第二話「婚約破棄と神前侮辱の訴え」7
翌日の公開調停は、大聖堂の小会議室で行われた。
司祭長。エスティナ子爵家当主とマティアス、マリアベル。ディンケル伯爵とラウル。法務局立会いの書記一名。
ディンケル伯爵家の側には、顧問弁務官が一人ついていた。表向きは伯爵家の法務代理人だが、こういう席へ滑り込んでくる手つきが、夜会で見たロズミア家の気配とよく似ていた。
最初に口火を切ったのはマティアスだった。
「こちらの要求は変わらん。妹の名誉を傷つけた責任を公の場で認めてもらう。でなければ決闘裁判だ」
「剣の前に、事実を置きます」
エレノアは立ったまま言った。
「本件は単なる婚約破棄ではありません。少なくとも誓約の段階で、別縁談への差替え余地を残したまま、他の利害が並走していた疑いがあります。」
顧問弁務官がすぐに口を挟む。
「言葉が強すぎる。疑いに留まるなら、慎むべきだ」
「ですので、順に示します」
エレノアは机上へ写しを並べた。
「第一に、ディンケル伯爵家の借財整理。婚約誓約の二日前、ロズミア侯爵家傍流名義の保証のもと、新たな借換えが行われています。第二に、破談直前の紹介状。第三に、過去の類似事例。神前誓約後、短期間で婚約が解消され、より有利な縁談へ移っている例が複数あります」
「偶然だ」
ディンケル伯爵が言った。
「上流の縁談に、そういうことはある」
「あります」
エレノアは即答した。
「ですが、だからといって、破るつもりの余地を残したまま神前誓約を結んでよい理由にはなりません」
司祭長が同意するように低く唸った。
「誓約が破れるかもしれないことと、破るつもりの余地を残して結ぶことは別です。後者は不実ではなく、不正です」
顧問弁務官が目を細める。
「証拠が飛躍している」
「では、ラウル卿ご本人に伺います」
エレノアはラウルへ向き直った。
ラウルは蒼白だった。だが以前より、ずっと人間らしい顔色でもある。台本から外れた時、人はようやく血の通う顔をする。
「あなたは誓約の時点で、別の縁談の可能性を知っていましたか」
ディンケル伯爵がラウルに何か言いかけたが、司祭長が先に杖を鳴らした。
「本人に答えさせなさい」
ラウルは目を伏せたまま、かすかに言った。
「……噂程度には」
「借財の件は」
「父から、家のためだと」
「マリアベル様に、そのことを告げましたか」
長い沈黙。それから首が横に振られる。
「いいえ」
「誓約のあとに破談を急いだのは、別の縁談が固まりかけたからですか」
ディンケル伯爵が立ち上がった。
「黙れ、ラウル!」
またそれか、とエレノアは思った。
だが、もうそれでラウルが黙る場ではなかった。
ラウルは一度だけ唇を引き結び、それから父を見ずに答えた。
「……別の縁談が、進んでいました」
その一語は小さかった。小さいのに、部屋の全員へ届いた。
マリアベルは目を閉じた。泣かない。泣かないが、その肩から力が一つ落ちるのが見えた。諦めではない。ようやく曖昧な言葉が終わった時の落ち方だった。
マティアスが椅子を蹴りかける。カイルが壁際から半歩だけ前へ出たのを、エレノアは視界の端で見た。止めるための動きだ。
「加えて申し添えます」
エレノアは室内を見回した。
「本件の周辺では、令嬢側に信義上の欠陥があるかのような風聞が、すでに市中へ流れ始めています。しかし先ほどの証言と記録から、その根拠は認められません。曖昧な理由書面を用いて相手の名誉だけを静かに削る手法は、破談の後処理ではなく、破談そのものと一体の加害です」
マリアベルがわずかに顔を上げる。
「以上です。本件は令嬢側の瑕疵による破談ではありません。ディンケル伯爵家側が家の利害を優先し、神前誓約の重みを利用して進めた背信です。加えて、ロズミア侯爵家周辺を含む、外部の利害が入り込んでいた疑いも強い。少なくとも、マリアベル・エスティナの名誉に傷を着せる理由は、本件のどこにも存在しません」
顧問弁務官がなおも言う。
「ロズミア侯爵家の名をここで混ぜるのは――」
「断定していません」
エレノアはその言葉を断ち切った。
「示しているのは、誓約の周辺に外部の利害が入り込んでいた疑いです。現時点で私が扱うのは、この誓約が令嬢側の瑕疵によるものではないという点だけです。誰がどこまで関わったかは、別途記録で追います」
司祭長が重々しく頷いた。
「教会としても、そう記録しよう」
エレノアは最後の案を提示した。
「調停案を述べます。第一に、婚約破棄の理由から令嬢側の瑕疵を完全に排除し、教会記録に『伯爵家側の背信による解消』として明記すること。第二に、伯爵家は神前侮辱に対する謝罪を教会立会いで公に行うこと。第三に、持参金準備、衣装、儀礼費用を含む補償金を支払うこと。第四に、本件に関する関係記録を法務局保全下に置き、後日の照会を妨げないこと。第五に、令嬢側の名誉を損なう風聞を流した場合、以後は調停打切りのうえ決闘裁判申請を妨げないこと」
最後の一文で、空気がぴんと張った。
調停士の役目は剣の手前で止めることだ。だが、止まらぬ側に「次は剣だ」と明言することもまた仕事の一部だった。
マティアスが荒い息を吐く。
「……妹の名が守られるなら」
マリアベルが、ゆっくりと顔を上げた。
「お兄様。これでもう十分です」
その言い方に、エレノアは少しだけ救われる。これは誰かに与えられた慈悲ではない。本人が選び取る決着でなければならない。
ラウルは最後まで顔を上げなかった。だが署名の前、掠れた声でたった一度だけ言った。
「……申し訳、なかった」
マリアベルは答えない。
答えないことで、十分だった。




