だった。
パッ、という音と共に、暗闇が目を覆い隠した。
何も見えない中、貴族たちの困惑の声だけが届いてくる。
「お楽しみいただいているようですね、皆さま」
さっきの声だ、と思った。さっき壇上で聞いた、あの鋭い声。
「このパーティーにはいくつか目的があります。一つ目は、皆さまの親睦を深めてもらうこと。そしてもう一つは――」
今度は盛大な音がして視界が明るくなる。
「私を殺そうとしている者を突き止めること、だ」
ざわめきが走った。
明るくなった大広間には、数人の兵士が控えている。扉を固めるように彼らが立っていることを確認したレーチェ侯爵は、「さて」と声を出した。
「今日私を殺すために参加している者がいる、それは知っている。ただ、名前までは聞いていないのでね」
その発言に、ますますどよめきだけが広がっていく。
「すぐ名乗り出てもらえるように、皆さんには言っていなかったね。びっくりしただろう?あのヴァイレート卿が来るなんて」
どういうことなのか、全く分からない。
ヴァイレート様が侯爵から疑われているのか、それとも……。
「ヴァイレート卿の力は皆ご存じだろうからね。正義に溢れた彼に殺されるか、それともここで名乗り出るか。選ぶ権利をあげようと思ったんだ」
「――は」
小さく声が漏れた。
この人は、ヴァイレート様を利用している。
「……だから私たちも知らなかったのね」
「……どういうことなんだ」
小さな混乱は、やがて会場全体へと広がっていく。
なんで、そんなことができるのか分からなかった。ヴァイレート様がこれを知らなかったことは間違いない。
なんで、なんでこんな騙すような真似を。
周囲の視線は、私の方に集まっていた。
「ヴァイレート卿は大変強くてね。こんな建物くらいならすぐ吹き飛ばせる」
その声は必要以上に大きくて、低い。
大広間に流れるのは、困惑と恐怖の声――そしてそのあとは沈黙ばかり。
私は、私のそれより大きな足で踏ん張っていた。
ぞっとするような静寂の後、右端の方から嗚咽とともに叫び声が聞こえてくる。
「許して、ください……っ!侯爵……!」
「ああ、名乗り出てくれてありがとう。お前だったんだね」
泣き崩れた男に、侯爵は声をかける。近くにいた兵士たちが彼を取り囲み、そのまま外へと引き出されていった。
「さて、宴の続きをしましょうか。反逆者を捕まえるのに協力してくれてありがとう――ヴァイレート卿」
ぽつぽつとした拍手が会場を包んでいく。
貴族たちはまた踊り出す。何事もなかったかのように、それでいて、決してこちらには視線を送らないように。
私は、ただ黙っていた。
泣いちゃだめだ。
私は知っている、ヴァイレート様は強くて優しいってこと。
最強の魔法使い、不死身の天才。
そんな言葉を利用するなんて、と言いたくても、誰もヴァイレート様の本当を知らないから。
――誰も知らないから、ヴァイレート様はずっと孤独なんだ。
泣かないように、ぐっと拳を握りしめる。
何事もなかったかのように流れてくる音楽と、安心したような貴族たちの声が混ざり合って反響した。
更けていく夜に、私はただ小さく震えていた。




