第4話 神の化けの皮
偽造パスポートを使った隣国への密航。泥舟とオンボロバスを乗り継ぎ、偽の身分証で幾つもの国境検問を迂回するルート。
鳴海が東京・神田の雑居ビルにある自身の事務所の重い防音ドアを開けたのは、東欧のセーフハウスを脱出して丸四日が経過した深夜のことだった。
正規のパスポートを使えば出入国記録が残り、自分がどこで何を追っているかが敵対組織や国家の監視機関に筒抜けになる。身を守るための非合法な迂回ルートは、30代半ばの鳴海の肉体を容赦なくすり減らしていた。
カバンを床に放り投げ、鳴海はまず煙草に火をつけた。
紫煙を深く吸い込み、肺を満たす。硝煙と血の臭いがしない日本の空気に、全身の緊張が少しだけほぐれていく。
机の上に置いたのは、帰りがけのコンビニで買った底の浅い弁当と、ぬるいペットボトルの緑茶だ。
20代前半の数年間、報道機関の下請けで画像・動画の検証助手をしていた経験が今の作業の基礎だが、専門の鑑識官のような大層な機材も権限もない。10年間、戦場で地道な現地取材とネットの公開情報を突き合わせて生きてきた、ただのフリーの調査員だ。
冷めた弁当を胃袋に押し込みながら、鳴海はスマートフォンを操作した。
東欧を脱出する際、長年パイプのあった国際人権機関の幹部へ「無敵さんの攻撃によって無関係の民衆が殺された」という決定的な一次データを送り、告発の打診をしていた。
画面には、先ほど届いたばかりの幹部からの返信が表示されている。
『鳴海、そのデータの公表は見送れ。あの“力”のおかげで、数年続くはずだった紛争がわずか数日で終わろうとしている。多少の犠牲が出ようと、早期終息こそが最大の利益だ。余計な動きをすれば、我々も君を庇いきれない』
画面をスクロールし、文章を最後まで読み切った瞬間、鳴海の手が止まった。
「……は?」
開いた口が塞がらなかった。
怒りよりも先に押し寄せてきたのは、あまりの理不尽さと身勝手さに対する圧倒的な呆れだった。
「……っ、ふ……ははっ」
喉の奥から、乾いた笑いが漏れた。
人権を守ると謳う組織が、目の前で踏み潰された親友の死を「仕方のない犠牲」「早期終息のためのコスト」と切り捨てている。世界を守る側も、神気取りの男も、言っていることは何ひとつ変わらない。
呆れ果てた笑いが口元から消えていくにつれ、胸の奥底からドス黒く冷たい塊がせり上がってきた。
叫び散らすような感情ではない。世界中の理不尽が一つに集約され、腹の底でマグマのように凝固していく、静かで凄惨な怒りだった。
「……そうかよ」
鳴海は静かにスマホをデスクへ置いた。
国家も、報道機関も、人権団体すらも「無敵さん」の狂気を知っていて隠蔽している。戦争を終わらせてくれる都合のいい即効薬として、アハメドやその弟の命を最初から勘定に入れていないのだ。
匿名でネットに告発動画を上げるという手もある。だが、そんなものを投げつけたところで、「どうせフェイク動画だ」「でもテロリストを倒してくれたんだからいいじゃん」と信奉者どもに揉み消されて終わりだ。
(……動画を流すだけじゃ生ぬるい)
アハメドと弟を虫ケラのように踏み潰し、何も知らずにどこかの街で日常を送っている男。
そして、それを利用して「大きな正義」を気取る大人たち。
鳴海が欲しいのは、一瞬で流されるSNSの噂話ではない。
「神」の仮面を剥ぎ取り、その下に隠れている「この社会のどこかに潜む、ただの一人の中年男性」という動かぬ証拠――本名、顔、住所、生々しい生活痕のすべてを掴み取ることだ。
世界の目の前で、男が逃げ場を完全に失うレベルまで外堀を埋め、社会的にその存在を叩き潰す。それこそが、国家と神に踏みにじられた友への、最大限の報復だった。
「……始めるか」
強烈な眠気を押し殺し、鳴海はメモ帳にペンを走らせた。
『1. 現場データの整理』
『2. 指向性マイクの音声の聞き返し』
『3. 袖口のピンクの紙片の解析』
疲労が限界に達し、鳴海はそのままベッドへ泥のように沈んだ。
◆
翌朝。10時間以上の貪るような睡眠を経て、鳴海はパソコンに向かった。
コーヒーを一口含み、現地から自動転送させておいた画像データの補間処理を開始する。
画面に映し出されたのは、男のネイビーのスーツの袖口。そこに付着していたピンク色の紙片だ。
ピクセルを補正していくと、ホチキスで留められた紙片に、聞き覚えのあるロゴが浮かび上がった。
「大手チェーンの『クリーニングのサンシャイン』……」
関東に展開する、ごく普通の街のクリーニング店だ。やはり男は日本国内で生活している。
だが、タグに印字された「店舗コード」の末尾2桁が、男の放った衝撃波の粉塵によって完全に擦り切れ、潰れていた。
読み取れるのは「12-」という不完全な数字のみ。
サンシャインの店舗網において、「12」から始まるエリアコードは、埼玉県南部から東京都多摩地区にかけて約四十店舗が存在する。
警察権限のない鳴海が、四十店舗の顧客名簿を洗うことなど不可能だ。
「……焦るな。まずは範囲を絞るための仮説を立てる」
鳴海はコーヒーカップを置き、ホワイトボードの前に立った。マーカーを握り、泥臭い情報の整理と消去法を開始する。
「最初から全パターンを疑うと破綻する。まずは最も確率の高いボリューム層に目星をつける」
【考察1:生活圏と年齢の仮説】
指向性マイクが捉えた音声データを何度も巻き戻して聴く。
『クリーニング代がさ……今月マジで小遣いピンチなんだよね』
「『マジで』『ピンチ』というフランクな語彙、声の張りや滑舌……。声だけで年齢を断定するのは危険だが、滑舌やトーンからして高齢者や10代の少年という可能性は低い。まずは『20代〜40代前半』あたりの、働き盛りの会社員層に当たりをつけて捜査を進める。もしここで引っかからなければ、全域に範囲を広げればいい」
さらに「小遣い」という言葉。実家暮らしや自由にお金を使える独身というよりは、家計を握られている既婚者か、厳しい予算でやりくりしている一人暮らしの社会人という像が浮かぶ。
【考察2:スーツとクリーニング】
「私服で過ごす職種なら、わざわざ日常的にスーツをクリーニングに出さない。あのネイビーのスーツは『仕事着』だ。つまり、平日は会社や現場で働き、土日や夜間に『無敵さん』として活動している可能性が高い」
【考察3:移動のタイムラグ】
ここが一番の泥臭いロジックだった。
「東欧で事件が起きたのは、現地時間の昼。日本時間では『夜の22時』だった」
日本でのニュースの速報時刻と、東欧に男が現れた時刻のタイムラインを書き出していく。
「日本のテレビやネットで速報が流れたのが22時05分。男が現地に現れたのが22時40分。タイムラグは『約35分』だ」
男はテレポートのような能力を持っている可能性がある。だが、ニュースを見てから「着替え」「準備し」「移動する」までに35分かかっている。
「深夜22時にニュースを見て、自宅でスーツに着替え、現地の座標を指定して飛んだと考えるのが自然だ……」
ホワイトボードに赤線が引かれていく。
1. 「12-」の店舗エリア(埼玉南部〜多摩地区)
2. 20代〜40代前半の会社員(仮説)
3. 住宅街が近くにある店舗
「四十店舗のうち、駅前のビジネス街にある店舗や、商業施設の中にある店舗を除外できる。住宅地に密着した店舗に絞れば、数は一気に十数店舗まで減るはずだ」
一度にすべてを暴こうとしない。まずは最も確率の高い「仮説」を立て、足で稼いで検証していく。
人間ならではの泥臭い推論を積み重ねることで、雲をつかむようだった選択肢が、急激に現実的な「一人の人間の生活圏」へと凝縮されていく。
(……捉えた)
絶望的だった選択肢が、手の届く数字まで絞り込めた。
鳴海の口元に、自然と冷ややかな笑みが浮かぶ。神様気取りで世界を荒らすヒーローも、結局は家賃や小遣いに頭を悩ませ、住宅街のクリーニング店に通うしがない社会人でしかないのだ。
だが、浮ついた高揚感は一瞬で消え去った。
鳴海は頬の筋肉を硬く引き締め、冷え切った視線で印刷された店舗リストを凝視した。
ここから先は、パソコンの前で頭をこねくり回す段階ではない。相手は一瞬で人間を粉砕する怪物だ。尾行や聞き込みのわずかなミス一つが、自身の死に直結する。
煙草を吸い殻入れへ押し込み、深々と息を吐いて気を引き締め直した。
手帳と小型カメラをポケットに突っ込み、鳴海は事務所の防音ドアの鍵を解除する。
国家が隠蔽した狂気の神を、ただの男として引きずり下ろし、社会的に殺すための「泥踏み」が今、始まった。
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それでは、また次話でお会いしましょう。




