悲しきフロアクラフト
「皆さんが手の中のグラスを飲み干し、それぞれの国に帰った後も、どうか今日のことを深く記憶に留めて頂けるようお願い申し上げます。隣国の人々、更にその隣国の人々が一堂に会した、奇跡のような美しい夜のことを」
ユリシーズは壇上で滔々と乾杯の挨拶を述べた。大舞踏会の最終日の今夜もよく晴れて、頭上にはガラス越しの満天の星空が広がっている。
天馬レースのことで緊張しかないであろうロアは、大広間の端の方でグラスを持ったまま天井を仰いでいた。最終日にしてようやく、この大広間の天井の貴重さに気づいたのかもしれない。
「そして不幸な出来事が起きた時に各々がその記憶を思い出し、早まった決断を思い止まれるよう、今宵の満月に祈りましょう」
直接的な言葉は使わずに戦争を食い止めたいと意志を告げ、ユリシーズはにこりと微笑んで玉座を挟んで隣のマーヴィンを見た。
大舞踏会開幕の時には壇上にはいなかったマーヴィンが、今日はこうして玉座の隣に立っている。父であるウィンフィールド国王の指示だ。
国よりもクローディアを選ぼうとしているコンラッドに対する、父からの圧なのだろうとユリシーズは見ていた。緊張で頬を赤く染めたマーヴィンが高らかにグラスを掲げた。
「雲一つないこの星空に、乾杯!」
上擦った、大き過ぎる声が響く。これだけの数の各国要人を前に乾杯の音頭を取る機会などそうそうないのだから、無理もないとユリシーズは思った。人々もグラスを掲げて、乾杯と言い合いながら笑顔で隣人とグラスを合わせる。
ロアも同じようにダンヒル子爵夫人とグラスを合わせた。指揮者が腕を振り、楽団が定番の曲を奏で始めた。ユリシーズは壇から降りると、ティーア王女に手を差し出した。
「今宵の満月はあなた達のものだ。一曲よろしいですか、月の女神様?」
「あら、もちろんよー」
ティーア王女は隣のティーナ王女に微笑みかけてから使用人の銀の盆にグラスを置き、白く滑らかな手をユリシーズの手に乗せた。
「今日でいよいよ最後だね」
「そうねー。普段はなかなか会えない国からもお客が来ていたから、とっても実り多い舞踏会だったわー」
ティーア王女はにっこりと笑った。社交デビュー以来何度となく一緒に踊ってきたティーア王女のステップは、軽やかで模範的な位置取りで踊りやすい。
「そう言ってもらえると父も喜ぶ」
「それで、未来のウィンフィールド王妃は見つかったのかしらー?」
好奇心を隠さないティーア王女の問いに、ユリシーズは小さくため息をついた。舞踏会の期間の後半からは、会う人会う人に同じ質問を婉曲的にされ続けてうんざりしている。
「さて、どうだろうね。僕としては、それどころじゃなかったというのが正直な感想だけど」
「うふふ。わたくしは花嫁が見つかった方に賭けるわー」
ソイニンヴァーラ王女から賭けなどという言葉に出たことをユリシーズは訝しみ、ティーア王女を見下ろした。
王女はいつも通りの柔和な笑みを浮かべている。それでユリシーズは、王女がロアから今夜の賭けの話を聞いているのだろうと気づいた。
「やれやれ。ベルンシュタイン人というのは口が堅いと聞いていたんだけどなあ」
そのロアを探すと、ユリシーズの気も知らずににこにこと機嫌良さそうにキール公子と踊っている。ユリシーズは敏いティーア王女に気づかれないよう、踊りながらほんの少しずつロア達に近づいていく。
「本当は舞踏会なんて出たくなかったけど、そのおかげでキール公子に会えたんですよね」
ロアは笑顔で言った。貴族らしいお世辞ではなく、喜びの籠もった本心からの言葉だ。
「舞踏会に出て良かったです」
「こちらこそ、ロアさんに出会っていなかったらどうなっていたことか……。一生独身を貫くはめになっていたかもしれません」
どうやらロアとキール公子は順調に仲を深めていたらしい。気分が沈んだのはこれだけ自分達を引っ掻き回しておいて、自分だけはちゃっかり花婿候補を見つけていた厚かましさに嫌気が差したからだ、とユリシーズは自分に言い聞かせた。
キールは太い眉を上げて笑った。
「国に帰ったら手紙を書きますよ、文通をしましょう」
「はい、ぜひ」
天馬レースの緊張も忘れたかのように、ロアは楽しくて仕方ないという顔で笑った。ユリシーズがウィットバーン城で見たような、屈託のない笑顔だ。
「結婚の話以外にも、お話ししたいことがたくさんありますから」
悪戯っぽくロアが言う。無邪気な口から漏れた結婚という言葉に、ユリシーズの顔が強ばる。
「それは楽しみです。私の未来の妻に関することなら、何でも聞かせて下さい」
二人は幸せそうに笑い合った。曲が終わる。ユリシーズは恭しくティーア王女を解放し、何も考えずに同じ顔をしたティーナ王女の手を取る。
「どうしたのー?」
踊り出して少しすると、ティーナ王女が尋ねてきた。
「どうしたのって、何がだい?」
「何だか上の空みたいよー。顔色が冴えないわー」
「そうかな。まあ最終日だし、流石に疲れが出たのかもしれないね」
ティーナ王女は黙ってユリシーズを見ている。
「招待客にこんなことを言うのも何だけど、今日でこの浮かれた馬鹿騒ぎとお別れできると思うとせいせいするよ」
ユリシーズの顔に露骨な嫌悪の色が浮かぶ。珍しく強い負の感情が幼馴染みの顔に現れたので驚いたのか、ティーナ王女は目を見開いた。
「あら。あなたは大舞踏会の主役の一人なのに、楽しめなかったようねー」
慌てて表情を和らげて、ユリシーズは困ったように笑った。
「もしきみのためにソイニンヴァーラ国王が花婿探しの大舞踏会を開いたら、きみは心から楽しめるかい?」
それほど演技をしなくとも、ここ数日の苦労のおかげで疲れた声が出せる。だがティーアは誇るように豊かな胸を反らした。
「ええ、ティーアがいればねー。わたくしたちの花婿選びなんて、ティニヤがきっと張り切るわー」
「そうだった、きみたち三人が揃えばこの世に楽しめないことはない。愚問だったね」
ソイニンヴァーラの三王女の強い好奇心と絆の深さを思い返して、ユリシーズは苦く笑った。曲が終わる。ユリシーズはティーナ王女と別れ、ほんの少しの間この大広間を眺めた。
コンラッドはパンセ共和国の首相夫人と踊っていた。マーヴィンはティーアと踊っている。ロアはというと、また壁際の隅の方で手の中のグラスを見下ろしている。
キール以外とは踊りたくないのかもしれない。彼女に関わる気はない。だが仮にもベルンシュタイン帝国の代表として来ているのだから、最終日に踊らない訳にはいかない、とユリシーズは心の中で呟いた。
近づいていくと、踊り終えたキールが先に彼女と合流した。片時も離れたくないのだなと、ユリシーズは二人の仲の良さにうんざりする。
「……やあ、キール。どうやらきみの花嫁探しは上手く行ったみたいだね」
ロアとキールは同じタイミングでユリシーズを見た。どことなく犬を思わせる、少し似た雰囲気を二人は纏っている。
中庭でのことがあるのだから当然だが、ロアは少し怯えたような不安げな表情だ。だがキールは自分の幸福に浸り切っているようで、後頭部に手を当ててはにかんだ。
「いえ、上手く行っただなんてそんな。まだ何も始まってもいませんよ」
「それで、結婚式はどっちでやるんだい? キリヤコフ、それともベルンシュタイン?」
冗談めかして質問したユリシーズではなくキールを見上げて、ロアは困った顔で笑った。
「気が早いよ。ね?」
「まだプロポーズもしていないんです」
キールを見上げるロアの緑の目には、当然ながらユリシーズに向けるような敵意も怒りもない。そんな会話ができるのだから、プロポーズの返答はもう決まっているのだろう。おめでたいことだ、と心の中で呟く。
「まあ、急ぐことはないさ。……それにしても、女性騎手の花嫁か。キリヤコフの皆はきっと驚くだろうね」
ユリシーズは自分の靴先を見下ろして言った。ロアが泣きながら散らした薔薇の花びらが、この靴の上に落ちていたことを思い出す。もう二度とないことだとしても、あれも確かに現実だ。
「最初は驚くでしょうが、私の家族もきっと彼女をすぐに好きになりますよ。キリヤコフの民も大らかですし、何も問題はありません」
「そうなったら嬉しいなあ。キール公子は本当にいい人だから、慣れない環境でもきっと大丈夫ですよ」
同意を求めるようにキールに満面の笑みで見下ろされて、ロアも幸せそうな笑顔で頷く。少なくとも今この時は、彼女は幸せなのだろう。賭けのことをキールは知っているのだろうか。嫌味の一つも言いたかったが、キールは友人だ。ユリシーズはぐっと気持ちを抑えて静かに息を吸い、同じように静かに吐いた。
ウィンフィールドでは見慣れないこの容姿や、母の不貞で他人からのどんな言葉や態度を示されても、子どもの頃はともかく長じてからはこうしてやり過ごしてきた。どんな時間も耐えていればいつかは終わる。自分にやり過ごせないことはないという、屈折した自負がユリシーズにはあった。
そう信じる背中を押すように、次の曲が始まる。





