作詞 が「上達する」とはどういうことか?(後編)
創作活動をするうえで『美学』を持つと、何が起こるのでしょうか。
まず「こうすればもっと理想の作品に近づく」「この表現はダサいからやめたほうがいい」といった具合に、自分が目指す表現と、避けるべき表現が整理されていきます。
その整理された内容が体系化されてくると、それは創作するうえでの「様式」、すなわち自分なりのルールになっていきます。
そうなると、マイルールから外れた表現は、自然と禁則化されていきます。結果として、使える手札が絞られることになります。
つまり『美学』を持つということは、表現をするうえで『不自由』になるということです。
これを聞くと
「いやいや『不自由』になったらダメでしょ!」
と思われるかもしれません。
しかし、実は不自由になることにもメリットがあります。
制限があるからこそ、その内側に思考やリソースを集中させることができ、表現や技術をより洗練させられるのです。
そして我々は、この原理を様々な場面で経験的に知っています。
たとえば、ボクシング。
攻撃手段がパンチに限られるという制約があるからこそ、そのルールの中で有効打を当てる技術、高度なディフェンス技術、距離感を制する繊細なポジショニングなどが発展してきました。
あるいは、サッカー。
フィールドプレーヤーは手を使えないからこそ、足でボールを緻密にコントロールする技術や、多彩なドリブル、創造的なシュートなどが磨き上げられてきました。
これらの競技は不自由だからこそ、そのルールに順応した技術が発展してきたのです。
そして、磨き上げられた技術の美しさは、多くの人を魅了しています。
もちろん、この原理は言語芸術にも当てはめることができます。
和歌や俳句は文字数が極めて制限され、さらに文字数以外にも様々な約束事があり、極めて不自由な文学です。
しかし、その不自由さの中で研ぎ澄まされてきた表現技術が、どれほどの域に達しているのかは、もはや私が説明するまでもないでしょう。
とはいえ、ボクシングもサッカーも、和歌や俳句も、未経験者がいきなり挑戦したところで、普通はうまくいきません。
不自由なルールがあり、そのルールに適応した技術体系が存在していたとしても、自分自身がその技術を身につけていなければ、うまく扱えないのは当然です。
まして作詞の場合、自分自身の美学に合った表現方法を探り、身につけるべき技術そのものを自分で見極めていかなければなりません。その難しさは、なおさらでしょう。
そんなときは、原点に立ち返り、自分の好きな作品を鑑賞してみるのがよいかもしれません。その作品のどこに魅力を感じるのか、どのような技術が使われているのかを改めて考え、自分の中に取り込んでいくのです。
まとめると
『美学』によって自分なりの表現様式を構築し『不自由』になること。
その『不自由』の中で、自分の表現に適した『技術』を見出し、磨き上げること。
そして磨き上げた『技術』を自在に使いこなせるようになること。
これこそが、作詞の上達における、一つのステップと言えるのではないでしょうか。
しかし、技術が向上していくと、今度は別の問題に直面するかもしれません。
それは「技術的に優れているようには見えないのに、なぜか胸に深く刺さる作品」と出会うことです。
そんなときは「実は自分の美学や技術は単なる『おらが村の奇習』なのではないか?」という疑心暗鬼に陥ることもあるでしょう。
実際、言葉で想いを伝える技術を磨き続けた結果、かえって理屈っぽく、血の通わない美しい細工物のような表現になってしまい、生の感情から乖離していくこともあります。
そして、技巧を超越した「感情むき出しの言葉」にこそ、人の心を打つ力が宿ることも往々にしてあるものです。
作詞に限らず、創作活動では、生まれ持った才能やセンスがものを言う場面も少なくありません。
それでも、地道に磨き続けた技術と、そこに費やした努力は、決して無駄にはならないと私は信じています。
『技術的洗練』と『感情的熱量』の狭間で、自分自身の言葉を選び出せるようになること。
これこそが「作詞が『上達する』とはどういうことか?」という問いに対する、私なりの回答です。




