馬子にも衣装
ウィンフィールドの王城はまるで絵本の中に出てくるような白亜の城で、あちこちに花や観葉植物が植えられていた。噴水の水音も涼やかな中庭には、神話やおとぎ話を題材にした白大理石の彫刻が飾られている。世界一美しい国と呼ばれているのは決して誇張ではなかった。
「嫌だよ、こんな格好!」
中庭に面した白いランセット窓から、ロアの情けない叫び声が響いた。声の出所の客室では、ジャンメール家の侍女のマヌエラが小首を傾げている。ロアは急に大声を出したせいでむせて、コンコンと赤い顔で咳をしていた。丸顔の中年の侍女が急いでコップに水を注ぎ、ロアに手渡す。
「よくお似合いですわよ。馬子にも衣装というやつです」
マヌエラはロアの言葉に構わず、しれっとした顔で褒めた。ロアは緑色のパーティドレスを着ている。謁見の際に着たものや道中着ていたものよりもかなり華やかなデザインで、初めて着るオフショルダーだ。胸元も普段のものよりも深く開かれていて、袖や裾は金糸の刺繍で縁取られている。ロアは水をごくごくと喉を上下させて一気に半分ほど飲み、丸顔の侍女にコップを返した。
「無理無理。肩も丸出しで恥ずかしいし」
かすれ声で言って自分でドレスを脱ごうとするロアの手を、マヌエラは優しく、だが何の迷いもなく押さえつけた。口元は笑っているが眼鏡の奥の黒い瞳は真剣だ。
「いけません、ロア様。あまり時間がないのですから、おとなしく着ていて下さい」
マヌエラはある面ではロア以上に頑固で、こうと決めたことは例え相手が主人であっても譲らない。だからこそジャンメール男爵はマヌエラを同行させたのだった。ロアは諦めて腕を下ろした。
「じゃあ、あれはどう? 母様の黄色のドレスは?」
ロアはお気に入りのドレスを提案する。首元まで覆うあのドレスなら、これほど肌を晒さずに済む。
「あれは持って来ていません」
「え、どうして」
「お屋敷で着る分にはともかく、流石に宮廷舞踏会で着るには古すぎます」
ロアは腹立ち紛れに己の髪をわしゃわしゃと掻き乱し、唇を尖らせた。
「こんな格好で踊ったら、すぽんっと脱げちゃうかもよ?」
「それは大惨事ですね。でも脱げやしませんよ、しっかり留まってますとも」
マヌエラは笑い、ロアの背後に移動して一つ一つ留め具を確かめながら答えた。ロアはひどく心許ない気持ちで、オフショルダーで露出した肩を守るように抱いた。
「ほとんど裸みたい。ネックレスは冷たいし……」
ロアは泣きそうな顔で己の上半身を見下ろした。首にはロアが赤ん坊の頃に両親が贈ってくれた、ロードナイトのネックレスが掛かっている。宝石としては控え目な印象でロアも気に入ってはいるし大切なものでもあるが、そもそも装飾品に慣れていないロアにとっては何度か使っているとはいえまだ違和感があった。
そばかすのある年若い侍女が、ロアの脱いだドレスを整えながら口を挟む。
「すぐに温まりますよ。それにそのくらい露出のうちに入りませんわ」
「そうですよ。それを裸だとおっしゃるなら、ベーア夫人のドレスなんてどうなるんです」
マヌエラが上げたベーア夫人というのは、露出度の高いドレスを好むベルンシュタインの子爵夫人の名だ。それを聞いて他の侍女がもっともだと楽しげに笑った。ロアだけが口をへの字にしている。
「そのくせ丈は、いつものよりずっと長いよ」
ロアはぽんと軽く片足を蹴り上げて、ドレスの長さへの不満を口にする。気分の乗ったロアの踊りがどれほど激しいか知っている侍女達は、その丈で当然だという顔をした。ロアの足には傷跡がある。
「騎手の仲間内では名誉の負傷としてご自慢の傷跡でも、舞踏会ではそうはいきませんからね。ウィンフィールドの国王陛下の御前で万一のことがあったら、それこそ大惨事です。丈の長さは慎重に選ばせて頂きました」
そばかすの侍女が澄まし顔で頷く。
「もうすぐ十九歳になるんですから、総丈にも少しは慣れて下さいな」
丸顔の侍女がやれやれといった口調で言う。頬をむうっと膨らませ、ロアは椅子に座った。マヌエラは主に気を取り直してもらおうと微笑んだ。
「ロア様、こんな機会は二度とありませんよ。ウィンフィールドだけではなく、周辺国からも沢山の方々が集まっておいでなのですから」
「そうですとも。ベルンシュタイン中の娘たちから、ロア様は羨ましがられているんですよ。せっかくですから楽しんでいらして下さい」
舞踏会への参加は代わってもらえるものなら代わってもらいたいロアは、不満げな顔をしてずるずると椅子の背もたれからずり落ちる。侍女達はこの舞踏会の目的がウィンフィールドの二王子の花嫁探しであることを、ジャンメール男爵から聞いて知っていた。だが馬にしか興味がなく、抜きん出て美しい訳でもないロアが花嫁に選ばれるはずがないと気楽に考えている。
マヌエラが白いレースの手袋を差し出すと、ロアは膨れっ面のままそれを受け取って立ち上がった。
「どちらへ行かれるのですか」
「厩舎」
「厩舎? その格好でですか?」
「好きでこんな格好してるんじゃないよ、マヌエラたちが着せたんでしょ!」
ロアがぷりぷりと怒り出す。城壁の上の関所での出来事が、まだロアの中で燻っていた。兵士達だけが悪いのではないことはロアにも分かっていた。馬達が人間の都合で簡単に殺されていることの責任は、騎手である自分にも確実にある。だからこそ兵士達を責めるだけでは終われず、後味の悪さを引きずっているのだった。
「舞踏会のために着せたのです。馬のためではございません」
マヌエラがきっぱりと言い、そばかすのある侍女は目をくりくりさせた。
「それ、採寸の時のことなんて覚えてらっしゃらないでしょうが、この日のための特注品なんですよ。汚れたら大変ですから、おとなしくお部屋でお待ち下さい」
ロアは恨めしげな顔をした。
「レースは来週だから、少しでも天馬に慣れておきたいんだけど」
「今日は諦めて下さいませ」
ロアは重力に体重を任せてぼすんと椅子に座った。ドレスのドレープがひらりと舞い上がって降りる。ロアは必死に苛立ちを押さえ込んでいる。それが分かっているマヌエラもしばらく何も話しかけなかった。少しして、椅子の肘掛けに施された模様を爪でなぞりながらロアが呟いた。
「じゃあ舞踏会が終わって、帰ってきた後に行く」
「初日は催し物も多いでしょうし、長いですよ。帰ってきたら疲れて寝るだけだと思いますが」
妥協したつもりなのに丸顔の侍女に更に制され、ロアはキッと侍女達を見た。
「それじゃあ、明日の朝ならいいんだね!」
「さて、どうでしょう。ロア様のご希望はお伝えしておきますが」
自分の城でないということは、何をするにしても許可がいるということなのだ。ロアはうんざりして大きくため息をつき、息苦しさを振り払うように反動をつけて立ち上がった。シュルシュルと衣擦れの音を立てながら扉の方へと進む。
「ロア様、どちらへ?」
「ちょっとお散歩!」
「ロア様、グローブを」
年嵩の侍女が白い絹のイブニンググローブを急いで差し出した。だがグローブが嫌いなロアは手には付けずに、むんずとそれを掴み取った。
「皺になります!」
ロアは手の力を緩めて扉の方へ身体を向ける。マヌエラは時計を見上げた。
「遅くとも舞踏会が始まる三十分前にはお部屋にいなくては、案内人が困りますよ」
「すぐ戻るよ」
マヌエラは素早く靴の入っていた箱を閉じた。
「お待ち下さい、私も参ります」
「え。どうして?」
「ベルンシュタインの貴族令嬢が、お付きの者も連れずにお城をうろうろするのは宜しくありません」
ロアはひとまず黙って、それからヨゼフィーネと行けば何をしてもマヌエラほどは厳しく注意されないだろうと閃いた。ヨゼフィーネはロアの行動に文句は言うが、マヌエラのようにロアを押さえつけたりはしない。
「わかった、じゃあヨゼフィーネと一緒にいくよ。だからマヌエラは待ってて」
「ヨゼフィーネさんと? あの方は──あ、ロア様!」
扉が大きく開かれ、ドレスの裾を少しだけ挟んで閉まった。次の瞬間、外から強く引かれて裾も客室を出て行った。





