プロローグ
燃え盛る炎の中、私たちは走っていた。
轟々と燃え上がる炎が夜空を赤く染め、熱風が肌を灼く。視界の片隅で黒い塊が崩れ落ち、焦げた臭いが鼻を突いた。
恐怖でもつれそうになる足を必死に動かし、火の粉が舞う道をひたすら走った。
「……ねぇ……さん……」
一緒に走っていた少年が呟く。
今にも崩れ落ちそうなほど怯えた顔には、不安と絶望が色濃く浮かんでいた。
「……ジェー。大丈夫。きっと大丈夫だから。もう少し頑張って……」
唇を噛み締め、彼の手を強く握りしめる。背後では炎が生き物のようにうねり、まるで私たちの逃げ道を奪うかのように迫ってくる。
得体の知れない何かから逃げていた。怖くて、恐ろしくて、悲しくて、切ない。
見慣れた道のはずだった。幹の形が揃った美しいブナ林は、私にとって宝物だった。大切だったその風景が、今は炎の中で悲鳴を上げるように燃えている。
悔しくて、悔しくて、ただ強く唇を噛み締めた。
(助けて……助けて……助けて……)
誰か――。
必死に手を伸ばし、虚空を掴む。もがけばもがくほど、苦しくなる。どうすれば、この苦しみから逃れられるのだろう。
汗と煤にまみれた身体を震わせながら、それでも私たちは走り続けた。必死に坂を駆け上がり、小高い丘の頂上を目指す。ここは、義弟のアージェンとよく遊びに来ていた場所だった。
見晴らしがよく、領地と街道を一望できる、私たちのお気に入りの場所。春には金色のミモザが咲き乱れ、秋には紫色の竜胆が斜面を覆い尽くす。
けれど――大好きだった美しい景色は、すっかりその面影を失っていた。見渡す限り炎に包まれ、辺り一面が地獄の業火と化している。その光景を目にした瞬間、全身から力が抜けた。
握り締めていたアージェンの手が、するりと離れていく。
「……はぁ……はぁ……はぁ……」
肩で息をしながら、必死に空気を求める。いくら吸い込んでも、うまく息ができない。身体の感覚が徐々に遠のいていく。
次の瞬間――。
冷たい地面に身体を打ちつけられた。
「義姉さん!!」
痛みと同時に、得体の知れない恐怖が押し寄せてきた。どうしようもない不安に押し潰されそうになる。
込み上げる感情が涙となり、視界を霞ませていく。
「……ヴィオラ」
名前を呼ばれて、顔を上げた。炎を背にして、誰かが立っている。
顔は見えない。けれど、煙と熱風に煽られた美しい白銀の髪だけが、炎の向こうで揺れていた。
「……お……かあ……さま……?」
彼女は私を抱き起こすと、力強く抱きしめた。
その腕の中にいると、不思議と恐怖が薄れていく。
私は安心して、その身体に身を委ねた。やがて彼女は私の顔を覗き込み、そっと額に口づける。紫水晶色と黄金色の瞳が、真っ直ぐに私を射抜いた。いつも強気で勝ち気だった母親の顔は、今は哀愁と悲哀に覆われていた。
「……ごめんね、ヴィオラ。これも運命なんだ。でも、これから運命を変えてくるからね」
「……運命?」
「ああ。私たちを縛る呪いを、これから解き放つんだ」
真っ直ぐに炎の中を見据える母。その横顔を見つめていると、胸の奥がざわついた。嫌な予感がする。行ってはいけない。そんな気がしてならなかった。
その瞬間――。
右目が熱を帯び、まばゆい光を放った。そして、脳裏に映像が流れ込んでくる。
母親が血を吐き、その場に倒れる姿。
「お母様! 駄目! 行っては駄目よ!!」
必死に袖を握り、懇願する。けれど、そんな私とは裏腹に、彼女は穏やかな顔で微笑んだ。初めて見る表情だった。
「……未来が視えたんだね、ヴィオラ」
その声は、不思議なほど穏やかだった。
「おまえは世界の希望だ。世界を救う鍵となる子だよ」
「嫌……!」
彼女はゆっくりと立ち上がると、炎の中へ向かって歩き出した。
「お母様……!」
腕を掴んで引き止めようとする。けれど、細く小さなこの手では、止めることなどできなかった。
「……アージェン。ヴィオラを頼んだよ」
「……はい。バーベナ様。」
アージェンが真っ直ぐに彼女を見る。その瞳には涙が溜まっていた。それでも、必死にこぼれ落ちるのを堪えている。
「未来は決められるものではなく、選び続けるもの」
「ヴィオラ、これだけは忘れないで」
そして、踵を返す。彼女の姿が炎の中へ消えていく。
「……待って!」
必死に手を伸ばす。
「置いて行かないで! お母様!!」
叫んでも、振り返らない。視界が涙で霞む。
「……義姉さん、駄目だ」
追いかけようとする身体を、アージェンが必死に制止する。その間にも、母の姿は黒い煙の向こうへ消えていった。
やがて――。
何も見えなくなった。
―――――――
「待って!!…お母様!!」
必死に手を伸ばすと、そこは見慣れた白い天井が広がっていた。魔法学園の寮の一室、そのベットの上に私は居た。
「…はぁ、はぁ…はぁ…」
乱れた息を整えようと必死に空気を求めた。微かに熱を持った左目を押さえながら、独りごちる。悪夢を見たのだと。
夢?いや違う。
これは過去だ。




