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第六十二話 疑われた英雄3

 犯人が最後に目撃された場所は、ラファエルの言う通りの逃げ道のない場所だった。


 犯人が逃げ込んだ部屋は何かの倉庫のようで無人である。倉庫には人でも隠れられそうな大きな(かめ)や箱もあるが、中身はすべて調べたらしい。ラファエルの話では床に犯人が残した水の跡があったそうだが、すでに乾いているようだ。


 ラファエルも一通り部屋の中を調べていたが、おかしな点は見当たらなかった。カスタル王国の兵士たちも事件の捜査には慣れている。決して手を抜いているわけではなかった。平民とはいえ他国の英雄と呼ばれるケイオスを疑うとなると慎重になるのも当然であり、犯人につながる手がかりがあればそうそう見落とすはずもない。


 だが対照的に考え込むヴイーヴルの姿にラファエルは(わら)をもすがる思いで聞いた。


「何かわかりましたか?」

「ちょっとな。さっきと同じ臭いが残っておる」


 そう言ってヴイーヴルはくんくんと辺りを嗅ぎまわり大きな瓶の前へ行く。瓶の中には水が入っていて外から見ても不自然なところはない。

 しかしヴイーヴルは臭いをかぐのをやめると、自信を持って言った。


「うむ。おそらく犯人はこの瓶の中に隠れていたに違いない」

「本当ですか? し、しかしこの瓶の中は水が入っています。いくら人が入る大きさの瓶であったとしても犯人が隠れることはできないはずですが」

「そうじゃな。普通の人間ならば隠れても意味が無かろうな」


 それは言外に犯人が人間以外の可能性を示唆(しさ)していた。


「わずかばかりじゃが、人間以外の臭いが混じっている。この体では鼻も鈍くなってしまうから確信が持てなかったが、ここまで状況がそろえば犯人が何なのかわかったぞ」

「いったいそれは?」

「魔物じゃよ。おそらくケイオスの姿に擬態したのじゃろうな」


 ラファエルも魔物が擬態することを知っており、苦い思い出がある。何しろエルダートレントと戦った際、トレントが森の中の木々に擬態していて軍に襲い掛かってきたことがあるのだ。軍を率いていた彼がそのことを忘れられるわけがない。


「少し待って下さい。そのような擬態ができる魔物など聞いたことはありません。吸血鬼の仕業ではないことはわかっています。まさか吸血鬼のような我々人間に知られていない魔物なのでしょうか?」


 トレントは元の姿が実物の木と見間違うような姿――木に顔があるような魔物であったため、身動きしなければ擬態も容易であったが、複雑な人の姿に変わるなどそうそう信じられるものではない。


「有名かどうかは知らぬがスライムじゃぞ。スライムの体は液体に近いものでできておる。瓶の水に紛れれば気づくことはできまい」

「スライムのことは私も知っております。水辺の近くに生息する魔物で近づくものを体の中に取り込み消化する恐るべき魔物。ですが知能は低く、姿を変えられるなんて初めて聞きました。もしそうだとしたら、とんでもないことになりますよ」


 スライムは有名な魔物だ。これらがすべて人間に擬態できるとすれば国内にどれだけ魔物が人間になりすまして潜んでいるかわからなくなってしまう。


「希少種にいるのじゃよ。高度な擬態となるとそれだけ知能も必須になる。人と会話することができるぐらいにな。じゃからそれほど数はいないぞ。妾も長い間生きてきた中でそんなスライムと見かけたのは数えるぐらいしかないからの。むしろまだ生きておったことに驚きじゃ」


 ラファエルはヴイーヴルの言葉にほっと胸をなでおろした。人間に擬態できる魔物が数多くいるのが事実ならば殺人事件以上の大事件だ。吸血鬼の対策がようやく始まったばかりなのにそのことが民衆に知れ渡ったら、隣人が魔物ではないかと疑い各国が混乱に陥るところだった。


「スライムが犯人だとは……。これならあの殺人現場が密室でも犯人が侵入した理由も納得だ」

「スライムの体は液状で自在に変化できるからの。人間では通れないあの窓の隙間も容易じゃったじゃろう」


 殺害現場の窓はわずかに開いていた。人間では侵入不可能な隙間でもスライムのように自在に体の形状を変化できるのであれば、侵入するのはたやすい。


「じゃあこの事件は」

「多分殺人の罪を着せ、ケイオスを人間の手で始末させるのが目的。魔物が仕組んだ罠であろう。最悪ケイオスを幽閉させてしまえばうかつな行動はできまい。姑息な手じゃが、それだけ魔物にとってケイオスは目障りだと判断したんじゃろ。魔物の侵略を何度も防いだんじゃ。魔物が警戒し、姦計をめぐらすのも当然じゃな」


 魔物から見ればケイオスは人間への侵攻を妨害し続けてきた中心人物なのだ。もっとも目障りな存在と言えよう。今後も妨害してくるのは目に見えている。ならば、その人物の排除に当たるのはごく自然な流れと言えた。


「このマウクトに来てからごくまれにケイオスが何者かに監視されている気配を感じておった。じゃがどうにもこの体では感覚が鈍くて誰が監視しているのか特定できず、こうも人間が多いから人間の誰かがケイオスのことを見ていたと思っておった。スライムはケイオスの姿を真似るために王宮の中に潜伏して、ずっとケイオスを観察していたんじゃろう。そこでケイオスの人間関係を把握した。犯人と疑われてももっとも不自然ではない都合のいい相手を狙ったようじゃな」


 ケイオスのことを公然と侮辱した相手というのがスライムの目に留まったということだろう。


「ならばまだその瓶の中に?」

「いや、もういないようじゃ。おそらくしばらく潜んで目を離した隙に逃げたのじゃろう」

「ああ、何ということだ」


 さきほどからヴイーヴルも周囲を調べていたが魔物の気配はない。すでに魔物は逃げ出したあとだ。ラファエルもよもや瓶の中に魔物が潜んでいるとは思わず見落としたことを悔やんだ。


「でもこれでケイオスの無実は証明できたのではないか?」


 犯人が魔物であればケイオスは無実だ。

 ところがラファエルは気まずそうに首を振った。


「有力な状況証拠にはなりましょう。ですがそれを有力にするにはマエリス殿の正体を明かさねばならない。それに極端なことを言えば、あくまで魔物は侵入しただけで殺人事件に関わっていない可能性もある。目撃証言を覆すにはやはりそのスライムを実際に捕えるほかないでしょう」

「厄介じゃのう」


 真犯人を見つけ出さない限り結果が出ない。ドラゴンの体であれば真犯人を探し出すことに自信はあったが、この体ではドラゴンの時よりも嗅覚が劣る。近くに魔物がいたりすれば見つけ出すことはできるが、さすがに広いクレルモン中を探し出すのは骨が折れる。


 悩み始めたヴイーヴルを前にラファエルは疑問を口にした。


「それに魔物がケイオス殿に罪を着せようとしたならば、一つだけ問題が発生するのです。ケイオス殿を陥れようとこんな手の込んだことを企んだのに、魔物がそれに気づいていないとは考えられません」

「問題? なんじゃ?」

「スライムがもしケイオス殿になりすましたとしたら、被害者を殺したのは当然スライムになる。いくら希少種と言ってもスライムならば魔物。スライムと変わらなければ、おそらく時間が経つと被害者の遺体はアンデッドになるはず。もしアンデッドにならないようにするなら、それこそ被害者の遺体をばらばらに処置していなければならない。しかし被害者の遺体は首の骨を折っただけ。これでは不十分かもしれません」

「ああ、そうじゃな。相変わらず呪いのような現象よ」


 ヴイーヴルは吐き捨てるように言った。


「妙じゃのう。遺体がアンデッドになったら、魔物の仕業だと気づかれるはず。それなのに遺体は放置していった? それじゃケイオスさんが魔物じゃないと罪を着せることができないではないか」


 いくら罪を着せようとしても、犯人が魔物であると知られてしまっては策謀の根本が破たんしてしまう。いくら何でも矛盾しすぎていた。

 ヴイーヴルは考え、そして気づく。


「お主さっきケイオスになりすました犯人が、姿を衛兵に目撃させるためにわざと被害者の悲鳴を上げさせたのではないかと言っておったの」

「ええ」

「もしかするとスライムにとってもそれは予想外の出来事だったのではないかの」

「予想外ですか?」

「本来は被害者の悲鳴を衛兵に聞かせるつもりはなく、寝ている被害者を殺害してアンデッドにならないように処理してから、そのあと衛兵に気づかせて事件を発覚させるつもりではないのかと思うてな」


 犯人はケイオスに罪を擦り付けることが目的であり、衛兵にケイオスが犯人であると誤認させなければならない。確実にケイオスが犯人であると衛兵に誤認させたいなら、ケイオスが被害者を殺害する瞬間を目撃させるのが一番効果的だ。


 それをあえてしなかったということは理由がある。殺人現場で何かを細工をしようと考えていたのではないだろうかとヴイーヴルは考えたのだ。


「ずっとひっかかっていたんじゃよ。密室の謎が。スライムの特性を活かして衛兵に気づかれないように侵入した結果、密室になった。これはわかる。けれど犯人がケイオスに罪をなすりつけたいのならこれじゃ逆効果じゃ。あえて密室なんて犯行が難しくなる状況を作り出して謎を残す必要はない。スライムが部屋の中に侵入したのならば真っ先に内側から窓を開けてそこからケイオスが侵入したと思わせたほうが不可解な謎が一つ消えるはずじゃろ」


 実際捜査が難航していた理由のひとつは事件が発生した部屋が密室であったことだった。この謎が解けなければ犯人がどうやって侵入したか説明がつかなくなる。そこからケイオスが犯人ではないかもしれないという疑いを持たれてしまっては元も子もない。


「でも眠っていた被害者が起きてしまい、スライムに気づいて悲鳴を上げてしまった。そのせいでスライムの想定よりも衛兵が駆けつけるのが早くなってしまい予定が狂ったのじゃ。おそらく急いで被害者を殺害したのじゃろう。過剰なほど力を入れて被害者の首を折ったのも確実に被害者を殺害するためだったのかもしれぬな。衛兵が駆けつけてしまったから暇がなかった。きっと元の予定では殺害した後、アンデッドにならぬよう遺体を処理するつもりじゃったんじゃよ」

「だとすると被害者が選ばれたのも、遺体が過剰に損傷していたとしても不思議ではないと思われるような人物。被害者に対して恨みを抱いていたからだと思われるようにしたというわけですな」


 ケイオス自身が恨んでいなくても、他者からは恨みを買っていそうな言動を繰り返していた被害者だ。疑いの目を向けさせるには十分だろう。そこにスライムは目を付けた。ある意味自業自得の結末と言えなくはないがあまりにも惨すぎる。


「このままだとケイオスが犯人じゃないとみなが気づくじゃろう。スライムがケイオスに罪を着せるには……、遺体の処分か!」


 被害者がアンデッドになってしまえば人間のケイオスが犯人である前提が覆る。ならば当然遺体の始末をつけなければならない。真犯人であるスライムがそのことに気がつかないはずがなかった。


「被害者の遺体はどこにあるのじゃ⁉」

「魔物の犯行であればすぐさまアンデッドにならないように遺体を処分しますが、人間の犯行と思われていたため、まだ処分はしていません。こっちです! スライムが遺体を処分する前に捕まえましょう!」


 ラファエルが遺体の保管場所へとヴイーヴルを先導する。遺体のある部屋にたどり着き、部屋の扉を開くとラファエルたちの頬を熱風がかすめた。


「しまった、遅かったか⁉」


 部屋には炎が燃え上がっていた。遺体に油を注いだのか炎の勢いは激しく、遺体の側に駆け寄れない。


「部屋ごと遺体を葬るつもりか! 火事だ! 早く水を!」


 ラファエルが衛兵を呼ぶ。衛兵はラファエルの指示に従い、消火活動に当たる。

 ヴイーヴルは炎が燃え上がったのはそれほど時間が経っていないと判断した。ならばまだ近くにスライムがいるかもしれない。焦げた臭いに混じり濃厚な魔物の臭いのもとをたどる。


「いたぞ! あそこじゃ!」


 ヴイーヴルが指を指した先には水たまりのようなものがあった。だが不自然にも平らな場所なのに、坂道を流れる水のように部屋から離れていくではないか。


「やはりスライムじゃったか!」


 ヴイーヴルが叫ぶ。


 ラファエルはスライムを視認すると同時に剣をスライムへと投げた。


「くっ、やはりダメか!」


 スライムの体に剣が突き刺さるが、かき分けるようにするりと抜けていく。スライムを倒すならばただの剣では通用しない。


 スライムはそのまま近くに会った溝へと姿を隠していった。


「くそっ、逃げられてしまったか。しかしこの排水溝を伝って逃げているとは。道理で犯人の姿が見つからないわけだ」


 マウクトの警備にスライムが引っかからなかったのは、姿を人間に擬態していただけではない。その自由自在に変えられる体を使って、人間では通り抜けることのできない排水溝のような狭い場所に隠れながら移動していたのである。


「遺体はどうなったのじゃ?」

「よほど念入りに処分したようだ。さすがにここまで遺体の損傷が激しいと、アンデッドになる可能性は皆無です」


 部屋の炎は鎮火しそうではあるが、絶対の証拠を残したくなかったのか遺体は焼き焦げ損傷が激しい。


 もうスライムは目的を達成した。ならばもう王宮に、いやマウクトに留まる必要はない。この排水溝を使い逃げ出したはずだ。


 だがすべてが終わったわけではない。


「この排水溝は市街の下水道につながっている。きっとスライムもそこに逃げ込んでいるはずだ。今すぐ追いかければ間に合うかもしれない」

「そうは言うがのう。下水道というのならば、下水の中にスライムが紛れては見つけられないのではないか?」


 マウクトの地下にある下水道はマウクト中に張り巡らされている。入り組んだ下水道からマウクトの外へ逃走するには時間がかかる。けれども下水道という至る所に水がある場所はスライムにとって絶好の逃げ場所だ。スライムが下水の中に逃げ込んでいたら、もう捕まえるどころか見過ごす危険も伴う。


 普通ならばラファエルたちでは捕まえることはできないだろう。しかしスライムの居場所を嗅ぎ分ける人物がここにいたのだ。


 辺りは日も暮れ始めていた。タイムリミットまでは時間がある。もう犯人の正体もつかめているのだ。手が届くあと一歩のところまで来ている。まだ諦めるには早い。


「行くぞ、下水道へ! スライムの居場所は妾が突き止める!」





 ラファエルは万が一スライムが排水溝を伝って市街に現れることを警戒し市街の巡回の強化や、下水道の出口の監視を部下に指示して、自身は部下を率いてヴイーヴルとともに下水道へと向かった。


「ううっ、さすがに臭うな」


 ヴイーヴルは顔をしかめ鼻を押さえた。仮初の体とはいえ、嗅覚が人間よりも鋭いのか下水道の臭いはたまらなく辛いようだった。


「臭いでスライムの居場所はわかりますか?」

「多少厳しいが、近くまでスライムが来ればわかるぞ」

「わかりました。下水道の奥へ進みましょう」


 下水道はいくつもの支流があり市街の地下に張り巡らされているが、マウクトの外へつながるものは大きな主流一つだけだ。つまりスライムが下水道を通ってマウクトを抜け出すならば、その主流を必ず通らなければならない。ラファエルたちは主流をたどって、真っ暗な闇の中をカンテラの明かりを頼りに奥へと進む。


 下水道にはスライム以外の魔物の臭いも残っていた。しかし臭い自体は薄い。


「下水道には他の魔物も住み着いているのか?」

「ええ。ですがこの間地下に人攫いの集団が利用していたことで一度騎士団が調査のため冒険者を総動員し魔物の駆除を行いました。当分の間は他の魔物はいないはずです」


 つまりより強い魔物の臭いがすればそれがスライムの可能性が高い。


 下水道の通路を走っていると地下なのに進行方向の先から風が吹いていた。下水道と外との境目には鉄格子が設けられており、外部からの侵入を防いでいる。そこから外の風が吹き込んでいたようだ。

 結局スライムとは遭遇せず、そして臭いも残っていない。


「どうやら先回りできたのう」


「念のため外にも兵士を配備しています。下水道は入り組んでおり、慣れたものでさえ迷うことがある迷宮です。スライムもそう簡単に抜け出せるとは思えません。今のうちにここを封鎖してしまいましょう」


 鉄格子越しにたいまつを掲げた兵士の姿があった。もう夜中なのでたいまつの周辺以外は暗くスライムの姿を見逃してしまいそうだ。


 ここまで来るうちに幾度も分かれ道があった。マウクト中に張り巡っている下水道だ。相当な広さを誇る。

 迷わずここまで一直線で来ることができたのも、ひとえにラファエルたちの先導があればこそ。マウクトの治安を守る彼らは完全に下水道のルートを頭に叩き込んでいた。




「待て、何か来るぞ」


 ヴイーヴルの声で一同に緊張が走る。


「騎士団長!」


 カスタル王国の兵士がラファエルたちの下に声を上げて近づいてきた。息を切らした様子でラファエルはただ事ではないと予感した。


「スライムが街中に現れました! 街中を警備していた兵士が追跡していますが逃げられるかもしれません。今ならまだ間に合います。急ぎ市街へと向かってください!」

「なんだと⁉」


 万が一に備えて市街の警備も部下たちに行わせていたが、まさかスライムが市街に逃げ込むとはラファエルも予想外だった。


 しかしヴイーヴルはそれに動揺するどころか、じっと兵士を見つめたまま身動き一つしない。


「ほう、なるほど。なかなか考えてくるではないか。だがもうその手は食わんぞ」


 ヴイーヴルが兵士に向かって不敵に笑いかける。


「お主ら、その男を捕まえよ! そやつがスライムじゃぞ!」


 ヴイーヴルの声にラファエルははっとすると、兵士を剣で打ち据えた。剣は手ごたえが少なく、兵士の体に沈んでいく。


「スライムめ、兵士になりすましたのか!」


 危うく騙されそうになったラファエルは勢いのままに剣を振りぬいた。

 兵士の体は剣で切られたというのに鮮血が舞うどころか、ぐにゃりと形を変えると顔のない人の形をした水の塊へと変貌(へんぼう)する。


「人間に擬態することができるのは確かだな。どうやらマエリス殿の推理はすべて当たっていたようだ」


 ただスライムも待ち構えるラファエルたちから逃げ出すのは容易ではないと悟ると、ラファエルたちを騙して市街へと誘導しようとしたようだ。


 ぱっと見ても元の姿の兵士と見分けがつかない。これならば衛兵がスライムをケイオスと誤認するわけだ。その上、人語もしゃべれるとなるともし下水道に逃げてこずに市街に紛れ込まれていたら探し出すのは容易ではなかった。ラファエルは冷や汗をかく。ヴイーヴルがいなければこのスライムを取り逃してしまっただろう。


 追い込まれたスライムも一計を案じたようだがかえってその行動が裏目に出た。これでスライムは人間に擬態できることを晒したことになり、ケイオスが無実であることを自らの行いで証明してしまった。まさか人間が自分の擬態を見破るとは思っていなかった慢心ゆえの行動だった。


 動揺したようにスライムは体を揺らす。体を深く切り裂いた剣を取り力で押し返し、体から引き抜く。スライムは体を自在に硬質化することができるらしい。被害者の首の骨を折ったのもこれを利用したものだろう。柔らかい外見に反して想像以上に力があるようだ。そう考えながらラファエルはそのまま剣を引いた。


 ラファエルはスライムから目を離さないように距離を取る。決して油断できる相手ではないが実際に対峙したラファエルの印象は普通のスライムよりはやや強いが、エルダートレントほどの強い魔物ではない。しかも複数ではなく単体しかいなかった。スライムを捕縛するための耐水性の高い皮袋を用意している。あとはスライムの逃げ道を塞いで捕まえるだけだ。


 するとスライムは体の形状を変化させ、複数の細い触手を生やした。それを鞭のようにしならせ振りかぶる。ラファエルは触手を剣で弾いた。どうやら触手を硬質化させているらしい。触手はラファエルだけに向けられたものではない。スライムの近くにいたものたちに津波のごとく襲い掛かる。


「この体でなければ、このような魔物ごときに後れを取らないものを!」


 万全ならばこの程度の魔物ごときヴイーヴルなら一撃で倒せる。だが今は戦えるような体ではない。どうにか触手を避けながらヴイーヴルは口惜しそうに叫んだ。


「マエリス殿、私の後ろへ!」


 一ラファエルの声に従い、ヴイーヴルは彼の背後に回った。怒涛のごとく押し寄せる触手をラファエルが防波堤のごとく切り払う。しかしラファエルでは無数の触手のすべてを切り払うことはできなかった。ラファエルの鎧はへこみ、露出した肌には裂傷が刻まれていく。


(まさかこれほどとは見誤ったか)


 ラファエルはスライムの実力を見くびっていた。触手一つ一つは大したものではない。だが無数の触手の攻撃にさらされてしまってはいかにラファエルと言えど無傷では済まない。

 ましてや触手がヴイーヴルに及ばぬようにラファエルは身を挺して守っている。ラファエルの部下の兵士も触手に襲われておりラファエルよりも状況が悪い。自分のことで手一杯でラファエルの援護は難しかった。


 いつまでもスライムの猛攻に耐えられそうにない。せめてヴイーヴルだけでも安全な場所に逃さなければ。

 ラファエルに迷いが生じた瞬間、ラファエルの背後にいたヴイーヴルは急に飛び出し、無防備な体をさらけ出す。ラファエルを攻撃していた触手の一部がヴイーヴルへと標的を変更する。


 何を――と叫ぼうとするラファエルとヴイーヴルの視線が重なった。力強いヴイーヴルの視線にラファエルは歯を食いしばる。

 ヴイーヴルは触手によって頬を叩かれ、石の床に倒れこむ。彼女のその姿を一瞥するとラファエルは触手が分散してできた隙をつき力を込めて、自分を襲うすべて触手を切り裂いた。断ち切った触手はぽとりと落ち、のたうちまわる。切り裂かれた表面から血の代わりにスライムの体液をまき散らした。


 スライムの触手の動きが鈍くなる。そして最初に現れたころよりもスライムの形が一回り小さくなって見えた。

 スライムは体の形状を自在に変化させることができるようだが、基本的な体内にある水分の総量は変わらない。それらをすべて失えばスライムは死んでしまう。


 そして触手もスライムの体に比べて細くなる分、ラファエルの一刀で触手を断ち切れる。自分を守るためにラファエルは全力が出せず、自身の存在が彼の足を引っ張っていることを自覚したヴイーヴルはあえて自分の身を危険にさらすことでラファエルにスライムとの戦いに集中させようとしたのだ。


 ラファエルは注意をスライムからそらさずに、ヴイーヴルを見る。彼女の頬には赤い筋があり無傷ではなかったが、大した傷ではないようだ。


「なるほど、痛いな。まったく人間の体とは不便じゃの」

「まったく無茶をされる!」


 いくらあのまま守勢であれば限界が来る以上、仕方のない行動だとしても危険に身を投げたヴイーヴルと守るべき相手にそんな決断を強いた自分のふがいなさにラファエルは声を荒げた。


 ラファエルはそのままスライムの触手を次々と切り裂いていく。触手の数を削られ、自身の体液を失っていくスライムの行動が切り替わった。他の兵士に回していた触手をすべてラファエルに殺到させる。これにはたまらずラファエルは壁に叩きつけられた。


 壁に叩きつけられたラファエルは肺から空気が抜ける。意識は保ったままだが、さすがにラファエルでも痛みで一瞬動きが止まった。

 触手を断ち切るほどの技量を持つのはこの場においてラファエルしかいない。つまりスライムの命を脅かすのはラファエルだけだ。

 脅かすものがいない今、スライムにとって好機である。触手を大きく振り回し兵たちを近づけさせないようにした後、スライムは下水へと逃げようとした。


「くそっ、逃すな! 誰か!」


 ラファエルは必死にスライムを捕まえようとする。そしてヴイーヴルもスライムへと飛び込んだ。

 しかしラファエルは届かず、ヴイーヴルもつかんだ手からするりとスライムの体はすり抜けていく。

 悔しさがラファエルとヴイーヴルの顔を染めていく。


 スライムが下水に入った直前でラファエルでもないヴイーヴルでもない光る手が伸びた。


「いやはや間に合いましたな」

「お主は⁉ なぜここに⁉」


 下水に飛び込んだスライムを引きずり出したのは、なんとオリバーだったのだ。スライムはそのまま下水から遠くへと放り投げられた。


 スライムは再度下水へと逃げ出そうとするが、その行く手を遮るものがあった。いつの間にか現れた法衣を着た男たちがスライムを囲んでいたのだ。

 法衣の男たちはオリバーの法衣と似た衣装である。おそらくは教会関係者なのだろうとラファエルは思った。

 オリバーは法衣の男たちの間を通ってスライムの前に立つ。


「いやはや、人の住まう地に魔物がここまで潜入できたとは敵ながら感服しますぞ」


 ですが――。オリバーは柔和な顔を止め、憤怒の形相を見せた。


「王国の要人を手にかけ、女子供にまで手を出すなどその罪は許し難し。慈悲は神に乞うとよいでしょう」


 オリバーが言い終わると同時にスライムは触手をオリバーに向けた。

 オリバーの剛腕が触手をつかみ取る。高速かつラファエルの鎧がへこむぐらいに強烈な一撃は剛腕によって止められた。オリバーの表情を見る限り、何の痛痒(つうよう)も与えていない。そしてぎゅっと触手をつかんだまま放さない。


 鋭い眼光がスライムを射抜く。どうにかオリバーの拘束から逃れようと、スライムは無数の触手を出し、オリバーの体を貫こうとした。

 が、オリバーは剛腕とも言うべき太い腕が俊敏に動かせるとすべての触手を捕まえてしまう。さすがのスライムも微動だにできなくなった。

 そしてオリバーは大きく息を吸い込むと手に力を注ぎ込む。するとどうだろう。オリバーの腕は輝きだした。


 どうやらその光る手はスライムには有害なようで、ヴイーヴルのように手からすり抜けることができない。ヴイーヴルは光る手が漠然とマナによる強化の一種であると悟った。


 オリバーの手の輝きが増すにつれ、スライムの体からぐつぐつと音が鳴り始める。見ればスライムの体はぼこぼこと泡立ち、蒸気を上げ始めた。よほど苦しいのかスライムは形を激しく変えていき、時折人の顔で苦しむような形を作っていた。


 暗い下水道を眩く照らす光が徐々に失われていくと、散々暴れていたスライムはもう動いていなかった。体内の体液はほとんど蒸発しており、まるで中身を失った袋のようにしぼんでいる。


「死んだのですか?」


 ラファエルがおそるおそるオリバーに聞いた。彼の表情はいつもの柔和な顔へと戻っている。


「いえ、弱らせただけですぞ。ラファエル氏、このスライムの捕獲を頼みましたぞ」

「はっ、ありがとうございます。オリバー殿」


 部下に運ばせていた革袋の中にスライムを詰め込み、ラファエルはうやうやしく頭を下げた。オリバーは満足そうに頷くと法衣の乱れを治す。

 オリバーの姿を怪訝そうな顔でヴイーヴルが睨んでいた。


「お主、何故ここにいる? 偶然いたとは言わせんぞ」


 地下の下水道は偶然居合わせるような誰でも侵入できる場所ではない。入り口には詰め所があり、許可を得ていないものは誰一人通すことはないからだ。ましてやオリバーは教会の人間である。いくらカスタルの神殿騎士団に所属しても、この下水道を管理する王国に無断で下水道に立ち入る権限は持ち合わせていない。


「オリバー殿はもしやケイオス殿が犯人ではないことを御存じだったのではありませんか?」


 ラファエルはオリバーが下水道に無断で立ち入ったとは思っていない。そんな無理を通せばカスタル王国と教会の関係に亀裂が生じる。おそらく教会が要請し、カスタル王国の上層部の許可を得たのではないかと考えていた。わざわざオリバーがこんな場所に立ち入る許可を得る理由はたった一つである。


 だがこれの意味することを理解したヴイーヴルは声色に不快感をにじませた。


「お主ら、妾たちをずっと監視しておったな?」


 でなければスライムが犯人だとたどり着くことはできない。事件の真相をすべて把握し、その上でヴイーヴルたちの後をつけまわさない限り、こんな都合よく彼らが姿を現すことなんてできないからだ。


「その件はいずれ。ケイオス氏が無事に解放されてからにいたしましょう」


 オリバーはそのままくるりと(きびす)を返して去っていく。残されたヴイーヴルたちは彼の後姿を茫然と見送ることしかできなかった。


「くっ、何やら手のひらで踊らされていたようで釈然としないのう」

「……ですが、これでケイオス殿の無実が証明されます。ひとまずはそれを喜びましょう」

「……うむ。そうじゃな」


 どこか腑に落ちない表情をしながらヴイーヴルたちは下水道を後にした。


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