74:完成への道のり
サージス星系へと到着し、目的地であるプライムコロニーまで残り二日となった。
その間、日常生活にも不便を強いる強化された反応との意識のズレが容赦なくアイリスの介入を招き、俺は今日も今日とて窮地に立たされている。
「御主人様。そのようにゆっくりと動かしては備品程度のナイフでは肉を切ることはできませんよ?」
「わか、って、いる!」
プレートに乗せられた分厚いステーキに押し当てられたナイフをゆっくりと引く。
強化インプラントが完全に定着してからというもの、意識と体の感覚が大幅に狂った。
更にそこから徐々に反応が強化され、スペック通りの性能へと落ち着くのも仕様書に目を通した時に知っていた。
しかし、だ。
ここまで勝手が違うとは誰が予想できただろうか?
そして日常生活に支障が出たことで、助けを求めざるを得ない状況に追い込まれているのが俺の現状である。
いつも通りの力加減のはずなのに意識が先行しすぎて目に見えているものと違いに脳が混乱する。
それを調節しようとした意識がまたも独走状態。
体の動きが意識に全く付いて行けず、結果は目の前にあるステーキのようにナイフを押し付けた状態でプレートがカタカタと音を立てるに留まっている。
「反応速度の強化のはずだったよな?」と確認したのは間違いなく初日――つまりその段階で既に違和感が表に出てきていた。
その時の確認にアイリスはこのように答えている。
「そんな一部だけの都合の良い強化など不具合の塊です。身体強化が完了するまではその状態ですから今のうちに特化型が何故主流でないのかを身を以て体験してください」
簡単に言えば、反応速度だけが大幅に向上してしまったことでバランスが崩れ、体の制御ができなくなったのである。
これが「他をおざなりにしたリスクである」とアイリスからは説明を受けた。
強みを活かすことは大切だが、そのための土台はもっと重要であると楽しそうに俺の生活サポートをするメイドに説教された。
それに反発した俺がこうして一人で食事を摂ろうと頑張っているのだが……ここぞとばかりにこんなものを出してくるアイリス。
日程の確認をするべきであったことは明白であり、その必要性を一切口に出さなかったアイリスにとって、この状況は望むものであることは間違いない。
実際、奉仕目的で生み出された機械知性体であるアイリスは実に生き生きとしている。
そして二度目となるステーキの華麗なるジャンプ――つまり、俺がナイフを引く速度を誤りプレートに引っ掛けて跳ね上げたのだ。
それをナイフとフォークでキャッチしたアイリスがプレートに戻すと同時に切り分ける。
椅子に座る俺の頭部に押し当てられる胸が背後から伸びた腕の動きに合わせてフニフニと心地良い。
「では大人しくご奉仕されてください」
アイリスはそう言うと程よいサイズに切り分けたステーキを俺の口に運ぶ。
口を開けてカチリとフォークに歯を立てると無言で肉を咀嚼するが、味はわかれど顎の違和感が気になって仕方ない。
「この状況は間違いなく確認を怠った御主人様のミスです」
言うな、とばかりに俺は口を開けて次の肉を要求。
運ばれてきたステーキを頬張りながら、違和感を相殺するために頭部のクッションに意識を向ける。
そんな俺に付け合わせのフライドポテトをフォークに刺したアイリスが宥めるように言葉を紡ぐ。
「痛みがなければ人は覚えません。勿論そうではない者もおりますが……少なくとも御主人様はそちら側の人間ではありません。知ることを知らずにその人生の大部分を過ごした御主人様を矯正するには時間がかかります。よって多少の痛みは許容していただきます」
肉を飲み込んだ俺は小さく溜息を一つ吐く。
ステーキソースを少し絡めたポテトは割と好みの味だった。
船内での日常生活において、現状の俺が最も楽なのが無重力区画の移動である。
通路にぶつかりながらでも問題なく目的地に辿り着けるのでアイリスの助けは必要ない。
ところがこれが重力区画に変わると一変する。
足取りは覚束ず、気を抜けばすぐに感覚が暴走して転倒する。
何度も転んですり足で移動することを覚えてからはマシになったが、それでも壁に両手を付けてズリズリと歩く姿は中々に辛いものがある。
それがようやく終わりを告げる時が来た。
「やっと到着か」
ブリッジの扉を開けた俺は無駄に床と天井を往復しながら艦長席に辿り着く。
同時にアイリスのスカートから伸びた有線式アームに引っ張られ、慣性を殺すと同時にストンと座席に着地する。
目の前にはステーションを中心部に沿えた二つの円筒状のコロニー。
管制室からの通信を開き、簡単な応答の後にこちらのデータを送る。
入港の許可があっさりと下りたので、アトラスの速度を少し落としてステーションへと進路を微調整。
当然、今の俺にはそんなことはできないのでアイリス任せだ。
全く以てままならない我が身だが、それもあと少しの辛抱である。
しかしそれでも不安になってしまう。
「肉体強化を行えばちゃんと適応するんだよな?」
「時間と訓練を要することになりますが確実に以前と同じ生活ができることを保証します」
その言葉に嫌な予感がした俺は続けて問う。
「……訓練に必要な時間は?」
「御主人様の訓練成果にも依りますが――凡そ1020時間を要すると見積もっております」
「ほぼ丸一ヶ月の訓練時間がいるのか?」
それくらい当然だとばかりに頷くアイリス。
肉体強化の第一段階はナノマシンの注入と投薬で行われる。
体内に取り込んだナノマシンに馴染むための訓練と並行して行う短期集中型――加えて長期的に投薬を続けることで第二段階の強化を受け入れられる下地を作る。
それが今回の目的であり、俺が目指す完成系へと到達するための第一歩である。
訓練もなしに強くなれるとは思っていなかったが、中々のハードスケジュールになりそうだと覚悟を決める。
また、強化してもすぐには元の生活に戻れないことが確実となり、俺はがっくりと肩を落とした。
「そんな御主人様にご報告があります」
気を落としている俺に笑顔を向けるアイリス。
これは絶対に嫌な報告だとわかっていながらも俺は黙って頷く。
「御主人様ポイントの桁がまた一つ増えました」
「……で、今幾つある?」
思ったよりもどうでもよい報告だったので安心して続きを促す。
「具体的には申し上げることはできませんが……15桁とだけ」
「なあ、毎回思うんだが、それは何に使えばいいんだ?」
無くなれば奉仕対象ではなくなるようなことを言われているこの御主人様ポイント――使い方が今一つはっきりしない上に、何に使えるかもさっぱりわかっていない。
命令が可能であることはわかっているが、その条件がまだわかっていない。
「お望みのご奉仕にお使いください」とのことだが、そもそも過剰なレベルのサポートなので使いたくない。
自身が堕落主義とかいう奉仕対象を奉仕者なしには生きていけないほどに堕落させる志向であると言っており、その発言からも尚更である。
兆単位で持っていたところでどうしろと言うのか?
思わずそんなことを口に出したところで、スッと差し出されたホロディスプレイ。
「あ、ポイントで交換できる品物があるんだな」
問題があるとすれば、表示されているものがお菓子やジュース、玩具といったキッズ向けのものばかりであること。
「なあ、他にないのか?」
「現在のご主人様レベルではそこまででございます」
またなんか増えた、と心の中で叫ぶ。
取り敢えず、折角なので250ポイントのジュースを一本交換したところで画面が赤くなった。
「交換は月に一度だけでございます」
「兆単位であるんだけど?」
スカートの中から出てきたジュースパックを受け取り、理不尽な仕様に文句を言う。
あと取り出す場所を考えろ。
思った通りに動かない指先に四苦八苦しながらパックから伸びるチューブを口に付け、ブリッジからステーションの内部の光景を眺める。
まずは積荷を降ろす手続きと依頼を完了させる。
それから予約を入れた肉体強化を受けるのだが……道中をどうしたものかと考える。
「サポーターでどうにかできるか?」
設定次第でいける気がしたので、隣のアイリスに聞いてみる。
返ってきたのは「気づきやがった」と言わんばかりのわざとらしい舌打ち。
どうやら何とかなりそうだと俺は安堵の息を漏らす。
ドックに入ったアトラスがゆっくりと停止する。
さて、まずはお仕事を完了させるとしよう。




