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第1章:神の降臨と、歪んだ救世主

初めまして、お越しいただきありがとうございます。

『疑神 —その神は、絶対に信じてはならない—』をお届けします。

戦場に突如現れた圧倒的な力を持つ存在と、現場に居合わせた一人のフリージャーナリストを巡る現代サスペンスです。

お楽しみいただければ幸いです。


硝煙と腐敗臭、そして焼けた鉄の匂いが混ざり合った死の空気が、鳴海(なるみ)の肺を冷たく苛んでいた。


東欧の旧市街。かつては歴史ある石畳と教会が立ち並んでいたはずの街並みは、政府軍と反乱軍が繰り広げる無制限の市街戦によって、見る影もなく解体されていた。穿たれた巨大なクレーター。倒壊した建物のコンクリート片が散乱し、黒焦げになった街路樹が骨組みのように突っ立っている。


「……空気中の微粒子は煙幕と石膏粉塵。風下への移動は避けるべきだな」


崩れかけのレンガ壁の陰に身を潜め、鳴海は静かに低く呟いた。

汗で額に張り付いた前髪を手背で払い、一眼レフカメラのファインダーを覗き込む。右目に刺さるような痛みが奔るが、視線に一切のブレはない。彼が構える超望遠レンズの先には、ここから百メートル離れた交差点で繰り広げられている「戦力差の現実」が映し出されていた。


重機関銃の乾いた断続音が、連続した破裂音となって鼓膜を揺らす。壁の破片や砂塵が肩口に降り注いでも、鳴海の指先はカメラのグリップを完璧な圧力で固定したままだ。


レンズの先――反乱軍が仕掛けた路肩爆弾(IED)によって片側の履帯(キャタピラ)を吹き飛ばされた政府軍の装甲車が、激しい黒煙を上げて炎上している。ハッチを開けて這い出そうとした若い兵士が、待ち伏せの掃射を受けて車体から転がり落とされた。石畳の上に広がっていく赤いシミ。鳴海はその光景を機械的な正確さでシャッターに収め、すぐさま周囲の地形と射撃位置の割り出しへと思考を巡らせた。


(政府軍部隊の生存率は五パーセント未満。反乱軍の掃討完了まで、およそ三分といったところか)


冷徹な計算が脳内を駆け巡る。

34歳。フリーランスとして世界各地の紛争地帯、テロ現場、戦争、飢餓地域を渡り歩いて10年。修羅場を幾度となく潜り抜けてきた鳴海にとって、死は「感情的に怯える対象」ではなく、「コントロールすべきリスク変数」だった。政府軍の治安維持部隊に同行した選択は裏目に出たが、パニックを起こした瞬間に生存確率がゼロになることを彼は経験から嫌というほど知っている。


鳴海が身を寄せているこの半壊した廃ビルも、反乱軍の掃討手順からすれば遅かれ早かれ砲撃の標的になる。逃走経路の選択肢と瓦礫の遮蔽効果を冷静に天秤にかけていた、まさにその時だった。


空が、叩き割られた。


雷鳴などという生ぬるいものではない。上空の空気が巨大な質量によって一瞬で圧縮され、爆発的な衝撃波(ソニックブーム)となって街全体へ叩きつけられたのだ。


「……くっ!」


あまりの音圧に、鳴海はカメラを胸元で確実に保護しながら頭部を守る体勢をとった。

弾雨を降らせていた反乱軍の兵士たちも一斉に射撃を中断し、動揺を隠せずに上空を仰ぐ。鳴海は即座に体勢を戻すと、痛む目を細め、カメラのレンズを垂直上方へと向けた。


灰色の低い雲を切り裂き、音速を超えた空気の摩擦で赤黒い余熱を纏って落下の軌跡を描く「物体」。

隕石でも、滑空誘導弾でもない。マニュアルフォーカスでピントを合わせた鳴海の瞳孔が、静かに収縮した。


――人間の輪郭だ。


ドォンッ!!!


交差点の中心で爆発的な着地音が轟き、石畳が巨大なクレーターとなって砕け散った。吹き荒れる強烈な粉塵の嵐の中、鳴海はレンズを砂埃から守りつつ、ファインダー越しに中心点から目を逸らさなかった。


「……視界確保。撮影継続」


煙と砂塵が薄れるにつれ、そこに現れた「存在」の姿が露わになる。

鳴海は即座にその外見的特徴を観察し、脳内のデータベースと照合を始めた。


そこに立っていたのは、あまりにもこの血と硝煙の戦場にそぐわない「日本の安物のビジネススーツを着た男」だった。


黒に近いネイビーの、ややヨレた二つボタンのスーツ。仕立ての悪いポリエステル混紡の生地。首元には少し緩んだ地味なネクタイ、そして泥の跳ねたスラックス。体型は少し腹が出ており、年齢は四十代半ばといったところか。


そして顔面には――正体を隠す意図なのか、玩具店で売っていそうな安っぽいプラスチック製の赤とシルバーのヒーロー仮面が装着されていた。


(安スーツにプラスチックマスク……不気味な出で立ちだ。だが――)


鳴海の冷徹な観察眼は、そのビジュアルの歪さに惑わされなかった。

音速を超えて落下し、断熱圧縮による赤黒い気流を纏っていたはずだ。にもかかわらず、男のスーツは燃えて消失するどころか、表面に薄くススがついている程度で原形を留めている。物理法則そのものが狂っている。


「……出たか」


鳴海は息を殺し、定速でシャッターを切り始めた。

10年間の取材経験の中で、世界の軍事アナリストや情報機関、ネットのコミュニティで都市伝説のように語られていた噂。


――救世主。あるいは、歩く戦術兵器。

世間がいつからか「無敵さん」と呼称し始めた、正体不明の超人。

彼の初観測は三年前、南米の麻薬カルテルが支配する要塞都市だった。治安部隊が数ヶ月かけても崩せなかった巨大要塞を、突如空から降ってきたスーツ姿の男が「ただ地面に拳を叩きつけた衝撃波」だけで、民間人もろとも半径二キロメートルを灰燼に帰した。世界中の情報機関は彼を「神の裁き」と呼び、同時に「最悪の歩く災害」として警戒レベルを極限まで引き上げた。


「ひ、ひぃっ……! な、何だアイツは! 撃て! 撃ち殺せぇぇっ!」


狂乱した反乱軍の指揮官がスラブ系の現地語で叫んだ。直後、数十挺のAK-47が一斉に火を噴き、鉛の弾丸が男へ叩き込まれた。


パンパンパンパンパンパンッ!!


甲高い弾着音が連続する。しかし、鳴海のレンズは異常な現象を克明に記録していた。

放たれた7.62mm弾は、男の着ている安物スーツの表面に触れた瞬間、運動エネルギーを完全に死滅させたかのようにペシャンコに押し潰され、乾いた音を立てて足元へポロポロと落ちていく。男はただ億劫そうに首を小さく傾けただけだった。


「戦車だ! 戦車で叩き潰せ!!」


T-72主力戦車の主砲が旋回し、至近距離から男の胸元を照準する。放たれた高熱の砲弾が、音速を超えて男の真っ只中へと直撃した。


ズゥゥンッ!!


爆風と激しい火花が巻き起こり、鳴海の頬を鋭い風圧が撫でる。だが、鳴海はまばたきすら惜しんで煙の向こうを凝視した。

黒煙を掻き分けるようにして、ぬっと伸びる素手。


男は、赤く熱を帯びて蒸気を上げる砲弾を、素手でガッチリと受け止めていた。


(運動エネルギーの即時無効化……? 物理的な説明がつかない)


鳴海は衝撃に呑まれそうになる精神を即座に抑え込み、プロの分析官として思考を回し続けた。

男は受け止めた砲弾を握力だけでクシャリと変形させると、ゴミでも捨てるように足元へ投げ捨てた。そして、億劫そうな足取りで戦車へと歩み寄る。


「ひっ……来るな! 来ないでくれぇっ!」


狂乱する戦車兵の悲鳴を余所に、男は数十トンある戦車の車体前面に手をかけ、まるで軽トラの荷台でも持ち上げるかのような雑さで頭上高く引き揚げた。そのまま、反乱軍の装甲車群に向かって豪快に投げつける。


ドドドドカァァァンッッ!!!!


地響きと共に巨大な爆炎が上がり、周囲の兵士と車両が一瞬にして炎の渦へと飲み込まれた。

反乱軍は戦意を完全に喪失し、武器を投げ捨てて脱兎のごとく逃げていく。


現場を支配したのは、あまりにも絶望的な沈黙だった。


(これで敵の脅威は排除された。……だが)


鳴海はカメラを構えたまま、背筋に冷たい氷を押し付けられたような危機感を抱いていた。

自分たちの命は助かった。しかし、目の前にいるのは「正義のヒーロー」などではない。国家の武力すら一瞬で踏みにじる理不尽な暴力の塊だ。敵味方の識別すら不明なこの存在が、気まぐれにこちらへ視線を向けた瞬間、自分もあの戦車と同じ運命を辿る。


鳴海は息を殺し、男の微小な挙動一つひとつをファインダーで追い続けた。

そして、決定的な違和感をキャッチする。


「……なんだ?」


敵を壊滅させた男は、勝利の余韻に浸るでもなく、神々しいポーズをとるでもなかった。

男は自分のネイビーのスーツを見下ろし、プラスチック仮面の奥で露骨に不機嫌そうな、苦虫を噛み潰したような顔をしていたのだ。


男は、スーツの袖口についた真っ黒な煤汚れを、両手でパッパと雑に払い落とし始めた。胸元に付いた小さな汚れを見つけると、頭を激しく掻きむしり、肩を落として落胆の溜め息をつく。


そして、仮面の奥から小さな呟きが漏れた。


周りで飛び交っていたスラブ系の現地語でも、国際共通語の英語でもない。

高音質指向性マイクの集音範囲に飛び込んできたその音節とイントネーションは、鳴海にとってあまりにも聞き馴染みのある母国語――日本語の響きだった。


『……ぬおっ……マジかよ……最悪だ……。クリーニング代、いくらかかると思ってんだよ……。今月マジで小遣いピンチなのに……』


耳に届いた音声の意味を理解した瞬間、鳴海の脳内に不協和音が駆け巡った。


(……日本語……? 今、『クリーニング』と『小遣い』と言ったのか……?)


世界中の軍事バランスを容易く崩壊させる超常の存在。

その物体が、現場にいた鳴海にしか拾えないような極めて俗物的で、生活感に満ちた悩みを漏らしている。


(……神でも兵器でもない。こいつは一体、何なんだ……)


鳴海は自らの冷酷な警戒心を研ぎ澄ませ、震えを完全に押さえ込んだ指先で、安物仮面をつけた男の姿をレンズの奥に記録し続けるのだった。

お読みいただきありがとうございました!


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それでは、また次話でお会いしましょう。

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