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抗争の狭間に揺れる白  作者: 小屋隅 南斎


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第82話

 林檎の顔は珍しく少し強張っていた。何気ない話題を装っていたが、何か彼女にとって大事なことを口にしたいのだと透けて見えていた。だからたまかも、気を引き締めて注意深く耳を傾けた。

「わたしは『平和な世界』、水面は『家族のような世界』、姫月は『楽しさに溢れる世界』を追い求めてきました。三組織は依然として抗争を続けており、それはちょっとやそっとのことでは止まることを知りません。それでも、理想の世界を追い求め続けることは重要です。そうしないと、望んだ未来を得ることは出来ませんから。……ですが、それは……『平和な世界』を、望むのは————」

 林檎の等身大の表情。精一杯を象徴するかのように結ばれた小さい掌。景色を反射した、潤んだ大きな瞳。靡く紅色の髪。——その後ろの道を、素早く動く影があった。自然とそちらに視線が吸い寄せられる。

 見覚えのある色だった。茶と、黒と、白。初めての邂逅より、幾分か手入れの行き届いた毛並み。手当した時の包帯やガーゼは、自力で取ったのか跡形もない。その代わり、お腹の上に小さい傷跡が残っている。ぴんと立てられた尻尾、ぴくぴくと動かされる二つの耳。ガラス玉のような二つの瞳が、遠くを見つめている。それは、建物の合間を縫った細い道の真ん中に、自らの小さい脚で立っていた。

「……っ!!!」

 たまかは思わず凝視し、声にならない悲鳴をあげた。震える指を、林檎の背後へ突き付ける。

「え?」

 林檎は瞬時に警戒するように眉を寄せ、たまかの様子がおかしいことを悟った。たまかの指の先を、釣られて振り返る。

「あれは……!」

 林檎もその姿を視界に捉え、はっとしたように声をあげた。

「ま、間違いありません。あの時の猫さんです……!」

 若干しどろもどろになりながらも、たまかはなんとか叫んだ。心を落ち着けるように息を整え、「捕まえましょう!」と言うと同時に走り出す。林檎がその後に続いた。

 猫とは数メートルしか離れていないというのに、その距離が余りにももどかしかった。覚束無い足取りに内心叱責を入れながら、急いで猫の元へ駆け付ける。猫はなぜか逃げることもなくその場に留まっていた。まるでたまかが自分の命の恩人だと知っているかのようだった。

 猫の横へやってきたたまかは、震える膝を曲げて、ゆっくりと腰を下ろした。林檎もその横へと並ぶ。たまかは唾を呑み込んだ。自身の手を、そろそろと猫の顔へ近づける。猫はすんすんとたまかの指の匂いを嗅いだ。敵意がないことを示したたまかは、そのまま両手をゆっくりと猫の腹の下へと伸ばした。野生の動物らしく少し硬い感触を残す毛のさらに奥、柔らかな腹に到達すると、生きている証拠の温かさがじんわりと掌に伝わる。慎重に持ち上げて腕の中に抱き寄せると、その猫は逃げることなく、大人しくたまかの胸元に収まった。たまかは五月蠅い程どくどくと鳴る自身の鼓動で、猫を不快にさせていないだろうかと心配になった。

「良かった……ちゃんと元気になっていたんですね! 怪我の回復も良好……」

 涙が出そうな程嬉しかった。腕の中の小さな命は、灯を失うことなく救われたのだ。

「えっと……新しい外傷はなし。首輪もありませんし、目立ったようなものも特にありませんね……。財団に関係しそうなものは、何も……」

 猫を矯めつ眇めつ眺めながら、一つ一つ検分していく。全身を精査していくが、変わったところは特に見つからなかった。

 その時、猫に全神経を集中させていたたまかの耳に、冷たい銃声が乱入してきた。突然現実に引き戻された心地だった。パアン、という音は、外部の抗争にしてはやけに近くから鳴り響いていた。猫から僅かに顔をあげたたまかは、迫りくる点を視界に捉えた。……点じゃない。銃弾だ。こちらへ一直線に向かってきていた。

 たまかの顔は驚愕に歪んだが、次の行動は決まっていた。猫を抱えた身体を瞬時に捻る。なんとか背中を盾にして、一度救った命を守りたかった。こうしている間にも、銃弾は既にたまかのすぐそばへと迫っていた。銃弾を睨みつける。痛みに備えて歯を食いしばろうとして——視界を暖色の生地が覆った。……この光景には、見覚えがあった。『ラビット』の個人寮の一室、ポポの背中がフラッシュバックした。

 前の軽い身体が、僅かに踊った。たまかに襲い掛かっていたはずの銃弾は、いつまでたっても痛みを連れてこなかった。代わりに、目の前に立ちはだかった小さい背中が項垂れる。

「り……、林檎さん!」

 林檎の行動は早かった。片手で撃たれた箇所を支えながら、もう片方の手で慣れた手つきで銃を取り出す。瞬時に安全装置を外すと、そのまま銃弾が向かってきた方向へと発砲した。建物と建物の間、開けた先は住宅街を出た向こうの通りが見えており、その街路樹に隠れるようにして何か黒いものが遠目に見えた。それは動きを止め、その木に寄りかかったままだった。それ以上攻撃してくる素振りはない。相手は林檎の弾によって事切れたのだろう。

「……安心して。致命傷でもなんでもないわ」

 そう言う林檎の語尾は、少し震えていた。青白い顔に冷や汗が滲み、その手の先は溢れてきた血で赤く染まっていた。呼吸を上手く整えようとしたのか、林檎は小刻みに震える口で一つ大きく息を吸った。

「しゃ……喋らないでください。『不可侵の医師団』から担架を取ってきます。い、一回横に……」

 辛そうな林檎の前で、頭の中が真っ白になりながらもたまかは必死に口を動かした。震えが止まらない手を伸ばし、林檎の小さな身体を背中から支える。頭だ。頭を動かせ。そう思う度、苦痛に耐える林檎の表情、手から零れる真っ赤な血に視線が動いてしまう。脳裏に、ポポの動かなくなった青白い顔が浮かび、目の前の光景と重なっていく。全身を、悪寒が駆け抜ける。……駄目だ。今度こそ。今度こそ救わないと。

 儘ならない思考と身体に苦しむたまかへ、林檎が僅かに顔をあげた。こうしてみると、彼女は組織の長とは思えない程小さく華奢で、まるでガラス細工のようだった。彼女は真っ直ぐとたまかを見上げていた。

「たまかさん……、ねこが——」

 彼女の震える口が、何かを伝えようとした時。それを遮るかのように、再び銃声が響いた。その直後、たまかの身体が衝撃によって大きく揺れた。その発生源は、支えていた小さな身体だった。一度目とは比べ物にならない程の血を路面に零し、手を添えていた身体が一気に重さを増した。

「…………え?」

 つい今まで荒い呼吸を繰り返していたはずなのに、その動きが止んでいる。たまかを見上げて何かを伝えていたはずの首から先は、たまかの腕へ寄りかかるようにだらんと下がって動かない。血が彼女の制服を汚しながら、コンクリートへ次から次へと円を描いて広がっていく。

 たまかは真っ白な頭のまま、林檎の重くなった身体の正面を覗き込んだ。血で真っ赤に染まった部分は二つあった。一つは腹部。本人が言っていた通り、致命傷になるような場所じゃない。もう一つは、胸部だった。

「り、林檎さ……」

 震える口は、上手く言葉を紡げなかった。名前を呼んだ相手は、たまかの腕の中で動くことはなかった。ただ真っ赤な血だけが流れ続け、地面へと無情にも広がっていく。

 そうだ、確認をしないと。呼吸の確認、脈拍の確認、瞳孔の確認。彼女のことだ、これは何等かの策で、死んだフリをしている可能性だってある。頭ではそんなことが浮かぶのに、身体は言う事をきかず、震えるばかりで動いてくれない。

 ——怖いのだ。現実を直視するのが。

 血で染まる林檎の身体がぼやける。たまかの瞳から溢れた涙が、頬を一筋伝っていった。

「あ……」

 ——それでも、一歩を踏み出して、前に進まなければならない。そうしないと、望んだ未来は掴めないから。

 たまかはゆっくりと、動かなくなった身体を横たえた。小さな掌をゆっくりと持ち上げて、親指を細い手首へ当てる。そのあと慎重に下ろすと、掌を赤く染まった胸元へとそっと置いた。そして同じ色に染まった手を持ち上げ、最後に閉じた瞼を開かせた。その後再度瞼をおろし、人差し指と親指をそっと離した。

「えっ……!?」

 横から声が乱入してきたのはその時だった。たまかが生気のない顔をあげると、そこにはカイが立っていた。たまかと死体に釘付けになっていたカイは、二枚歯を響かせて早急に近寄った。

「ど、どういう状況ですか? ……あ」

 カイは死んだ敵対組織の長の顔から落ちた銃、そしてたまかへと視線を移した。

「もしかして、あなたが殺したんですか? 『ブルー』への手土産にするつもりで?」

 その言葉に、悪気は一切感じられなかった。彼女は純粋な疑問を口にしただけだった。

「……」

 たまかは返事をすることが出来なかった。ただ悲しさの宿る瞳で、林檎の死に顔へと視線を落とした。

「歴史的な快挙ですね……。……あれ、違うんですか?」

 たまかの様子を見て、カイは自身の憶測が違うようだと気付いたらしい。少し困ったように、ぎこちない笑みを浮かべた。たまかは鉛のように重い口をなんとか開いた。

「林檎さんが……。……撃たれ、ました。死亡確認も、済ませてあります……」

「……成程」

 カイは状況を把握すると、死体へと視線を下ろす。

「……私が口裏を合わせて、あなたが朱宮を殺したことにしてもいいですけど。どうしますか?」

 たまかは俯いたまま、ゆっくりと首を横へ振った。カイは頷いた。

「では、死体を『レッド』へ運びましょう。私が運べば『ブルー』が因縁を付けられることになるのは目に見えていますので、状況説明をしっかりとお願いします」

「……はい。わかりました」

 感情の籠っていない返事を返すと、たまかは緩慢に立ち上がった。

 空を覆い隠す一面の雲は、まるでたまかの心情のようだった。カイと二人掛かりで林檎の死体を持ち上げたとき、たまかは耐え切れず大粒の涙を流した。今の空模様を映した雨のように、しばらくそれは止むことがなかった。




***




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