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第11話 主婦、港町にたどり着く



草原は相変わらずどこまでも広く、私の足は相変わらず「もう勘弁してください」と訴え続けていたのに、ルミナだけは朝から晩まで同じテンションで飛び回れる小動物みたいな軽やかさを崩さず、こっちが息を切らして立ち止まりそうになるたびに「もう少しですよ!」「風が気持ちいいですね!」「あ、あっちに珍しい花が咲いてます!」と遠足のしおりみたいなことを言ってくるので、私は半分本気で、この妖精には疲労という概念が存在しないのではないかと疑っていた。


実際、歩いている最中の私はというと、景色の綺麗さとか世界の神秘とか、そういう高尚なものを味わう余裕はとっくに底をついていて、頭の中には「足が痛い」「水が飲みたい」「できれば座りたい」「あと五分だけでいいから平坦な道にしてほしい」という極めて庶民的な願いしか残っていなかった。神の不在とか八大陸とか、さっきまでルミナが真面目に話してくれていた設定の数々も、体力の消耗と一緒に脳内の端っこへ追いやられ、いま私を支配しているのはただ一つ、「早く着いて」という切実な気持ちだけである。


それなのに、旅ってどうして人を試すような地形ばかり用意してくるのだろう。


草原を抜けたあとは、背の高い針葉樹が並ぶ林道へ入り、木漏れ日のなかをしばらく進んだかと思えば、ごつごつした岩場が現れて、そこをぴょんぴょん飛び石みたいに越えなければならなくなった。さらには、その先に待っていたのが、もはや山道というより「ヤギの通学路」としか思えないような急坂である。細くて、斜めで、ところどころ足場が崩れていて、こんなところを毎日歩いていたら人類は自然と脚力が鍛えられるんだろうな、と妙な納得をしそうになるくらい過酷だった。


「……ねえルミナ」


私は坂の途中で立ち止まり、膝に手をついて肩を上下させながら、前方をふよふよ飛んでいる妖精を恨めしく見上げた。


「はいっ、なんでしょう!」


「これ、人間用の道じゃないよね? 絶対そうだよね? 山羊とか野生動物が“いつもの近道”として使ってるルートを、なんか勢いで採用してない?」


ルミナはきょとんと目を丸くしたあと、あっさりと言う。


「最短距離ですよ!」


「最短距離だからって人権が保証されるとは限らないのよ!! 私はいま、完全に“地図上では近いけど実際には通りたくない道”を歩かされてる気がするんだけど!」


そう叫んだせいで余計に息が上がり、私はその場で「ぜぇぇ……」と情けない音を漏らした。普段、自宅の階段を駆け上がるだけでも「年齢には逆らえないわねぇ」と独り言を言っている三十三歳主婦に、この異世界の縦移動はあまりにも厳しい。異世界転移って、もっとこう、光に包まれて気づいたら町の広場に立ってるものじゃないの? なんで私は初日から本格派トレッキングをさせられているの?


「サナさん、あと少しです!」


「その“あと少し”が信用できないのよ! ここまでの人生で、“あと少し”って言われて本当にすぐ終わった試しがないから!」


文句を言いながら、それでも足を止めきれないのは、もう完全に意地だった。ここまで来て「やっぱり座ります」は悔しい。悔しいし、ここで本当に座り込んだら二度と立ち上がる自信がない。私はキーホルダーサイズに縮めて帯に下げている神器を指先で触れ、ほとんど自分への応援みたいに「歩け、私……」と小さく呟きながら坂を登った。


やがて視界の端に、木々の切れ間から強い光が差し込んできた。林と岩場と坂に遮られていた空が、急に広がる。潮の匂いに似た、少し湿り気を帯びた風が頬を撫でる。


そして、最後の一段みたいに残っていた斜面をよろよろと登り切ったそのとき――


「――見えてきました!」


ルミナが両手を広げて叫んだ。


私はぜいぜいと息を切らせながら、その声に導かれるように顔を上げる。汗がこめかみを伝い、乱れた呼吸のまま目を向けた先に広がっていたものを見た瞬間、肺に残っていた苦しさが、一瞬だけ全部どこかへ飛んでいった。


眼下には、陽光を反射してきらめく紺碧の海が広がっていた。


ただ青いだけじゃない。深い群青の層の上を、光が砕けた銀の欠片みたいに散っている。風に押された波が白く縁取られ、海面はゆるやかに揺れながらも確かな生命感を湛えていた。その懐に抱かれるようにして、半島の突端へ寄り添う街がある。


白い壁と青い屋根を持つ家々が、丘の斜面に沿って段々畑のように重なり、陽射しを受けてまぶしく光っている。中央には円形の広場らしき空間があり、そこから放射状に石畳の道が伸びて、港の方へとつながっていた。港には大小さまざまな船が停泊していて、太い帆柱の並ぶ姿は森のようにも見える。吊るされた帆布が風をはらんでぱたぱたとはためき、その音が遠くからでも不思議と届く気がした。


さらに耳を澄ませば、街のざわめきまで風に運ばれてくる。商人たちの掛け声、どこかの建物から鳴り響く鐘の音、荷車の車輪が石を噛む音、そして海鳥の甲高い鳴き声。潮風に混じって漂うのは、焼いた魚の香ばしい匂い、スパイスの刺激的な匂い、それから焼きたてのパンに似た甘い香りで、胃の奥が思わずきゅるりと鳴きそうになる。


「……すご」


気づけば、そう呟いていた。


この世界に来てから、私はずっと“未知への恐怖”に胃をきりきりさせながら進んできた。草原も湖も綺麗だったけれど、そのたびに「ここはどこなの」「いつ帰れるの」「私は本当に大丈夫なの」と不安が先に立っていた。なのに、目の前の街並みは、そういう身構えた気持ちよりも先に“憧れ”を胸の内へ呼び込んできた。


私の知っているどの観光地とも違う。テレビで見た地中海沿岸の町並みに似ている気もするし、学生時代に夢中で遊んだRPGのオープニングムービーに出てきた“理想化された港町”そのものにも見える。現実より綺麗で、ゲームより生々しい。海風が頬に触れるたび、その全部が本物なのだと分からされる。


ルミナは得意げに胸を張り、くるりと宙返りした。


「ここが――リヴェルシアです!」


「……いやいや、言い方が完全にテーマパークの案内人なんだけど」


「えへへ! だって、そういう場所ですから!」


確かに、彼女の言う通りだった。リヴェルシアは、ただの町ではなく“舞台”のように見えた。海と陸を結ぶ巨大なステージ。人が集まり、物が運ばれ、出会いと別れが絶え間なく繰り返される場所。港に揺れる無数の船は、その全部が物語の入口みたいで、眺めているだけで胸がざわつく。


海風に押されて、潮の香りがもう一段濃くなった。私はふいに空腹を思い出す。朝からよく分からない世界でよく分からない事情に振り回され、戦って、歩いて、登って、歩いて……そういえばちゃんとした食事をまだ一度もとっていない。焼き魚の匂いも、パンの匂いもどこか甘いお菓子らしき香りも、全部いまの私にとっては凶器だ。


「どうですか? ね、素敵でしょう?」


ルミナが得意げに顔を覗き込んでくる。


私は返事に少し迷った。心の半分はもう観光モードに傾きかけている。「ちょっと市場とか見てみたい」「パン屋さんあるかな」「海沿いのカフェっぽいところがあったら最高なんだけど」みたいな、平和で可愛い気持ちがじわじわ膨らみ始めている。けれど理性はまだ、「違うでしょ、帰る方法を探すのが最優先でしょうが」と私の肩を掴んで揺さぶっていた。


「……まあ、悪くないかな」


つい、そんな曖昧な返事になってしまう。


「ふふーん、素直じゃありませんね!」


ルミナがくるくる回りながら私の前へ飛び込んでくる。その顔は、修学旅行で初めて海を見る生徒の反応を面白がるベテラン引率教師みたいだった。微妙に腹立つ。


「でもね、サナさん。ここで大事なのは“街並みが綺麗”ってことじゃありません。リヴェルシアは、人と物が交わる場所なんです。つまり――情報も集まります」


「……情報?」


「そうです! あなたを元の世界に帰す方法も、きっと探せます!」


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が少し軽くなった。観光地として綺麗だからとか、お菓子が美味しそうだからとか、そういう理由で心が引っ張られていた後ろめたさが、ほんの少しだけ正当化された気がする。帰るための手がかりを探す。そのための第一歩として、この街へ入る。そう考えれば、私はただ匂いに釣られてふらふらやって来たわけではない……はずだ。


私はその場に腰を下ろし、しばらくリヴェルシアを見下ろした。海は陽光を浴びて銀色に輝き、白い波が港の外壁に砕け散っている。港の先には水平線がかすみ、その向こうに小さな船影が点々と浮かんでいた。あの船にも誰かがいて、どこかからこの街へ向かってくるのだろう。ここで暮らす人にとっては当たり前の風景なのに、私にはそれがひどく眩しく、そして羨ましく見えた。


……不思議だ。


初めて見る街なのに、胸の奥にじんわりと“帰ってきた”ような感覚がある。もしかすると、学生時代に遊んだゲームの記憶が勝手に補正をかけているのかもしれない。RPGで最初の大きな町へ辿り着いたときのあの安心感や高揚感が、現実の景色に重なっているのかもしれない。けれど、それだけでは説明できない親しみがたしかにあった。


白い壁。青い屋根。海の匂い。市場のざわめき。知らないのに、どこか懐かしい。


それでも、現実はゲームではない。私は僧侶の格好をした三十三歳主婦で、帯には斧のキーホルダーを下げていて、異世界の住人にどう見られるのかも分からない。歓迎されるかもしれないし、怪しいよそ者として警戒されるかもしれない。最悪、門前払いだってあり得る。


……でも、ここまで来た以上、一歩踏み出すしかない。


「サナさん。ここからが冒険の本当の始まりですよ!」


隣でルミナがにぱっと笑う。その無邪気さに、私は思わず肩の力を抜いた。


「それ、ゲームの新章開始演出みたいに言うのやめて。こっちは現実に宿と食事と情報が必要なの」


「はいっ! その全部、リヴェルシアにあります!」


「即答が力強いわね……」


私は立ち上がり、丘の縁へ近づいて街へ続く道を探した。どうやらここからは斜面に沿って細い街道が伸びており、途中で何度か折れ曲がりながら城壁の一角へと繋がっているらしい。見下ろしたときは美しい絵画みたいに見えたリヴェルシアも、近づけば近づくほど現実の重みを増していくのだろう。


「よし……行きますか」


自分を励ますようにそう呟いて、私は丘を下り始めた。


下り道は登りより楽かと思いきや、そう単純でもなかった。石混じりの細い道はところどころ滑りやすく、勢いをつけると足を取られそうになる。疲れている足にブレーキをかけながら進むせいで、ふくらはぎの別の部分が痛み始めるし、風は強くなるし、海が近づくにつれて人の気配まで混じってきて妙に落ち着かない。


途中、道ばたですれ違ったのは、籠を背負った老人だった。日に焼けた顔に深い皺を刻み、肩からは細い棒を何本も束ねている。私たちを見ると、老人は一瞬だけ足を止め、キーホルダーサイズの斧、僧侶風の衣装、そしてルミナを順番に見た。


私は思わず背筋を伸ばした。どうしよう、第一印象が大事よね。異世界では挨拶の仕方とか違うのかしら。変なこと言って怒られたら困るし……。


「こ、こんにちは?」


恐る恐る日本語で言ってみると、老人は少し目を瞬かせたあと、口元をゆるめて軽く会釈した。


「旅の方かい。風が強いから足元に気をつけなされ」


通じた。


私は心の中でひそかにガッツポーズした。言葉が通じるってすごい。異世界の基礎インフラとして最重要項目だと思う。これで宿も食事も情報収集も、少なくともスタートラインには立てる。


「つ、通じた……!」


老人とすれ違ってから、私は小声で感動を漏らした。


「だから大丈夫って言ったじゃないですか」


ルミナが得意げに言う。


「通じるっていう事実と、実際に生身の人と会話して確認できるのとでは安心感が違うのよ! こっちは異世界コミュニケーション初心者なんだから!」


やがて道は幅を増し、石畳が現れ始めた。城壁も近い。白い石で築かれた外壁は海風に晒されて少しだけ色褪せているものの、それが逆に長い歴史を感じさせる。門の両脇には塔が立ち、上部には見張りらしき人影が動いていた。門前には荷車を引いた商人たちや、魚籠を持った人々が出入りしていて、町の入口だけでも充分に賑わっている。


「うわ、ほんとにちゃんと“街”だ……」


「ちゃんと街ですよ?」


「いや、ちゃんとって言いたくなるの。ここまで草原と山道と魔獣だったから、急に文明が押し寄せてくると感動するの」


門の前まで来ると、革鎧を着た門番がこちらへ視線を向けた。日焼けした屈強な男で、腰には短剣、背には槍。いかにも“警備担当”という雰囲気だ。私は思わず姿勢を正し、帯に下げた斧のチャームを隠すべきか一瞬迷ったけれど、いまさら怪しい動きをするほうが不自然なので、そのまま進んだ。


門番は私の服装を上から下まで見て、それからルミナへ視線を移す。少しだけ眉を上げた。


「見ない顔だな。巡礼か?」


巡礼。


そう言われて、私は一瞬だけ言葉に詰まった。僧侶っぽい服装のせいだろう。どう返すのが正解なの。


「え、えーと……旅の途中、です?」


語尾が完全に疑問形になった。自分でも情けない。こういうときにスラスラ嘘がつけるタイプなら人生もっと生きやすかっただろうに、私は主婦であってスパイではないのである。


門番は私のぎこちなさに少し目を細めたが、ルミナがすかさず前へ出た。


「サナ様は遠方からのお方です! 本日はリヴェルシアへ滞在し、情報収集と休息を予定しておられます!」


「情報収集とか正直に言うの!?」


私は小声でツッコんだが、門番は特に気にした様子もなく肩をすくめる。


「厄介ごとを持ち込まないなら構わん。港町はよそ者にも慣れてる。宿を探すなら中央広場から西の坂を上がるといい。旅人向けの宿が並んでる」


「……入っていいんですか?」


思わず聞き返してしまった。もっとこう、身分証明とか通行税とか、異世界なりのハードルがあるのかと思っていたのだ。


門番は呆れたように鼻を鳴らす。


「税は港で商売する連中から取る。徒歩で来た旅人をいちいち追い返してたら、この街は成り立たんよ」


なるほど。交易都市の理屈は合理的だ。


「ありがとうございます……」


私は深々と頭を下げ、門をくぐった。


そしてリヴェルシアの街の空気が、一気に私を包み込んだ。


人が多い。


最初に感じたのはそれだった。草原や山道の静けさに慣れてしまっていたせいで、街のざわめきはまるで洪水のように押し寄せてくる。石畳の上を行き交う足音。荷車の軋む音。商人たちの張り上げる声。店先で客を呼び込む威勢のいい口上。遠くから聞こえる笑い声。どこかで金属を打つ甲高い音。全部が混ざり合って、ひとつの大きな“生活の音”になっている。


通りの両側には、白壁の建物が肩を寄せ合うように並んでいた。青い屋根瓦は空と海の色を映したみたいに鮮やかで、窓辺には花の鉢が置かれ、洗濯物が風にはためいている。地面に近い階は店舗になっているらしく、魚を並べる店、果物を山積みにした露店、布地を吊るした店、香草や乾物を扱う店などがずらりと並び、それぞれから違う匂いが漂ってくる。


魚の塩気。オリーブみたいな香りの油。焼きたてのパン。乾いたハーブ。香辛料。果物の甘さ。人の汗。海風。


匂いまで賑やかだ。


「うわぁ……」


またしても、そんな間の抜けた声しか出てこない。異世界に来てから「うわぁ」と「帰りたい」と「どういうことなの」が口癖になっている気がする。語彙力の危機だ。


「サナさん、あまり立ち止まると邪魔になりますよー」


「わ、分かってる!」


後ろから荷物を抱えた女性が通り過ぎていく。私は慌てて通りの端へ寄った。歩きながらも、つい視線があちこちへ吸い寄せられる。小さな子どもが海辺で拾ったらしい貝殻を見せ合って笑っている。髭の濃い商人が店先で大声を張り上げ、客と値段の交渉をしている。頭巾を被った老女が籠いっぱいの焼き菓子を運び、若い船乗りたちが肩をぶつけ合いながら陽気に笑っている。


街が、生きている。


それを目の当たりにした瞬間、私は妙に胸が熱くなった。ここにはちゃんと人の生活があって、喜んだり怒ったり働いたり食べたりしている。異世界という言葉のなかに一括りにされていた世界が、いきなり“暮らし”の温度を持ち始めた気がした。


「……なんか、ほんとにゲームの中みたい」


「ゲーム、ですか?」


「あー……私の世界でいう、物語の舞台みたいなもの。見るだけでわくわくする場所って意味」


ルミナはそれを聞いて満足そうに頷く。


「ならぴったりです。リヴェルシアは、たくさんの物語が交差する街ですから」


その表現は妙にしっくりきた。ここでは毎日、誰かが着いて、誰かが去っていく。その数だけ人生があり、事情があり、秘密があるのだろう。


……と、感傷に浸っている場合ではない。


「で、まずどうするの? 情報収集も大事だけど、その前に私、そろそろ本格的にお腹が空いてきたんだけど」


「そうだと思ってました!」


「でしょうね!」


「なので、まずは宿を確保しましょう! 荷を下ろせる場所があると安心ですし、食事もそこで相談できます!」


ルミナの段取りが珍しくまともで、私は少しだけ感心した。さっきまで“気脈を流せば筋肉に直送です!”みたいな大雑把説明しかしていなかった妖精と同一人物とは思えない。


私たちは門番に教えられた通り、中央広場を目指した。道を進むにつれて人の流れはさらに密になり、開けた場所へ出ると、そこには本当に大きな円形広場が広がっていた。中央には海神か何かを象ったらしい石像つきの噴水があり、透明な水が陽射しを受けてきらきら跳ねている。その周囲では市場が立ち、色とりどりの布や籠、魚、野菜、果物、香料、木工品が所狭しと並んでいた。


そして、甘い匂いがした。


私はぴたりと足を止める。


「……ルミナ」


「はい?」


「いま、すごく良い匂いがしたんだけど」


「しましたね!」


「どこから?」


「たぶんあっちです!」


ルミナが示した先には、焼き色のついた円いお菓子を山積みにしている屋台があった。薄い層が何枚も重なっているように見える。表面には砂糖らしき粒が光り、ところどころ白い結晶がきらめいていた。


「マリン・シュガーパイかもしれません!」


「……」


私は理性と本能の狭間でしばし固まった。帰る方法を探す。情報を集める。宿を確保する。全部大事だ。分かっている。でも、人間は空腹だと冷静な判断ができなくなる生き物でもある。


「……一個だけ、見てもいい?」


「見に行くだけなら!」


「その言い方、絶対買う流れになるやつじゃない?」


とはいえ、匂いに抗う自信はなかった。私たちは屋台へ近づいた。小麦色に焼けた中年の女性が店番をしていて、こちらを見るなりにっこり笑う。


「いらっしゃい! 焼きたてだよ、塩蜜パイ!」


塩蜜パイ。なんて危険な響き。


「これが……」


ルミナが横でこくこく頷く。


「リヴェルシア名物マリン・シュガーパイです!」


見た目は想像以上に美味しそうだった。何層にも重なったパイ生地は端がこんがり色づき、表面に振られた砂糖と塩の粒が陽にきらめく。ふわっと立ちのぼる香りは、バターに似た濃厚さのなかへ、ほんの少し潮の気配が混じっていて、食べる前から口の中が忙しくなりそうだ。


「い、いくらですか……?」


旅人らしく聞いてみたはいいものの、私はこの世界の通貨を一切持っていないという致命的な問題を思い出した。財布、ない。スマホもない。電子マネーなんて当然ない。完全に詰んだ。


固まる私を見て、ルミナが「あっ」と声を上げる。


「そうでした! サナさん、お金持ってませんでしたね!」


「いま気づいたの!?」


屋台の女性は事情を察したのか、少し首を傾げたあと、私の服装とルミナを見比べてから笑った。


「旅の方かい。宿を決めてから来な。顔は覚えたよ」


う、優しい……!


異世界、意外と世知辛くないのかもしれない。いや、たぶんこの人が特別優しいのだろうけれど、その優しさがいまの私には身にしみた。


「ありがとうございます……必ずまた来ます……!」


半ば宣言のように言って、私は屋台をあとにした。パイへの未練を引きずりながら。


「ほら、まずは宿ですよ!」


「分かってるわよ……でも今の匂い、完全に罪だったわ……」


中央広場から西へ伸びる坂道を上がると、たしかに“旅人向け”らしい建物が増えてきた。看板にはジョッキの絵やベッドの絵、海鳥の絵などが描かれ、入り口には旅装の人々が座っていたり、荷をまとめていたりする。通りには他の場所より少しだけ落ち着いた空気が流れ、港の喧騒から一歩離れた休息の場という感じがあった。


「どこにするの?」


「うーん……清潔で、ご飯が美味しくて、店主が優しくて、変な酔っ払いが少ないところがいいですね!」


「条件が現実的すぎるのよ」


とはいえ、その基準は全面的に賛成である。見知らぬ土地で宿を選ぶなら、それが一番大事だ。


通りの途中に、青い屋根と白い木枠の窓が印象的な三階建ての建物があった。看板には貝殻と月の絵が描かれ、その下に流麗な文字で何か書いてある。読める。異世界なのに読めるの、相変わらずすごい。


《月貝亭》。


「なんか、よさそうな名前」


「ここ、評判いいですよ!」


「え、そういう情報は持ってるのね……」


ルミナが得意げにうなずく。私は半信半疑のまま扉を押した。


店内へ入ると、木の香りと煮込み料理の匂いがふわりと迎えてくれた。広間には丸いテーブルがいくつも並び、壁には漁網や貝殻飾りが掛けられている。海辺の宿らしい気取らない温かさがあって、私は入った瞬間に少しだけ安心した。


カウンターの向こうから現れたのは、栗色の髪を一つに束ねた四十代くらいの女性だった。ぱきぱき働く人の顔つきで、目元は優しい。


「いらっしゃい。泊まりかい?」


「え、ええと、その……」


私はまたしても言葉に詰まる。問題はお金である。宿泊料金を払えない状態で宿を探す旅人なんて、どう考えても不審者だ。


女性は私の様子とルミナを見て、何か察したように眉を動かした。


「遠くから来たのかい。顔色がひどいよ。水でも飲むかい?」


その一言で、私は危うく泣きそうになった。異世界の大人が優しすぎる。疲労と空腹が極まると、人は親切に弱くなるのだ。


「い、いただきます……」


差し出されたコップの水は冷たくて、喉を通るたびに身体のなかへ静かに沁みていった。ああ、水ってこんなに美味しかったっけ。私は一気に半分ほど飲んで、ようやく息をついた。


「で、泊まりたいのかい?」


女性が改めて尋ねる。私はコップを持ったまま、正直に言うしかなかった。


「泊まりたいです。でも、事情があって、いま手持ちがなくて……」


一気に言い切ると、自分でもいたたまれない気持ちになる。無一文の主婦、異世界で宿探し。タイトルにしたら悲壮感がすごい。


ところが女性は、驚くでも怒るでもなく、ふっと息を吐いてカウンターに肘をついた。


「ふぅん。よくある話じゃないけど、なくもないね。リヴェルシアは流れ者も多いから」


「え?」


「金がないなら働いてもらう。皿洗いでも掃除でも荷運びでも、やれることはあるだろう?」


その提案に、私はぱっと顔を上げた。働く。なるほど、それはありだ。むしろ現実的すぎて助かる。異世界でも労働は裏切らない。筋肉は裏切らないとかいう話より、よほど信用できる。


「やります! 皿洗いでも掃除でも、洗濯でも、料理の下ごしらえでも!」


食い気味に答えると、女性は少しだけ目を見開き、それから口元をゆるめた。


「ふふ、威勢がいいね。気に入ったよ。じゃあ、まずは腹ごしらえだ。話は食ってからにしよう」


その言葉を聞いた瞬間、私の胃が盛大に鳴った。


ルミナが横で「やっぱり鳴りましたね!」と嬉しそうに言う。お前は黙ってろ。


私は椅子へ腰を下ろしながら、窓の外に広がるリヴェルシアの白い街並みをちらりと見た。不安はまだある。帰る方法なんて、本当に見つかるのか分からない。旦那のことも気になるし、斧のことも、自分が何者なのかも、何ひとつ解決していない。


それでも、ここへ来たからこそ始まる何かが確かにある気がした。


草原を越え、山道を越え、ようやく辿り着いた港町リヴェルシア。


そのざわめきも、潮の匂いも、優しい水の冷たさも、焼きたてのパイへの未練も、全部まとめて私の中へ流れ込んでくる。


そして私はようやく理解した。


冒険ってたぶん、魔獣を倒す瞬間だけじゃない。


知らない街で扉を開けて、知らない人から水を受け取り、これからどう生きるかをひとつずつ決めていく、その全部がもう冒険なのだ。


……できれば、最初の一食には塩蜜パイもつけてほしいけど。


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