第十六話:茶器収集。魔王、殴らない抗争を知る
長篠の戦いが終わってから、岐阜城は妙に静かだった。
静かすぎて、信長が庭の池にしゃがみ込み、死んだ魚みたいな目で鯉に餌をやっている。
「……つまらん」
ぽちゃん。
餌を落とす。
鯉が寄ってくる。
また落とす。
また寄ってくる。
信長はだんだん腹が立ってきたらしく、鯉を睨み始めた。
鯉に罪はない。
「鉄砲で勝つのは早すぎた。情緒がない」
私は縁側で羊羹を切りながら言った。
「しばらく平和でいいじゃん」
「嫌だ」
「子供?」
「もっとこう……ヒリヒリするやつがしたい」
この男、戦がないと鯉に喧嘩を売るらしい。
私は羊羹を一切れ口に入れた。
「じゃあさ。殴る喧嘩に飽きたなら、殴らない喧嘩しなよ」
池を睨んでいた信長が、こっちを向いた。
「殴らない喧嘩?」
「あるよ。戦国で一番怖い連中が、正座してやるタイマン」
「なんだそれは!?」
「茶の湯」
信長が鼻で笑った。
「茶? あれはジジイの飲み会だろ」
「甘い。あれ、殴ったら負けの抗争だから」
信長の手が止まった。
餌を待っていた鯉だけが、ぱくぱくしている。
「……殴ったら負け?」
「そう。誰も斬らないし、殴らない。そこで手を出したら『あ、こいつ負けたな』って空気になる」
信長の眉が、ほんの少し上がった。
「……続けろ」
食いついた。
さっきまで鯉しか見てなかった男が鯉になった。
「最近の茶室なんか、入口をわざと狭くするところまであるの。偉い人でも、入る時は頭を下げなきゃいけない」
「なぜわざわざ狭くする?」
「外で偉くても、中では一緒ってことじゃない? 身分とか格とか、そういうの置いて入るの」
信長は何か考え込んだあと、池の向こうを見ながら呟いた。
「……集会か?」
「そういう理解になるんだ」
「違うのか」
「なんかもう、否定しきれない」
信長が完全にこっちを向いたので、仕方なく続ける。
「刀も外に置くよ。得物の持ち込み禁止」
「事務所のことか?」
「……茶室」
私はため息をついた。
「似ておるな」
「似てない」
すると、私の横で菓子をつついていた江が顔を上げた。
「ちゃちゃねぇ、おちゃ、みんなでのむん?」
「濃茶なら一つの茶碗を回して飲んだりするよ」
江の顔がぱっと明るくなった。
「まわしのみ〜! きょうだいの、さかずきや〜!」
「誰だ! まだこいつに任侠物を見せてる奴は!!」
信長が立ち上がった。
そこはちゃんと怒るんだ。
「江、合ってるのが余計に怖い」
「さかずき〜」
「覚えなくていいよ、それ」
江は嬉しそうなので、たぶん何も分かっていない。
私は羊羹をもう一つ取った。
「あと床の間ね。禅僧の墨跡とか飾る」
「ぼくせき?」
「難しい漢字が、ありがたそうに書いてあるやつ」
そこで信長が妙な顔をした。
「……愛羅武勇、夜露死苦と同じではないか」
「違う」
「漢字に思想を込めるのであろう?」
「そこだけ抜き出したらね」
「同じではないか」
「それ、禅僧の前では絶対言わないで」
初が庭を見たまま、ぽつりと口を挟んだ。
「……礼に始まり、礼に終わる。得物を捨て、頭を垂れ、盃を回す……」
この子はこの子で、何か別の方向から理解を始めている。
初は目を細めた。
「……つまり、“道”……」
「初が言うと急にそれっぽいの何なの」
「……」
信長はしばらく黙っていた。
腕を組んだまま、今度は鯉じゃなくて地面を睨んでいる。
「茶々」
「なに」
「つまり茶の湯とは、古くから続く巨大な集会で、得物を置いて事務所に入り、頭を下げ、誰も殴らずに勝敗を決めるものなのだな」
「だいぶ偏ったけど、もうそれでいいよ」
「どうやって勝つ」
声が本気だった。
「殴れぬのであろう?」
「殴らない。でも心は殴れる」
私は指を折りながら説明した。
「茶碗、掛け軸、花、香り、所作。全部ひっくるめて見せて、客から言葉を奪うの」
「言葉を奪う?」
「『ほぉ……』って言わせたら勝ち」
「ほう」
「今のは早い」
信長が眉を寄せた。
「何がだ」
「まだ何も見せてないから」
「面倒だな」
「で、『へぇ……』くらいで終わったら負け」
「ほう」
「だから練習しないで」
信長が口を閉じた。
「最悪なのは『なんか高いっすね』」
「どうなる」
「即死」
「死ぬのか」
「心が」
初が横から静かに付け足した。
「……死因、感想の浅さ……」
信長が嫌そうな顔をした。
「それは確かに死にたくなるな」
完全に理解している。
嫌な方向に。
「面白い」
信長は立ち上がると、池の鯉なんかもう見もしなかった。
「指一本触れずに、天下の目利きどもを正座させるのか」
「言い方がもう茶人じゃないんだよ」
「やるぞ、茶々」
「何を」
「茶の湯だ」
即決だった。
「全員、座らせる」
「そこが目的じゃないって」
信長は残っていた鯉の餌を、全部まとめて池へ放り込んだ。
水面が一気に荒れた。
鯉が大混乱している。
*
数日後。
広間いっぱいに茶道具が並べられていた。
茶碗に茶入、水指、花入。
それを見下ろしている信長の顔だけが、やたら険しい。
「……ぬぅ。ダサい」
「何が」
「全部だ」
信長は足元の茶碗を指した。
「瀬戸物。量産品。どこにでもある。これで茶会に出てみろ。全員ママチャリで集会に乗り込む族だぞ」
私は信長を見た。
「なんか例えが的確で腹立つ。……てか何で知ってるの、ママチャリ」
「知らん。気づいたら知っていた」
「何それ……怖」
少し離れたところで初が茶器を眺めながら、首を振った。
「……シマの格が、足りない……」
「初までそっちに行かないで」
茶の湯を始めたはずなのに、織田家の語彙だけがどんどん荒れていく。
「で、信長。今この国で、茶の湯で一番デカい顔してるのは?」
信長が苦々しく答えた。
「堺の商人どもだろう」
「そう。あの人たちは“名物”を持ってる」
九十九髪茄子、松島、初花。
いくつか名前を挙げると、信長の目が少しずつ変わっていった。
「単車で言うなら、この世にほとんど残ってない型の最後の一台。箱から出しただけで、みんな黙る」
信長が黙った。
今の説明だけで効いてる。
「……旧車……欲しい」
「何のことか分からないけど、そうだろうね」
「全部欲しい」
「だろうね」
「それを揃えれば勝てるのだな?」
「まあ、金に飽かせて一点物を並べたら強いよ」
「何が悪い」
「別に。勝ちは勝ちだし」
そこで私は、並んでいる茶器を見回してから付け足した。
「私はダサいと思うけど」
信長が黙った。
分かりやすい。
卑怯と言えば理屈を返す。
金持ちと言えば胸を張る。
でも“ダサい”だけは、どうやら別らしい。
「……なぜだ」
「知らない。自分で考えたら?」
信長はまだ何か言いたそうだったけど、私は広間の隅を指した。
「あれは?」
地味な茶碗が一つ、他の道具に紛れていた。
少し欠けていて、艶もない。銘もない。
「弱いし、地味だし、誰も値段つけなさそうなんだけど」
私はしゃがんで眺めた。
「なんか目が合うんだよね」
信長も隣に来た。
見る。
まだ見る。
「……何」
返事がない。
「信長?」
「ぜっつーと同じ目をしている」
嫌なところに入った。
信長はその場にしゃがみ込み、茶碗をじっと見ている。
「型落ちで誰も見向きもしない。だが、手をかけた分だけ応えてくる」
「単車の話してる?」
「茶碗だ」
「今、完全に単車だったよ」
「同じだ」
目が本気なので、もう触れないことにした。
江も寄ってきて、茶碗を覗き込む。
「よわいの、すきー」
「江はよく分かってないと思うけど、結論だけ合ってる」
信長は茶碗を持ち上げた。
さっきまでそこら辺の器だったのに、もう持ち方が少し優しい。
「決めた。主役はこいつにする」
「これを?」
「一点物は集める。だが、主役にはしない」
「集めはするんだ」
信長は聞いていない。
茶碗を目の高さまで持ち上げると、満足そうに頷いた。
「名が要るな」
「嫌な予感する」
「四鳳亜」
「……何て?」
「四鳳亜。よんふぉあだ」
急に茶室へ入れていい名前じゃなくなった。
「治安悪っ」
すると初が、いつの間に用意したのか筆を持って近づいてきた。
「……四羽の鳳に、亜ぐ者……」
「初、意味を足さないで」
「……地を這う無銘の器が、やがて天へ……」
「だから茶碗に背負わせすぎ」
江はそんなこと気にもせず、茶碗へ手を振った。
「よんふぉあ〜、よろしくな〜」
信長も真面目な顔で頷く。
「うむ。よろしく頼む」
「何で二人とも普通に会話してんの」
こうして、昨日まで広間の隅に転がっていた無名の茶碗に、戦国で一番ガラの悪い名前がついた。
信長は四鳳亜を眺めながら、すっかり機嫌を直している。
「次の茶会は、こいつで行く」
この時は本気でそう思っていたんだと思う。
少なくとも、この時だけは。
(つづく)




