第80話
「本日の『レッド』の目的、それは猫探しです。……たまかさん、どこから探しましょうか」
「いえ、実は……。……あれ?」
たまかはきょとんとして横の大きな二つの瞳を覗いた。
「たまかさんが猫の居場所を把握していないことくらい、わかっておりますよ。だから手紙にも書いたでしょう? 猫を『探しましょう』、と。『不可侵の医師団』の寮近くを中心に捜索すればよろしいでしょうか」
笑みを貼り付けたまま淡々と続ける林檎に、たまかはほっと胸を撫で下ろした。ずっと懸念していたことは杞憂だった。猫の居場所を把握していないことは、林檎には既にバレていたのだ。
「え、っと……。待って下さい。例の猫の居場所、もしかして知らないのですか?」
運転席から半身を回転させたままのカイが、困惑気味にたまかを問い詰める。責めるような視線をあび、たまかは決まり悪く両手を掲げた。
「は、はい、実は……。ですので、以前目撃した場所を中心に猫さんを捜索したいと思います。先程林檎さんが言った通り、まずは『不可侵の医師団』の寮へと向かって頂けませんか?」
運転席のカイは、盛大なため息を漏らした。「長くなりそうですね」とぼやき、前へと向き直る。エンジンをかけると、ゆっくりと車を発進させた。走行し出した車内に響く走行音は、抗争によって荒れ放題の道路を走っているにしては、静かに抑えられていた。割といい車なのかもしれなかった。
たまかはちらりと横を盗み見た。小さい花々の中から細長い装飾が垂れる髪飾りが、車の振動に合わせて休むことなく揺れていた。サイドで作られた輪っかと小顔を彩る内巻きの紅い髪は、艶やかに窓の外の光に照らされている。人形のような顔を支える首元、そして縁取られ丸みを帯びた半袖から伸びる白く細い腕。ふんわりとした足首まで覆うスカートの上に、重ねられた両手。林檎のつけている花の香りが、たまかの鼻孔をくすぐった。
(なんだか……あんまり体調が良くなさそう?)
寝不足なのか、いつもより青白い気がする。
「たまかさん」
「あっ……はい」
いきなり呼ばれて、たまかはびくりと身を竦めた。
「銀行強盗の策の件。……無事に遂行なさったのですね。僥倖です」
彼女はたまかに向けて微笑んだ。完璧で上品な笑みだった。
「あ……ありがとうございます。林檎さんの足元にも及ばないものですけど……」
「卑下することはありません。きっとたまかさんらしい素晴らしい策となっていることでしょう。必ず成功すると、陰ながら信じておりますよ」
目を細め、林檎は淡い笑みを浮かべた。たまかは思わず、疑問を口に出した。
「……なぜ私に策を練らせたのでしょう? 林檎さんが策を講じるのでは、いけなかったのですか?」
赤信号に引っかかり、車が緩やかに停止した。林檎はくすりと笑って、たまかの不安そうな顔を見つめた。
「そうですね、強いて言うならば……先程も申し上げた通り、わたしはたまかさんがこの役目を完遂すると信じておりました。だから、ですかね」
銀行強盗の実行は本日であり、まだ準備段階だ。実行部隊が漸く初期配置についた段階だろう。牽引部隊は現場近辺に到着さえしていないかもしれない。それなのに、あたかももう任務が成功したかのような口ぶりだった。
……答えになっていない。ならば、林檎が明確に答えるのを避けるのには、意図がある。
たまかは納得していないながらも、さらに問おうとはしなかった。その選択を見届け、林檎は満足そうに笑みを強くした。
信号が青に変わった。慎重にアクセルが踏まれ、徐々にスピードがあがる。
「そんなことより」
カイは全く口を挟まず、静かに二人の会話をききながら、運転に集中しているようだった。新たな話題を提供したのも、引き続き林檎だった。
「残っている謎の方は、順調ですか」
「残っている謎、ですか?」
藪から棒に、抽象的な問いかけだった。たまかは首を捻った。
「えっと、なんで財団は猫さんを追い求めているのかは謎のままですね。とりあえず猫さんに接触してみないことにはわからない感じですが……。それは今から探しに行くのでは」
「そうではありません。猫絡みではなく、解決していない問題があるじゃないですか」
たまかは顔を強張らせた。
「……。『不可侵の医師団』の襲撃事件の件ですか?」
「ええ」
林檎は薄く笑みを浮かべたままだ。たまかはこの話を、忘れることの出来ない、忘れてはならない、けれども思い出したくない記憶と位置付けていた。何せ、解決の糸口が見つからないのだ。
「あの件は……どこの組織も関わっていないという主張で、他の組織の仕業にも思えないという意見が並びました。結局、最終的には水面さんの指示に背いた『ブルー』の者達の仕業なのではないかという話になったのですが……不自然な点が多いのも事実です。……ですが、どの組織も嘘をついているようには感じませんし、あれ以上の推理の進展は難しいです。水面さんが内部を探ってくださってはいるようですが、あれから進展の報告はありません。半分、迷宮入りの状態です」
「そうですか」
淡泊にそう返し、林檎は青白い手を口元へとあてた。細い指には、胼が出来ていた。
「時に、たまかさん」
「はい」
「あの日は雨が降っていましたね」
「え? ……そうですね」
「雨は流れ落ちるものというイメージが強いですが、逆です。わたしは、むしろ雨は形跡を残すものだと思っています」
……意味がわからない。たまかは思い切り眉をよせた。
その顔を横で確認した林檎は、ふふ、と笑ってみせた。
「……着きましたよ。目的地周辺です」
カイはルームミラー越しにたまかの顔を確認しながら、声をあげた。たまかが慌てて窓の外を確認すると、見知った光景が広がっていた。『不可侵の医師団』の個人寮の前だ。
「ここからは、車を降りて猫さんを治療した場所に案内します。……林檎さんは車で待っていますか?」
「何を仰いますか。御供致しますよ」
林檎は当たり前だというように言った。
(長が護衛もつけずに、いいのでしょうか……)
そう思ったが、よくよく考えてみれば『ブルー』の長の水面は一人でたまかの隠れ家へ来ていたし、『ラビット』の長の姫月は一人でコンビニへお菓子を買いに行っていた。そういうものなのかもしれない。たまかは一人納得すると、カイが後部座席の扉を開けてくれるのを待って車を降りた。
空は厚い雲が覆い隠し、どこまでも白が続いていた。三人は車を降りた後、たまかを先頭にして見慣れた道を歩いていった。違う制服三人衆、しかもそのうち一人は顔の知れたトップということもあって珍景に違いなかったが、幸い通行人とは誰一人会わなかった。『不可侵の医師団』の建物を離れ、しばらく街路樹に沿って歩いたところで静かな住宅街へと入る。細い道を何度か曲がって歩いていき、たまかは見覚えのある角を曲がった。そこは、行き止まりだった。白い塀と飾りのついたフェンスを両脇に携えた、駐車場にすら使えないような狭いデッドスペース。あの日と同じ光景が広がっていた。ただし、猫の姿はなかった。置きっぱなしにしてしまった傘や紙袋の残骸も見当たらなかった。
「ここです」
たまかは立ち止まり、隅を見下ろす。あの日の赤黒く染まった三毛を思い起こしながら。後ろのカイが、軽く辺りを見渡した。周りにも、猫の姿はなかった。
「では、しばらくこの辺りを探してみましょうか」
「はい」
林檎の提案に、たまかは振り向いて頷いた。ここからは、地道な作業となる。小動物の捜索なんて、簡単なものではないだろう。けれど、着用している白い制服が汚れるのだって、厭わない。
「見つけ出して……猫さんの元気な姿を確認しないと!」
「そうですね」
鼻息荒く意気込むたまかに、林檎はにこにこと肯定して頷いた。カイは一人、「目的が変わっていませんか?」と言って胡乱な目を向けた。




