別れの幻想曲
「さて。この曲の間だけ、彼女をお借りしてもいいかな?」
そう言って手を差し出すと、驚いたロアはぱっと顔を上げて今日初めてユリシーズを正面から見た。ユリシーズは小馬鹿にするように微笑む。彼女は途端に狼狽えて、助けを求めるようにおずおずとキールを見た。
「ええ。行ってらっしゃい」
キール公子に冗談交じりに見送られ、王子の誘いを断ることもできないロアは同じように返すしかない。
「……。い、行ってきます」
ユリシーズは黙って手を差し出した。中庭でのことなど何もなかったかのような態度に戸惑っているのだろう、ロアは恐る恐るその手に自分の手を重ねた。
ダンスが始まっても、ユリシーズは何も言わなかった。ロアはますます困って眉を下げてちらちらとこちらを見ている。
無理もない、とユリシーズは思った。中庭であれだけ口さがなく罵っておいて今はこうして手を取り合って踊っているのだから、裏表のないロアにはユリシーズこそ狂人に見えているかもしれない。
「…………」
これがきっと彼女との最後のダンスになる。ユリシーズはロアとの一つ一つの場面を思い出した。その時々の立場や思惑で対応してきたため、傍から見れば自分の態度に一貫性がないことはユリシーズ自身よく理解している。
ロアの目には掴みのない恐ろしい男に映っているはずなのに、何故か彼女は怒っている時を除けばいつもフラットに接してきた。返す返すもおかしな娘だと心の中で呟きながら、ユリシーズは彼女の胸で光る赤い宝石を見つめた。
どんなドレスの日も、ロアの首にはこのネックレスが光っていた。ルビーでもガーネットでもスピネルでもない、素朴な温かみのある宝石だ。
「きみの首を飾っているのは、何の宝石だい?」
急に言葉を掛けられたロアは顔を上げてユリシーズを見て、それから片手で赤い宝石に触れた。
「……これは、ロードナイトだよ。私が生まれたときに、父様と母様が贈ってくれたネックレスなんだ」
「へえ。ベビーリングの風習はウィンフィールドにもあるけど、ネックレスは珍しいな」
「本当は、社交デビュー用の十五歳の誕生日のプレゼントなんだ。私が生まれた時、もう母様はあまり自分が長生きできないって分かってて、それで早めに贈ってくれたんだって」
亡き母を懐かしむような柔らかな声だった。母親の愛情と、それをしっかり受け止めている娘の姿に、ユリシーズは眩しげに目を細めた。
「あまり見かけない石だね」
ロアは少し気後れしたような顔で頷いた。
「珍しいものじゃないんだけどね。高価な石じゃないから、王城に来る人達はあまり選ばないんじゃないかな」
確かにその薔薇色の宝石には、大広間の照明で反射する派手なきらめきはない。
「キラキラした豪華な石より、僕はそっちの方が好きだな」
「私も。ロードナイトには、『不動の愛情』とか『友愛』っていう意味があるらしいよ」
「不動の友愛か。きみによく似合ってるよ」
「ほんと? 嬉しいな」
思いがけない言葉だったのか、ロアは少し驚いたような顔をしてから無邪気に笑った。だがすぐに表情を曇らせて、躊躇いがちにユリシーズを見上げた。
「……ユリシーズ、怒ってないの?」
「何の話かな」
「あの、この間の、中庭のこと……」
触れたくない話題になり、ユリシーズは口元を歪める。
「どうして怒ってないと思うんだい」
「だって、私をダンスに誘ってくるなんて。それに、こうやって普通に話してくれるし」
「一国の王子は踊りたい相手とだけ踊る訳じゃないって、前に説明したはずだよ。ダンスは政治なんだ」
義務感から踊っているだけだと言われたロアは、俯いて黙り込んでしまった。ユリシーズは自分の発言を後悔したが、他に何と言えば良かったのか分からなかった。普段なら場を繋ぐ軽い話題なら幾らでも出せる。だがそんな誰がどう答えても大差ない話題を探し出して、彼女に振る気にはなれなかった。
「……」
「…………」
ユリシーズは俯いたロアの切り揃えられた毛先を眺めた。今夜の天馬レースが終わり、明日になれば彼女は帝国へ帰る。恐らくキール公子との結婚式まで会う機会はないだろう。
次に会う時は人妻だ。怒り任せに馬具を抱えて茶会に乱入する素っ頓狂な娘が、人妻。ひどく不似合いな呼び名を冠された、未来のロアを想像してみる。
「……馬に乗ることしか頭にない騎手に、キリヤコフ公国の公子の妻が務まるのかな」
馬鹿にしたかった訳ではなく、本心から口をついた独り言だった。ロアは顔を上げて、ムッとした顔をした。
「務まるよ」
「へえ、すごい自信だね」
ユリシーズはからかって戯けたが、その声にも表情にも覇気がなかった。だがロアはキールの妻への保証に一生懸命で、そのことには気づかない。
「キール公子は優しいし、心が広いから。何かあってもちゃんと支えてくれると思う。だから、大丈夫」
力を込めた言葉の一つ一つが、ユリシーズの胸に突き刺さる。心の防衛反応のようにユリシーズは軽く笑った。
「なるほど。キールは僕とは正反対だからね」
何故ユリシーズが自分をキール公子と比べるのか分からず、ロアはきょとんとしてユリシーズを見た。
「……何それ。あなたって、自信家なんだと思ってたけど」
「自信家だよ。恋人を幸せにする自信はある。でも妻を幸せにする自信はない」
「どうして? あなたが──」
それはユリシーズの父親のことが関係しているのかと問おうとして、ロアは口を開いた。だが先日の薔薇のトンネルでの会話を思い出し、すぐに口をつぐんで目を伏せた。
ユリシーズはそうした心の動きを正確に察して、ロアのほんの僅かな成長を認めつつ自嘲気味に笑った。
「そうだよ。きみの思っている通りの理由だ」
ロアは丸い目でユリシーズを見た。思ったことを全てストレートに映し出す、心の鏡のような鮮やかな緑の目。自身に何の後ろ暗さもなく、真摯に胸を張ってこの目に向き合える者は運がいい。いや、それとも鈍感なだけかもしれない。
「……王宮にこれ以上、不幸な女性や子どもを増やさないためにも。できることなら一生独身でいたいんだ」
マーヴィンに王位を継がせるという道はあるが、そうなれば国内が荒れる可能性がある。マーヴィンの兄弟達だって黙ってはいないかもしれない。
「だから僕は今夜、何としてもきみに勝たなきゃいけない」
敵愾心を煽るように言って、ユリシーズはロアを眺めて微笑んだ。ロアは不安気にも悲しげにも見える目で、ユリシーズを見返す。
「ユリシーズ……」
大広間に満ちていた音楽が途切れた。ユリシーズはロアの手を見下ろし、きゅっと握った。貴族の女性にしては少し固い、温かい手。
目の前のユリシーズと中庭の薔薇のトンネルでのユリシーズが繋がらないのか、ロアはひどく困惑したようだった。眉を下げてこちらを見上げる彼女に苦笑しながら、その手をそっと解放する。
「レースを楽しみにしているよ」
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次回『夜を駆ける』の更新は明日の夜8時~9時の予定です。
いよいよウィンフィールドの立体競馬、天馬レースが始まります。





