第十七話:魔王、大名物に浮気する
四鳳亜に名前をつけてから、信長がおかしい。
いや、おかしいのは前からだ。
ただ、今までとは狂い方が違う。
角度にハマった時は、家臣の髪まで勝手に立てた。
ぜっつーにハマった時は、馬を原形が分からなくなるまでいじった。
信長が何かを気に入ると、だいたい城中が巻き込まれる。
ところが茶の湯だけは、妙に静かだった。
「茶々、ちょっと見ろ」
朝から呼ばれて振り向くと、信長が四鳳亜を両手で持って座っている。
「昨日よりよくなったと思わんか。少し力を抜いてみた」
「私に聞かないでよ。茶の先生じゃないし」
「お前が茶の湯を教えたのだろう。途中で投げるな」
「殴らない抗争って教えただけ!」
信長は不満そうに四鳳亜を置くと、今度は茶杓を持ち出した。
横から眺め、少し傾け、また戻す。
「こっちはどうだ。もう少し寝かせれば角度が出ると思うのだが」
「あーもう、うるさい……」
信長は本気で意味が分からないらしい。
茶杓をこっちへ向け、「そもそも角度というものはな、見た瞬間の圧が──」と始まったので、途中で手を振った。
「朝から角度で説教されたくない」
「大事な話だぞ」
「私には大事じゃない」
「……朝から、ずいぶん楽しそうですね。兄上」
後ろから声が落ちてきた。
信長の手が止まった。
母上が廊下に立っていた。
兄を見て、茶杓を見て、四鳳亜を見る。
それから、もう一度ゆっくり兄を見る。
「……市。これはだな」
「まだ何も聞いておりませんけれど」
「顔がもう怒っている」
「怒ってなどいませんよ。ただ、長政様を殺した方が、朝から姪と茶碗を囲んでずいぶん楽しそうだなと思っただけです」
「……」
信長が静かに茶杓を畳へ置いた。
逃げる準備だ。
母上が袖をまくった。
ついでに、壁に立てかけてあった薙刀を取った。
信長が一歩下がる。
「なんで今、武器を持った!? ま、待て、市。せっかく茶の湯を始めたのだ!! ここは穏やかに、静かな心でだな」
「長政様にも、もう少し穏やかに生きる時間を差し上げてほしかったですね」
「それを出されたら何も返せん!!」
信長が逃げた。
「兄上ぇぇぇ!!」
「市!! 朝から薙刀を持って走るな!!」
「逃げなければ走りません!!」
「ならまず薙刀を置け!!」
「兄上を斬ってから考えます!!」
「それじゃ遅い!!」
二人の声が廊下の向こうへ消えていった。
急に静かになった広間で、初だけがその先をじっと眺めている。
「……織田家……朝の型……」
「流派みたいに言わないで」
江は四鳳亜の中を覗き込みながら、「よんふぉあ〜。のぶおじ、にげたな〜」と楽しそうに報告した。
*
しばらくして、信長だけ戻ってきた。
肩で息をしているし、あれほど大事にしているリーゼントもほんの少し傾いている。
「……続きをやるぞ」
「母上は?」
「…………さて、茶だ」
信長は何事もなかったように四鳳亜を手に取った。
*
茶熱はその日だけで終わらなかった。
昼には庭の花の前で腕を組み、「こいつ、少しうるさくないか」と睨んでいる。
「花にうるさいとかある?」
「ある。前へ出すぎだ。俺を見ろと言わんばかりの顔をしている」
「信長にだけは言われたくないと思う」
花は何も答えなかった。賢い。
ご飯を食べていても、急に椀を目の高さまで持ち上げる。
「……弱いな」
「味?」
「器だ。もう少しこう、腹に何か持っている感じが欲しい」
「ご飯食べなよ」
夜になれば四鳳亜を磨き、時々普通に話しかけている。
「今日はよく見えるな、四鳳亜」
「茶碗だよ、それ」
「知っている」
「じゃあ何がよく見えるの?」
「分からんのか」
「分かる側みたいに言わないで」
数日前まで「ジジイの飲み会」だったものが、すっかり信長の日常に入り込んでいた。
角度の時みたいに騒がない。
ぜっつーみたいに城中を走り回らない。
ただ座って、見る。
気づけば半刻くらい同じ茶碗を眺めている。
静かなのに、前より症状が深い。
初も似たようなことを考えていたらしく、信長の横顔を眺めながら呟いた。
「……魔王……音を失って……濃くなった……」
「煮詰まったみたいに言わないで」
その横では、江が金平糖を一粒つまんで四鳳亜へ差し出している。
「よんふぉあも、おやついる〜?」
「食べないよ。茶碗だから」
江は四鳳亜を見て、手の中の金平糖を見て、また四鳳亜を見る。
「かわいそう〜」
「何が?」
本気で気の毒そうな顔をしている。
信長が訂正してくれればいいのに、「四鳳亜は甘い物より渋い方が好きだ」とまで言い出した。
「設定増やさないでよ」
「設定ではない。付き合いだ」
「茶碗との?」
信長は答えなかった。
もう触れないことにした。
*
数日後の夕方。
家臣が一つの箱を抱えて広間へ入ってきた。
「殿。お求めの品が届きましてございます」
四鳳亜を磨いていた信長が顔を上げる。
「来たか」
声が違った。
「また何か買ったの?」
「見れば分かる」
「その言い方する時、大体ろくなものじゃないんだよね」
私を無視して、信長は箱の前へ座った。蓋を外す手つきが妙に慎重だ。
中に入っていたのは、大名物の松島だった。
「…………」
信長が止まった。
「ねえ。信長?」
返事はない。松島に目を貼りつけたまま、しばらくしてようやく口を開いた。
「……茶々。これは、いかん」
「何が?」
「強い」
「語彙どうしたの?」
でも、言いたいことは何となく分かった。
横には四鳳亜がある。
少し前まで広間の隅に転がっていた、銘もなかった茶碗。
その隣に、名前を聞いただけで目利きが黙る大名物。
並べると、さすがに残酷だ。
「主役は四鳳亜じゃなかったの?」
「……そうだな」
信長は松島を見る。四鳳亜を見る。また松島へ戻る。
浮気が下手だ。
「……一度だけ使う。実際の茶会で出してみなければ分からんこともある」
「好きにすれば?」
「そうする」
そこだけ返事が早い。
「あーあ」
「何だ、その目は」
「別に。四鳳亜に聞けば?」
「茶碗に何を聞けというのだ」
「さっきまで普通に話しかけてたじゃん」
「……ぬぅ」
信長が黙った。
そこへ母上が来た。
「茶々、そろそろ晩御飯の……」
途中で言葉が止まる。
母上は松島を見て、それを見つめている兄の顔を見た。
「……兄上。それ、大事な物なのですか?」
「大名物だ。触るなよ」
「触りませんよ」
母上はにっこり笑った。
「では、落とさないよう大切になさってくださいね」
信長が箱を抱えた。
「なぜ今それを言う」
「別に?」
「市。その笑い方をやめろ」
「何もしておりませんけれど」
母上が一歩近づいただけで、信長は二歩下がった。
「お前、絶対何かするだろう!」
「まあ。人聞きの悪い」
「茶々、こいつを見張っておけ!」
「私に仕事増やさないでよ」
結局、信長は松島を抱えたまま広間を出ていった。
母上は追わなかった。
ただ、その背中へ静かに一言。
「茶器は、壊さないようにするんですね」
「ぐはぁッ!!」
廊下の向こうで、何かが壁にぶつかった。
初が小さく頷く。
「……追わずして……討つ……」
「母上、今日ちょっと強いね」
*
数日後、信長は大茶会を開いた。
客は堺の目利き商人たちと、織田家の家臣。
私と初と江も茶室の端に座っている。
母上も来ていたけど、なぜか信長から一番遠い席だった。
理由は聞かなくても分かる。
今日の信長は、とにかく静かだった。
普段なら誰も求めていないうちから「見よ」「どうだ」と感想を取り立てに来る男が、今日は余計なことを一言も言わない。
最初の商人が狭い入口から身を屈めて入ると、信長の口元がほんの少しだけ緩んだ。
「……よい」
聞こえた。
絶対そこ好きだ。
天下の商人が、わざわざ頭を下げて自分の茶室へ入ってくる。
この仕組みだけで茶の湯を始めた価値が半分くらいあると思ってそう。
ところが、商人たちは入った途端、別のものに目を奪われた。
角度隊だった。
信長の左右に、リーゼントの男たちがずらりと正座している。
髪はいつものままなのに、背筋は真っ直ぐで、袱紗を扱う手だけが妙に丁寧だ。
「……失礼ながら、給仕の方々は、なぜ皆あのようなお髪で?」
一人の商人が耐えきれずに訊くと、隣の男がそっと袖を引いた。
「見るな。俺も気になるが、やめておけ」
「何か理由が?」
「知らん」
男はもう一度角度隊を見て、小さく首を振った。
「知らんが、たぶん関わらん方がいい」
賢い。
信長はそんなやり取りが聞こえていないような顔で、黙々と茶を点てていた。
悔しいけど、上手い。
夜中に茶杓を振り回していた時間も、ちゃんと何かにはなっていたらしい。
掛け軸も、花も、香りも出しゃばらない。
全部が静かに収まっている。
角度隊の頭以外は。
「……なるほど」
商人の一人が小さく漏らした。
信長の眉が、ほんの少し動く。
私は隣の初をつついた。
「今のはどう?」
初はすぐには答えなかった。
商人の顔をじっと見て、しばらくしてから首を横に振る。
「……まだ……『ほぉ』じゃない。浅い……」
「いつから目利き側になったの?」
初はもう次の客を観察していた。
江だけは、最初から茶会に一切飲まれていない。
小皿に盛られた金平糖しか見ていなかった。
「ちゃちゃねぇ、これ食べていい?」
「まだ。我慢して」
江は不満そうに私を見て、また金平糖へ戻る。
「……いっこだけ」
「我慢」
「じゃあ、はんぶん」
「何で小さくすれば通ると思ったの」
江は本当に半分にできないか、金平糖をつまんで眺め始めた。
「割らなくていいからね」
その時だった。
信長が、脇に置いていた箱へ手を伸ばした。
あ。
四鳳亜じゃない。
松島だ。
信長が蓋を開ける。
それまで小さくざわついていた茶室から、音が消えた。
「あ……」
誰かが息を漏らした。
ほんの小さな声だったけど、分かる。
今のは感想じゃない。
負けた人の声だ。
(強っ)
正直、名物ったって「ものすごく高い茶器」でしょ、くらいに思ってた。
違った。
みんな松島を見る。
さっきまであれだけ気になっていた角度隊すら、もう誰も見ていない。
掛け軸も花もそこにある。
香りだって残っている。
なのに、松島だけが真ん中にいる。
信長は客の顔を一人ずつ見てから、低く言った。
「……見な」
何人かの商人が身を乗り出す。
「松島……」
「これが……」
「まさか、これほどとは……」
やがて一人が頭を下げた。
「……まいりました」
それを見た別の商人も、ゆっくり礼をする。
「お見事にございます」
「恐れ入りました」
本当に、正座したまま人が負けていく。
誰も殴られていないし、信長も怒鳴っていない。
それなのに、もう勝負は終わっていた。
(勝ったじゃん)
しかも初陣だ。
これだけ綺麗に決まったら、信長なら絶対あとで自慢する。
三回くらいは聞かされる。
そう思って顔を見た。
「…………」
笑っていない。
信長は松島を見ていた。
さっきまであれだけ欲しがっていた物を見る顔じゃない。
何かが気に入らない時の顔だ。
「信長?」
返事がないので、もう一度呼んだ。
「ねえ」
そこでようやく顔が上がる。
「茶々」
「何?」
信長は頭を下げた商人たちを見て、それから松島へ視線を戻した。
少し黙ってから、低い声で言った。
「今日の勝ち……気に食わん」
「は?」
静まり返った茶室に、私の声だけが響いた。
(つづく)




