黒い羊
『新しく紳士淑女の仲間入りを果たした諸君、今夜から諸君は大人としての義務を負うこととなる。ベルンシュタイン帝国の貴族という地位に恥じぬよう、領民に対して、ひいてはベルンシュタイン国民に対しても──』
ベルンシュタイン帝国の伯爵家の大広間は石造りで、明かりを節約している訳でもないのに薄暗かった。
この秋の夜会にはグラットコール地方を初めとした東南部の各地方の、初めて社交界に出る貴族の子女が集められている。成人の儀式のようなものも多少兼ねているため、華やかさよりも厳粛さが勝っている。初めての夜会を迎えた少年少女達はそれぞれ手に金の燭台を持ち、壇上の伯爵に向かって横一列に並んでいる。
その中にロアもいた。昨夜の寝不足と不慣れなドレスとハイヒールで、既に身体は疲れ切っていた。一人ずつの義務である儀式めいた宣言を震える声でどうにか言い終えると、ロアは青い顔で父親の元に戻ってきた。
『疲れた……』
『よしよし、おまえにしては上出来だ』
父であるジャンメール男爵は大きな失敗がなかったことに気を良くしながら、娘の頭をぽんぽんと撫でた。それから用意していたシャンパンの入ったグラスを差し出し。ロアはそれを受け取り、水を飲むかのように勢いよくごくごくと二口飲んでしまいひどくむせた。周囲の目がジャンメール親子に向けられる。
『大丈夫か?』
『ゴホッ、ゴホ……だい、丈夫』
ロアは手の甲で顎の雫を拭い、ジャンメール男爵はそれを見て胸ポケットのハンカチを取り出して娘に手渡した。娘の目には涙が滲んでいる。
この日が来るのがずっと、ロアは憂鬱で仕方なかった。動きにくくて肌寒い馬鹿げたドレスに身体を押し込み、あちらこちらの貴族とにこやかに談笑し噂話を集めては広め、時には男性と甘ったるい曲に合わせて踊ることが義務になるこの日が。
男爵は娘の気持ちはよく理解していたが、だからといって社交界に出さない訳にもいかなかった。
『おめでとう、ロア』
艶然たる声が響いて、ロアは振り返る前からその気配に苦い顔をした。
『姉上。お久しぶりです』
『本当にね。元気そうで良かったわ、ダックス』
扇で口元を隠し緩やかに歩いてきたのはジャンメール男爵の姉、フンボルト子爵夫人だった。ロアは背を丸めそっと父の影に隠れるようにして、伯母と目を合わさないようにへこりと頭を下げた。
『……お久しぶりです、伯母様』
『まあロア、何ですその態度は。きちんと前に出て挨拶なさい』
優雅に扇を揺らす仕草とは裏腹に、子爵夫人の顔は露骨に不機嫌だった。この伯母には不機嫌と上機嫌しかないのだ。ロアは仕方なしに前へ出て、父にハンカチを返してから同じ言葉を繰り返す。
『お久しぶりです、伯母様』
『みっともない。背筋をきちんと伸ばしなさい』
子爵夫人は顔をしかめた。
『姉上、今日は義兄上はどちらに?』
流れを変えようと男爵はさりげなくフンボルト子爵の話を持ち出したが、子爵夫人はロアから視線を外さない。
『あの人ならいないわ、先週からキリヤコフに行ってるのよ』
『ヤンはどうしました?』
『ヤンも一緒にキリヤコフよ。最近はいつもそう、わたくしだけがお留守番。それよりまずは姪のお祝いをさせてちょうだいな』
息子の名を出されると子爵夫人はますます不機嫌そうな顔になり、うんざりしたように答えてから語気を強めてロアを見た。
『社交界デビューおめでとう、ロア。あなたもいよいよ大人の女性の仲間入りね。伯母として嬉しいわ』
子爵夫人は口端を上げて見せた。
『それで、ダンスは踊れるの?』
恐らく子爵夫人が本当に言いたかったのは、この一言なのだ。
『……この日のために、練習はしてきた、つもりです』
ロアは眉を八の字にして俯きがちに答えた。少年少女達がざわめきの中それとなく踊る相手を探している。
『つもりじゃ駄目なのよ。どうなの、ダックス?』
ため息をついて、子爵夫人は弟を見た。ダックスは子どもの頃からのトラウゴット・ジャンメール男爵の渾名だ。
『ああ、まあそうですね……うん、頑張ってはいましたよ』
ジャンメール男爵は言葉を濁す。楽団が演奏を始めた。親戚の中では社交界の女王のような伯母と話すのは苦痛だったが、一曲踊らなくて済んだことだけは良かったとロアは思った。
子爵夫人はひらひらと扇を動かす速度を上げた。
『ふうん。まあ、見せて頂くわ。ロア、あそこでミッチェルが手持ち無沙汰にしてるから踊ってらっしゃいな』
『ミッチェル?』
ロアの呟きに、伯母は眦を吊り上げた。
『……まさかあなた、グラットコールの隣の地方領主の息子の名前さえ知らないって言うんじゃないでしょうね?』
『ミッチェル・アンカーソンだよ、ロア。フルネームで聞けば分かるだろう?』
アンカーソン伯爵家は大領主だ。すかさず男爵が助け船を出す。ロアは口の中でああと呟いて、不器用に分かった振りをした。それから先ほど伯母が見ていた方角へ目を向け、それらしい少年を見つけ出すと嫌々ながら彼に近づく。子どもの頃からの刷り込みで、親娘揃ってこの伯母には頭が上がらないのだ。
『……ええと、ミッチェル。ミッチェル・アンダーソン?』
ロアが声を掛けた小柄な少年はびくりと肩を震わせ、上目遣いにロアを見た。色白な肌の上にそばかすが散っている。
『みみ、ミッチェル・アンカーソンだよ』
『アンカーソンか。間違えてごめん』
『……あの、き、き、きみは、ロア・ジャンメールだよね?』
相手の名前を間違えた上に、自分は顔も名前も知らなかった相手はこちらの名前を正しく覚えていた。ロアは落胆し恥じ入り、もう何もかも投げ出して家に逃げ帰りたくなった
『ああ、うん。……』
『……』
『…………』
ミッチェルは自分からは誰もダンスに誘えないほど内気な少年なので、こちらが話し掛けない限りは会話が続かないらしい。ロアはやけくそ気味に大きく息を吸った。
『あのさあ。一緒に踊ってくれる?』
『えっ……ぼっ、ぼぼ、ぼ、ぼくでいいの?』
驚いて目を丸くしたミッチェルに、ロアは大きく二度頷いた。
『もちろん。人助けだと思って、お願い』
ロアが頼み込むとミッチェルは顔を赤らめ、両手を胸の前でもじもじと組み合わせた。社交界デビューできる年齢になったとは思えないほど幼げな仕草だ。だが実際にはミッチェルはロアより一つ年上で、社交界デビューは去年だった。今日は年子の弟のために家族と共に舞踏会に来ていたのだ。
『でっ、でで、でも、あの、ぼく、ひ、人前で踊るのは苦手で……!』
『本当に? よかった、私もダンスは苦手なんだ。二人とも苦手なら気楽でいいね、私が教えられるところは教えてあげるよ』
それなら失敗してもお互い様だろうと、ロアは安堵してにこりと微笑んで手を差し出す。ミッチェルはおずおずとその手に自分の手を伸ばしたが、急にはっとして慌ててハンカチで自分の手汗を拭った。それからようやくロアの手を取る。ミッチェルは耳まで真っ赤だった。
『まずはそうだね、曲に乗って……』
『痛っ!』
『あ、ごめん』
ミッチェルの足を踏んでしまい、ロアは慌てて足を引いて謝った。
『えーっと、右足を前に……』
『いっ、たい!』
目をぎゅっと瞑ってミッチェルが悲痛に叫ぶ。
『ごめん!』
足の甲の先ほどと同じ場所を踏まれ、ミッチェルは涙目になった。ロアはますます焦り、悪循環に陥っていく。ちらりと伯母を見ると、扇で表情は窺えなかったが怒りのオーラが立ち上っていた。ロアは内心震え上がる。
その後、実はダンスが驚くほど上手かったミッチェルのお陰で、後半は何とか流れに乗れた。だが何度もミッチェルの足を踏みつけにしてしまった。
『ごめんね、ミッチェル。足は大丈夫?』
『う、うん。ど、どうせあとは舞踏会が終わるまで立ってるだけだから、へ、平気だよ』
涙目で眉を下げつつ、ミッチェルは微笑みを作った。
『もう踊らないの? どうして?』
理由を尋ねると、ミッチェルはきょとんとした顔をした。
『え? だだだ、だって、ぼくと踊りたがる人なんていないよ』
『いたじゃない』
ロアは自分の鼻先を指で示した。その仕草や表情が面白かったのか、ミッチェルは少し笑った。
『そ、そんな物好きはきみくらいさ』
『そんなことないよ』
『そ、そんなこと、あるよ。ぼぼ、ぼくは見た目も冴えないし、しゃしゃ、喋ればこの通りだし……でも、いいんだ。踊るのは、き、緊張するから』
ミッチェルは寂しげに目を伏せた。
『そんなあ。こんなにダンスが上手なのに、もったいない』
『……ほほ、ほんとは下手くそだよ。きょ、兄弟が上手いから、練習に付き合ってたおかげで、ふ、普通に見えるだけなんだ』
本当にそう思い込んでいるらしく、ミッチェルはますます俯いてしまった。ロアは瞬きをした。
『普通なんかじゃないよ、すっごく上手いってば。相手がミッチェルじゃなかったら私、あと三十回は足を踏んでたと思う』
謙虚を通り越して卑屈なほどのミッチェルの言葉に、ロアは力強く返す。ミッチェルは七回踏まれた後だけに現実味のあるロアの言い回しに笑い、それから顔を赤くした。
『堂々としてなよ。みんなあなたの今の踊りを見てたんだから、きっと向こうから声を掛けてくるよ』
『……』
ミッチェルは何も答えず、ただ上目遣いでロアを見た。ロアは微笑む。
『──ミッチェルのリード、すっごく踊りやすかった! おかげで後半は上手く踊れたよ、どうもありがとう』
わざと周囲に聞こえるように声を大きくして礼を言い、ミッチェルに軽く手を振ってロアはその場を離れた。去って行くロアを見て慌ててミッチェルは何か言いたげに口を開いたが、何を言うべきか頭がまとまらなかったのか、意味のある言葉は何も出ては来なかった。
ロアは伯母であるフンボルト子爵夫人に何を言われるか想像して、小さくため息をつきながら父の元へとぼとぼと歩いて行く。
『あら、あなたの可愛い暴れ馬が戻ってきましたわよ、ダックス。まあまあまあ、ミッチェルが気の毒で仕方ありませんでしたよわたくしは!』
戻ってきた姪を見るなり一気に捲し立てると、子爵夫人はこれから説教するために喉を潤そうとするようにシャンパンを一口喉に流し込んだ。
『アンカーソン夫人には後でわたくしから謝っておきます。それにしたって、どうやったら曲の途中から踊り出したのに七回も足を踏めるんです?』
数をきっちり数えていた伯母に、ロアは内心呆れる。怒りがある程度のラインを越えると敬語になるのは伯母の癖だ。ロアはただ嵐が過ぎ去るのを待つように、身を縮めて謝罪した。
『ごめんなさい、伯母様』
『ミッチェルは見事なものでした。最初こそ緊張していたようですけど、あんなに優雅に踊るとはわたくしも思いませんでしたわ。それに比べて、あなたと来たらまあ……ねえアメリア?』
『そうねえ。焼けたフライパンの上のクルミを盗もうとした、哀れな鼠のような踊りだったわねえ』
フンボルト子爵夫人の娘、アメリア・ケッシンガー男爵夫人もロアが踊っている間に合流していた。こうなるともう親娘が仲違いを始めるまでは無敵状態だ。
『すみません』
『それはもちろん社交界デビューは誰だって緊張しますから、上手く行かなくても仕方ない部分はありますけどね。それにしたって酷すぎますよ、ダックス』
『いやはや、面目ありません』
ジャンメール男爵は頭を掻いた。こういう時は下手に娘を庇い立てするよりも、謝罪に徹する方が早く解放してもらえる。
『来週の週末、うちにいらっしゃいな。わたくしがダンスを教えてあげるわ』
ケッシンガー男爵夫人が無邪気に微笑む。
『あ、いえ、週末はちょっと用事が……』
この日を耐えればダンスなんて終わりだと自分を励まし続けて来たのに、とんでもないとロアは首をすくめた。
『何の用事か知りませんけど、どうせまた馬のことなんでしょう? 大体あなた、あんな踊りを人目に晒しておいて練習を断れる立場ですか!』
伯母の容赦のない言葉に、ロアはますます小さくなる。どれほどこの日を娘が憂鬱に思ってきたかを知っている男爵は可哀想になり、反対側の壁際を指差した。
『ロア、あそこにお嬢さん達が集まっているよ。少し先輩の話を聞いてダンスの勉強をしてくるといい』
『うん!』
父の言葉に、ロアはすかさず走り出した。同世代の少女の集団など苦手以外の何物でもなかったが、来週末の遠乗りの予定まで変えられるよりはましだった。
『あ、お待ちなさいロア! ……まったくもう、話の途中だったのですよ』
子爵夫人はぎろりと弟を睨みつけた。
『あなたはロアに甘すぎます。だからダンス一つまともない踊れない娘に育ってしまったんです』
『それに関しては申し訳なく思ってます』
『そろそろ縁談も考えなくてはいけない年頃なのに、あのままじゃとてもとても』
子爵夫人は大袈裟に首を横に振った。
『ええ、本当に。それでも姉上がいてくれて良かったですよ。こうして耳の痛い言葉を言ってでもロアを躾けてくれる姉上が近くにいなければ、もっと酷いことになっていたでしょうからね』
『そうでしょうとも』
子爵夫人はため息をついた。
『本当に、姉上には感謝しかありません。男手一つで娘を育てるには限界がありますから』
世慣れていないと妻にはよく言われていた男爵も、三人の姉に揉まれて育った身なのでこの程度の処世術は身に付けている。天国の妻が自分を見て笑っている気がした。弟の言葉を聞いた子爵夫人は少し溜飲を下げたようだった。
『……まあ母親がいないのだから、ある程度は目をつぶらないといけないのかもしれないわね』
その時、子爵夫人の知り合いが夫人に話し掛けてきた。打って変わって猫撫で声で笑顔を浮かべた母を横目に、ケッシンガー男爵夫人がジャンメール男爵に囁く。
『母様はもっと叔父様に頼ってほしいのですわ。ヤンも最近はすっかり反抗期ですから』
『ほう、あのヤンがねえ』
『わたくしは、ロアにはあのままでいてほしいのですけれどね。小さな頃からちっとも変わらないあの子を見ていると、何だかほっとしますわ』
ケッシンガー男爵夫人は励ましのつもりで言ったのかも知れなかったが、ジャンメール男爵はひどく複雑な気分になった。
先ほどジャンメール男爵が指差した先では、十代から二十歳を過ぎたくらいの若い娘達が数人固まって何か話していた。
ロアが速度を緩めて近づいていくと、娘達の一人と目が合った。その少女は目に笑みを浮かべ、隣の少女に顔を寄せ何か囁いた。すると隣の少女もロアを見て、その他の少女も一斉にロアを見た。
思わずロアの足が止まる。綺麗に結い上げられ整えられた髪、流行のデザインの質の良いドレス。娘達の輝く目には、騎手免許の試験を受けたと噂のロアに対する好奇心と軽い嘲りが滲んでいた。
『……』
慣れないパーティに初めての儀式、それに伯母の説教とダンスの失敗でくじけた今夜のロアの心には、もうそれ以上娘達に近づく力が残っていなかった。
幼馴染みを除けば、昔から貴族の娘達とは話が合った試しがない。ロアには彼女達の話すことがピンと来なかったし、向こうもロアの話すことには理解も共感もできないようだった。馬に乗るのが好きだと言うと驚かれ、騎手になるつもりだと言うと変人扱いされた。ぽつりと言ったことが非常識だったらしく、総がかりで騒がれてショックを受けたこともある。
最近は騎手仲間の女性達と行動を共にすることが多くて忘れていたが、貴族としての自分の異端ぶりを改めて思い出してロアは項垂れた。
人々のざわめきと硝子越しの炎の光の煌めき、アルコールや嗅ぎ馴れない豪勢な料理の匂い、閉じ込められて止まった空気。気疲れのせいか、僅かに瞼が落ち着きなく震えている。コルセットのせいでひどく息苦しかった。
ロアは進行方向を変え、アルコールの入っていない飲み物をぐいとあおった。誰にも話し掛けられないよう時折位置を変えながら、壁際でしばらく一人で過ごす。
ミッチェルが真っ赤な顔で同じ年頃の娘と踊っているのが見えて、ロアの気分は少し明るくなった。ふと目が合い、ロアは笑顔でミッチェルに手を振った。ミッチェルは顔をますます赤らめて俯いてしまった。そのうち従姉妹のケッシンガー男爵夫人も父から離れたので、ロアはほっとして父の側へ戻った。
『話は聞けたかい』
父に問われ、ロアは力なく首を横に振った。
『ううん。……疲れた。早く帰りたい』
男爵は慌てて人差し指を口に当て、シッと小さく息を吐いて娘を窘めた。
『こらこら、晴れの日に何てことを』
『だって、ほんとにもう限界なんだよー……』
ロアは情けない顔になり、普段とは似ても似つかないへなへなと力が抜けたような声で言った。
『時間的には、まだ全体の三分の二が終わったというところだぞ。おまえは本当に、こういう場に出ると途端にナメクジのようになるね』
男爵は馬上で弾む普段の娘と同一人物とは思えないような姿に呆れ、同時に同情もして頭に優しく触れた。ロアは泣きたい気持ちになった。
『……』
ロアはちらりと先ほどの娘達を見た。娘達はもう誰もこちらを見てはいなかったが、笑い合う彼女達の中に自分が入っていける気はまったくしなかった。
まるで見えない線が引かれているようだった。娘達も伯母も従姉妹も、線の向こう側の世界の住人だ。ロアは居城に帰って早く自分の馬に会いたいと思った。





