第一話 石投げ水車村の相続争い4
水車小屋へ向かう途中、カイルがわずかに歩幅を緩め、彼女の隣へ寄った。
「今の村役人」
「ええ」
「胡散臭い」
「同意します」
「同意が早いな」
「あなた、私を何だと思っているんですか」
「祈ってから紙をめくるタイプ」
「なんですかそれは。うーん、でも私は紙をめくる前によく考えるかもしれないです」
カイルが少しだけ鼻で笑う。
「親方の死んだ時期、養女の登録時期、税の名義変更。この三つが噛み合ってなければ、だいたい誰かが詰まらせてると見ていいな」
「あなた、ずいぶんこういう揉め方に慣れているんですね」
「人は死ぬと急に親戚が増える、よくある話だな」
うーん、身も蓋もない。
だが、おそらく正しいことを言っている。
*
水車小屋は川べりに建っていた。大きな水輪は止まったままで、濡れた木材の匂いと、小麦粉の乾いた匂いが入り混じっている。
扉を開けると、埃の舞い方がまだ新しい。人の出入りがついさっきまで激しかった証拠だ。
ミラが先に入って、帳場机の上を片付ける。
「すみません、今朝から皆が勝手に入ってきて……」
「荒らされたものはどれですか」
「え」
「見るからに散らかっているものと、荒らされたものは違います」
ミラは目を丸くしてから、机の右脇に落ちた帳面と、床に転がった秤を指した。
「それは……さっき、ガレスさん側の人が」
「分かりました」
エレノアは書き留める。
床板。粉袋。秤。帳場机。壁際の棚。羽根板の交換に使った釘箱。視線を流しながら、一つずつ位置を頭に入れていく。
背後でカイルが水車軸のあたりを見ていた。素人なら見過ごすところで足を止め、しゃがみこみ、木肌に触れている。
「修繕は去年の秋じゃないな」
ミラが振り返る。
「え、春です。去年の春先に軸を替えて、そのあと秋に――」
「羽根板だけか」
「……はい。どうして分かったんですか」
「軸の木がまだ若い。日焼け方と水垢のつき方が違う」
さらりと言うが、むむむ、エレノアにはそう簡単に分かるものには見えなかった。
「本当に、色々良く知っているんですね」
エレノアが感心して思わず言うと、カイルは嫌そうに顔をしかめた。
「知ってることを褒めるな。面倒くさい」
「照れてるんですか?」
「なあ」
「はい」
「調停士はみんなお前みたいに面倒くさい奴ばかりなのか?」
私の何が面倒くさいんだ、失礼な。
エレノアはカイルに向けて少し唸ってから、帳場机の上に広げられた綴りを見た。
挽き賃の記録、畑の納入記録、修繕費。数字は丁寧で、同じ筆跡が長く続いている。途中から少しだけ文字が角ばっているが、同一人物の癖の範囲だろう。
「これはあなたが?」
「はい。最初は親方に教わって、途中からは私が。親方、字は読めても、帳面をつけるのは苦手で……」
ミラの言い方に、ほんの少しだけ笑いが混じる。
死者を語る時の笑いだ。好いていた者にしか出せない種類の。
エレノアはその響きを知っていた。
子どもの頃、市場や施療院の裏口で何度か聞いたことがある。
店主が死に、親方が死に、残された者が「困った人だったよ」と笑いながら昔話をする、あの泣きそびれた声に似ていた。
泣くより先に、これから自分がどうなるのかを考えてしまう者の声だ。
「親方は、何か言っていましたか。跡継ぎについて」
エレノアが問うと、ミラの肩が強ばった。
「言ってました」
「どういうふうに」
「お前が回せ、って。水車のことです。畑も、粉挽きも、帳場も、お前がいちばん分かってるんだからって」
「それを聞いた証人は?」
「村の人なら、何人か……でも」
「でも?」
「皆、こういう時になると、急に歯切れが悪くなるんです」
それも、エレノアには見慣れた言いよどみだった。市場の揉め事でも、法務局の記録でも、死者の願いは都合のいいあいだだけよく尊ばれる。
生きている誰かの損になる時、その尊重は急に曖昧になる。
エレノアは帳面をめくる。
修繕費の頁。租税の頁。穀物納入の印。そこまでは整っている。
だが、養子縁組や後見登録に関わる書類だけが見当たらない。
「親方とあなたの関係を、役所に届けた記録はありますか」
ミラは唇を噛んだ。
「出した、はずです」
「はず?」
「一昨年、親方と一緒に、オルドさんのところへ。私一人じゃなくて、ちゃんと二人で行きました。親方が、この子をうちの籍に入れるのは難しくても、せめて後見の記録だけは残してくれって」
「受理されたと聞きましたか」
「預かる、とは言われました」
エレノアは静かに息を吐いた。
預かる。
役所勤めの人間が、通したくない書類に対して使う、あまりにも便利な言葉だ。
その時だった。
入口の外で怒鳴り声が上がった。




