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第六話「王冠の下の天秤」4

 エレノアは封書に指をかけた。

 紙の重さは軽い。けれど、その軽さがいまは妙に重かった。


 ここにはまだ、届くものがある。帳面と証言で、ちゃんと救えたものがある。

 その事実を、まだ自分は捨てきれない。


 封を切る。

 中の紙は、安価な普及品だが新品の清潔なものだった。筆跡は少し丸く、ところどころ勢いが余る。見覚えのある字だ。


「……ミラさんだ」


 思わず口に出る。

 ハンナが腕を組んだまま頷く。


「水車村か」


「ええ」


 エレノアは目を走らせた。


 水車は無事に直ったこと。

 今年の粉挽きは村じゅうが笑うほど順調なこと。

 新しい歯車は、最初は皆が半信半疑だったくせに、回り始めたら年寄りまで機嫌がいいこと。

 今度、最初に挽いた小麦で平焼きの祭りをするから、もし都合がつくなら来てほしいこと。


 そこまでは、いかにもミラらしい、まっすぐで働き者の文だった。


 けれど、その次でエレノアの目が止まる。


「……あ」


「何だ」


 レオンハルトが訊く。


「いえ……」


 エレノアは少しだけ紙を持ち直した。


「別に、大したことでは」


 追伸の位置に、少しだけ力の抜けた文があった。


 ガレスは、粉袋の担ぎ方はまだ危なっかしいですけど、水車の癖を覚えるのは思ったより早かったです。

 この前も、私が言うより先に、歯車の噛みを直してしまって、少し悔しい思いをしました。


 さらにその下に、書き足したような一文がある。


 相変わらず口は不器用ですけど、最近は、前より少しだけ一緒に働きやすい人になりました。

 今度いらしたら、私とガレスで平焼きをたくさん焼きますので、カイルさんとご一緒に、よければ見に来てください。


 黙ったまま紙を畳みかけたエレノアを見て、イザベルがすっと身を乗り出した。


「何?」


「何でもありません」


「ある顔してるわよ」


「ありません」


「その否定、だいたい何かある時の否定よね」


「……村が平和そうで何よりです」


「ごまかした」


 レオンハルトが椅子にもたれたまま、面白そうに片眉を上げる。


「なるほど。争っていた当人同士が、少しはまともな顔で並ぶようになったと」


「読まないでください、人の顔を」


「読んでませんよ。分かるだけです」


 感じが悪い。

 けれど、手紙を持つ指先の力が少しだけ抜けていることに、エレノアは自分で気づいていた。


 石を投げ合っていた村だ。

 互いの家が水を止め、順番を奪い、感情に火をつけていた村だ。

 あの時は、帳面も証言も、あまりに泥臭かった。

 それでも、一つずつ解いて、止めて、戻した。


 戻ったのだ。

 少なくとも、水車の回る音がまた村で聞こえるくらいには。


 エレノアは次の箱へ手を伸ばした。


 布貼りの菓子箱。箱そのものが、すでに恐れ多い感じがする。

 開ける前から、マリアベルだと分かった。


「今度は何だ」


 フェルディナントが覗き込む。


「見れば分かるでしょう。高いお菓子です」


「すごいな。開ける前から金の匂いがする」


「最低の感想ですね」


 蓋を開ける。

 中には、小ぶりだが手の込んだ焼き菓子が整然と並んでいた。王都東区の高級店のものだ。庶民が自分で買うには少し躊躇う値段の菓子である。


 添えられた短い手紙は、癖のない端正な字で書かれていた。


 先日は、ありがとうございました。

 甘いものは、争いの終わった後にいただくのがいちばんよいと存じます。

 調停士殿がもし甘味をお嫌いでなければ。


 そこで改行がひとつ。


 なお、これは家の体面のためではなく、わたくし個人からのお礼です。

 どうか、そのようにお受け取りくださいませ。


 エレノアは、しばらくその一文を見つめた。


 家の体面ではなく。個人から。


 婚約破棄と神前侮辱事件で最後まで争点だったものが、そこにある。

 婚約でも、家格でも、神前の体裁でもなく、ひとりの娘として言葉を返してきた。

 それだけで、あの案件の結末が静かに立ち上がる。


「これはまた……立派だな」


 ノルドスが感心したように言った。


「エレノアさん」


 甘いものが好きなルーファスが遠慮がちに訊く。


「だめです」


 エレノアは即答した。


「まだ何も言ってません」


「顔が言っていました」


「そんなに出てましたか」


「出てたわねえ」


 イザベルがにやにやしながら言う。


「でも気持ちは分かるわ。私もその店の菓子なら、訊く前に一つ取るもの」


「やめてください」


 箱を閉じかけて、やめる。

 小奇麗な包装にに包まれた菓子をひとつだけ取り出す。

 箱を詰め所の机へ置いた。


「……皆で一つずつなら」


「最初からそう言えば可愛いのに」


 イザベルが言う。


「可愛さは業務に不要です」


「今の返しもだいぶ可愛くないぞ」


 レオンハルトが言った。


 だが、誰も本気では意地悪していない。そのことが、妙にありがたかった。


 最後の包みへ手を伸ばす。


 布は丁寧に結ばれていた。

 解くと、中から深い藍と灰青が交じる染布が現れる。派手ではない。だが光の下で見ると、静かな水面みたいに色が変わる。


「きれい……」


 今度は本当に、無意識に漏れた。


 神罰の井戸事件の町だ。

 神罰だ、穢れだ、と言われた水。

 あの時、人々は病に怯え、噂に怯え、誰かを悪者にして安心しようとしていた。

 その混乱の中で、親方一家は仕事どころではなくなっていたはずだ。


 添えられた文は短い。

 飾らない、職人らしい字だった。


 あの節は世話になりました。

 井戸は元に戻り、仕事場も持ち直しました。

 これは今年いちばん最初に染め上がった反物です。

 うちの色がまだ死んでいない証拠として、お持ちください。


 死んでいない証拠。


 その言葉に、エレノアの胸の奥が静かに詰まる。


 地下礼拝堂では、人が死んだことにされた。

 ここでは逆に、色がまだ死んでいないと届けられた。


 同じ一巻の中にあることが、少し不思議だった。

 でも、どちらも本当なのだ。

 王都の下に裂け目があり、王都の上には、それでも暮らしが続いている。


 ハンナが、染布を覗き込んだ。


「いい色だな」


「ええ」


「こういうのを見ると、職人は強いと思う」


 ハンナは言う。


「一度壊れても、また染める」


「……はい」


 エレノアは布を畳み直した。指先に、やわらかな感触が残る。


 水車村の手紙。

 高級菓子。

 きれいな染物。


 どれも派手なものではない。

 いや、菓子は少し派手かもしれない。

 けれど本質はそうではない。


 自分が介入したことで、たしかにその後が続いている。

 人が食べ、働き、笑い、手紙を書くくらいには、争いの先へ進めている。


 その事実が、理屈より先に胸へ染みた。


 地下礼拝堂で見た夜は、本物だった。

 セラフィナの怒りも本物だ。

 賢王の政策の裏にある歪みも、法の例外による強引な対応も、本当にある。


 けれど、それだけではない。


 帳面と証言と和解の積み重ねで、ちゃんと救えるものもある。

 遅すぎる正しさがある一方で、間に合った正しさも、たしかにある。


「……どうした」


 レオンハルトが、珍しく少しだけ低い声で訊いた。


 エレノアは顔を上げた。

 皆が、なんとなくこちらを見ている。

 問い詰めるのではなく、ただ待っている顔だった。


「いえ」


 エレノアは小さく息を吐いた。


「少しだけ、助かりました」


 誰もすぐには何も言わなかった。

 その沈黙が、ひどく優しかった。


 やがてフェルディナントが、いつもの調子で言う。


「じゃあ、菓子はもう一つ食べてもいいか?」


「だめです」


「助かってもそこは変わらないのか」


「変わりません」


 小さな笑いが、詰め所に広がる。

 その笑いの中で、エレノアは三つの贈り物を自分の机へ寄せた。


 まだ答えは出ていない。

 法が王のものか、人のものになりうるのか。

 地下の裂け目をどうすべきか。

 セラフィナを止めるのか、追うのか、並ぶのか。

 分からないことは山ほどある。


 けれど、ひとつだけ、前よりはっきりしたことがあった。


 自分の仕事は、空ではなかった。


 争いを剣の前で止めること。

 紙の上の小さな矛盾から、人の暮らしを拾い上げること。

 その積み重ねで救われたものが、たしかにここへ戻ってきている。


 地下の夜を見たからといって、それまでの全部が嘘になるわけではない。


 エレノアはそっと、胸元の徽章へ触れた。

 王冠の下の天秤。

 まだ冷たい。

 けれど昨夜の感じたような、ただの銀の塊ではなかった。


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