第一話 武田家の姫
春はまだ浅い頃、躑躅ヶ崎館の庭には薄く霞がかかり、朝露を含んだ若葉がまだ揺れていた。
奥庭の一角、小さな姫君が一人縁側で座している。
年は四つほどだ。
薄鈍色に萩の花模様の小袖を纏い、膝の上に行儀良く重ねた小さな手は、わずかに震えている。
今日は父が館へ戻る日だった。
そのためだろう、朝から何度も身支度を整えられていた。
「大殿様がお戻りになられましたら、きちんとご挨拶なさいませ」
何度も聞いた言葉だった。
禰々はその度に、はい、と頷いた。
寒くても、足が痺れても、立たず、黙って座していた。父に褒められるかもしれないと思いながら。
いつの間にか傍に立っていた乳母の於弘が、庭の向こうへ視線を向ける。
「今日は風が冷とうございます」
禰々は小さく顔を上げた。
「大丈夫にございます」
本当は全然大丈夫ではない。うん、すごく寒い。
そんな本音を隠して、震えそうな歯をとじ口を引き結び、にこりと口角を上げた。
於弘は、少し躊躇った後、用意していた薄い掛け布をそっと箪笥の中へしまう。
やがて遠くから馬の蹄の音が聞こえた。
禰々は、ばっ、と顔を上げる。
父だ。父が帰ってきた。
小さな身体で慌てて立ち上がり、小袖の裾を整える。
小走りで廊下を駆け抜けたい衝動を抑えながら、足取りはできるだけ早く。
家臣たちが道を開いた。
父が来る……!
禰々は教えられた通り深く頭を垂れた。
「お帰りなさいませ」
父からの返事はなかった。
こちらを一瞥もしなかった。ただ数人の家臣たちが父の後ろを追っていく。
どうしよう……。顔を上げられない。上げたら涙が頬をつたいそうだ。いっそこのまま汗に紛れて、床に溶けてくれたら良いのに。
小さな手に力が入る。ぎゅっと握った手には少し爪の跡が残っていた。
しばらくして、於弘の声がした。
「禰々姫様、近々雨が降るやもしれませぬ」
意味が分からず、禰々は顔を上げた。
「山が近う見えます故」
山が近く見える、その言葉を聞いた瞬間、誰かの声が聞こえた気がした。
――山はね、天候を見る時の基準になるのよ。
――雨が降る前はね、山がはっきり見えるの。
優しい女性の声。けれど、誰だろう。……分からない。……思い出せない。
ふいに、ひゅるりと風が吹いた。
その瞬間、ふと、視界が、庭の向こうの連なる山々をとらえた。
目が離せなくなり、じ、と、食い入るように山を見つめる。
父、信虎の背中を見送るよりも。
何故だろう……。その山々の方が、ずっと気になった。




