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第六話「王冠の下の天秤」3

 法務局本館のような威圧感はない。教会附属庁舎のような清らかさもない。

 元は商人組合の会所だった建物を、そのまま居抜きで使っているせいだろう。

 廊下は微妙に狭く、階段の踏み板は古く、帳面を抱えた人間どうしが角で譲り合わないと肩がぶつかる。


 けれど、エレノアはこの建物の匂いを嫌いではなかった。


 紙。

 インク。

 少し湿った木。

 誰かが朝にこぼした安い茶。

 そして、まだ終わっていない揉め事の気配。


 ここには、地下礼拝堂のような血の匂いはない。

 人が人のまま、言葉と記録の側で踏みとどまろうとする匂いがある。


 そのはずだった。


「おや。戻りましたか、敬虔な帳面食い」


 詰め所へ入るなり、紙束の向こうから声が飛んだ。


 レオンハルト・ベック。

 年長の調停士で、背は高いが姿勢が少し悪い。書類の山に埋もれている姿がいちばん似合う男だ。

 口を開けば皮肉ばかりだが、どの案件の裏に誰の親類がいるかを、異様によく覚えている。


「誰が帳面食いですか」


「徹夜で記録院を漁り、その足で怪しい商会まで洗って、まだ次の帳面を開ける人間ですよ。紙でも食べていなければ務まりません」


 紙束の陰から覗く目が、少しだけ細くなる。


「で。収穫は」


「挨拶より先にそれですか」


「挨拶なら今したでしょう」


 感じが悪い。

 だが、この程度の感じの悪さは、地下のあとではもう少しだけ人間的に思えた。


「お帰りなさい、エレノアさん」


 今度は窓際の机から、穏やかな声がかかる。


 ノルドス・ローヴ。

 細縁眼鏡の似合う、温厚な書類派だ。筆跡が恐ろしく綺麗で、争点整理と調書の組み直しにかけては詰め所でも一番といわれている。

 怒鳴るところを見た者はいないが、帳面の矛盾を見つけた時だけ、少し楽しそうな顔になる。


「南区、どうでした」


「答える前に、まず水をください」


「やっぱり何かあったんですね」


「なかったら困ります。行った意味がありません」


 そう返すと、近くの机から小さな笑いが漏れた。


「相変わらず生真面目ねえ」


 イザベル・ノルデン。

 鮮やかな色布を襟元に巻く癖のある女調停士で、教会関係の案件に強い。笑うと柔らかいが、聖職者相手の聴取になると妙に容赦がない。

 人の秘密を暴く時だけ声音が優しくなるので、余計に怖い。


「南区の商会でしょう? 私だったら、三日目で裏口から入るわ」


「やめてください。そんな前例を作らないでください」


「まだ作ってないわよ。まだ、ね」


 その「まだ」が怖い。

 奥の棚の前では、箱を抱えた大柄な女がこちらを振り向いた。


「戻ったか」


 ハンナ・シュトラウス。

 地方出身の実務派で、机仕事より現地確認を好む。靴の泥を落とすのが遅いせいで何度も注意されているが、現場の職人や農民から話を引き出すのは抜群にうまい。

 声も態度も大きいが、泣いている子どもにだけはやたら弱い。


「顔が悪いぞ。寝てないな」


「見れば分かることを言わないでください」


「見れば分かるから言ってる」


 その理屈はどうなのかと思うが、ハンナはいつもこうだ。

 さらにその奥、窓際の細い机で羽根ペンを置いた青年が、控えめに会釈した。


「お疲れさまです」


 ルーファス・エデル。

 詰め所ではいちばん若く、まだ線が細い。地方の小規模案件をいくつもこなしながら場数を踏んでいる最中で、現場へ出るたびに少しずつ目つきが変わってきた。

 慎重で、真面目で、やっぱり真面目すぎる。


「南区の件、差し支えなければ、あとで閲覧用の抜粋だけでも見せていただけると」


「仕事熱心ですね」


「怖いもの見たさも、少し」


「正直でよろしい」


 最後に、階段口の掲示板の前から、のんびりした声がした。


「おお、戻ったのか」


 フェルディナント・グラン。

 詰め所付きの連絡調整役に近い立場で、調停士でもあり、半分は庶務でもある。誰とでもすぐ話せるので便利に使われているが、本人はあまり気にしていない。

 顔が広く、茶もよく淹れ、役所内の妙な空気の変化にやたら敏い。


「局から差し入れが来てるぞ。あと、お前宛ての届け物が三つ」


「三つ?」


「珍しいだろう。恨みの呪物じゃなくてお礼の品だといいな」


「縁起でもないこと言わないでください」


「半分冗談だ」


 半分なのか、とエレノアは思う。


 詰め所の空気は、相変わらずだった。

 誰も地下礼拝堂のことなど知らない。賢王がどんな顔で血を見下ろしていたかも知らない。法の例外が夜の底でどう使われているかも知らない。


 知らないまま、目の前の帳面をめくり、届いた訴状を分け、争いが剣へ行く前に止めようとしている。

 その光景が、妙に眩しく見えた。


「で?」


 レオンハルトがまた言った。


「収穫は」


 エレノアは一瞬だけ迷った。

 どこまで話すべきか。

 何をまだ自分の中に留めるべきか。


 地下決闘裁判事件前までなら、迷わなかった。

 見たものをそのまま帳面へ落とし、上へ回し、制度の中で処理すべきだと信じていたからだ。


 けれど今は、その制度の裏側に別の穴が口を開けていることを知っている。


「……収穫はありました」


 結局、そうだけ答えた。


「ただ、少し厄介です」


「いつものことじゃない」


 イザベルが肩をすくめる。


「違います」


 エレノアは小さく首を振った。


「今回は……少し、本当に厄介です」


 ハンナが箱を置く音がした。

 ノルドスがペン先を止める。

 レオンハルトだけが、椅子にもたれたまま、興味深そうにこちらを見る。


 誰も軽口を続けなかった。


 この人たちは分かるのだ。

 冗談のまま流していい案件と、そうでない案件の重さを。


 フェルディナントが気を利かせたように、机の脇へ小箱と包みを三つ置いた。


「その前に、こっち片づけろ」


「……結局何ですか、これ」


「手紙。菓子。布包み。差出人は見れば分かる」


 エレノアは一番上の封書へ目を落とした。


 石投げ水車村。

 見覚えのある、少し丸い筆跡。


 その次には、見慣れぬほど上等な菓子箱。

 さらにその下には、丁寧に結ばれた染布の包み。


 喉の奥で、何かが小さく動いた。


 地下礼拝堂の石床。

 王の笑い。

 セラフィナの這う音。

 カイルの刃。


 それらとはまるで別の、昼の手触りが、いま目の前に積まれている。


「……後で読みます」


「いいや、今読め」


 レオンハルトが即座に言う。


「そういうものは、疲れてる時に読むために届くんだ」


「ずいぶん勝手な理屈ですね」


「経験則だよ」


「たぶん、それ、正しいですよ」ノルドスが、珍しく柔らかく笑った。

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