7話 峠の向こう
この国の中部と東部を隔てる山脈の峠を登り切った場所で、杏はホットワインを飲んでいた。いくつかの香辛料と薬草を入れてアルコールを飛ばしたもので、体が温まる。
空は曇天で、ちらちらと雪が舞っている。
杏達がいるのは開けた場所で、眼前には日本では滅多に見ることのない地平線が広がっていた。
周辺で休憩をとっているのは、ライヒ商会ではなく、義勇軍の兵士達だ。
ライヒ商会とは、元々峠の入り口までの契約だったらしい。
治安の関係でそれより先に行きたがらない商会に代わり、義勇軍が後を引き継いだ形になる。
山越えをすると言っていた三人は無事に着いただろうか。
そんなことを考えていると、一人の兵士から声をかけられた。
「特別技……ん? なんかちげぇな。まぁいいや。姉ちゃん、なんか凄い人だって? 何ができんだよ」
「えっと、団長から不用意に使うなと止められてまして……」
「いいじゃねぇか少しくらい。団長いねぇんだからバレねぇって」
「えっと……」
対応に困った杏にエドガーが助け舟を出した。
「おい、新人困らせてるんじゃねぇぞ。ジーク副官からも止められてんだよ。ほっとけ」
その言葉に、兵士は「げっ」と面倒くさそうな顔を浮かべて去っていく。
「すみません、ありがとうございます」
「こんぐらいいいって」
「……団長より効き目のある、そのジーク副官って何者ですか?」
「クソ真面目な堅物野郎で団長の金魚の糞」
「はぁ……」
エドガーの説明に、ますます人物像が謎になっていく。
「この峠を下りたら、もう東部だ」
と、エドガーが真面目な口調で話し出す。
「この辺りの土地は奪い返したし、定期的に巡回もしているが、敵に襲われる可能性はゼロじゃない」
「はい」
エドガーに合わせて真面目な口調で返したものの、杏はまだ現実感が湧かないでいた。
「あれがオレらの目的地、オボクグール砦」
エドガーが平地の右手側にぽつりと建っている灰色の塊を指さす。
「あそこが義勇軍の拠点になっているんですよね?」
「そうだ。兵士とか他の奴らならともかく、お前があそこから他の砦に行くことは、まずないだろうな」
エドガーは指をオボクグール砦から、左側に移す。
杏から見て少し左側には、城壁で囲まれた街がある。
「この峠をぐにゃぐにゃ曲がりながら下っていって、あのハンデルの街で一泊」
エドガーは再び指を右側に動かしながら話す。
「その後はほぼ平地をずーっと行って……まぁ明日の夕方には着くだろうな。
必要な物があればハンデルで買っとけよ。ま、あんまり品揃えねぇんだけど」
「昔は中央との行き来も盛んで、東部一、栄えていた場所なんですよ」
そう言ってユゼフが会話に入ってきた。
「そんなこと言うと、団長が『俺の領地の方が』って言い出すぞ」
「ふっ、栄えていると言っても、種類が違いますよ。ズウォティスキ領は確かに穀物地帯で豊かですが、品揃えに関しては間違いなく、ここが一番です」
そんな会話に、杏は引っかかりを覚えた。
今のエドガーの言い方と、ユゼフが口にした『ズウォティスキ領』という単語。
カミルと出会った時、彼は同じような音の姓を名乗っていなかっただろうか。
「……団長のフルネームって、なんでしたっけ?」
「は? ……カミル・ズウォティスキ、だな」
杏は血の気が引いていくのを感じた。
「え…………団長ってもしかして、領主様、的な? え、偉い方、でした?」
「お前今更かよ!!」
エドガーが大声で叫ぶ。
周囲の兵士からの視線が痛い。
「だ、だって、そんな話に全然ならなくて…………」
道中カミルと話す機会はあった。
けれどそこでの話題は、小さい頃森でラズベリーを山ほど獲って服を汚して怒られたとか、漬かりすぎたザワークラウトがどうにも好きになれない、といったことばかりだった。
「え、じゃあ……アイツが王族の血を引いてるのも知らない?」
「はい?」
「王族。アイツの母親、国王陛下の妹君」
「え?」
「まぁ一応、本人は王位継承権放棄してるけどな」
なんとなく身分が高そうだとは思っていたが、思った以上にやんごとなき方だった。
杏が絶句していると、とある兵士がニヤつきながら近づいてきた。
「姉ちゃん、もっといい情報教えてやるよ」
兵士は顎でエドガーを指す。
「そいつ、貴族だぞ」
杏は耳を疑った。
初対面の女性の部屋を物色し、人の鞄を乱暴に揺らす男が、貴族?
「えっ!? 嘘でしょ!?」
「お前、何一番驚いてんだよ!!」
――――――
「団長の姓を聞いた時の反応で察するべきでした。思い込みに囚われて必要な説明を怠るとは、私も王宮のことを言えませんね……」とユゼフに謝られ、簡単な説明が始まった。
「そうですね、まず……。団長は、ズウォティスキ領領主の嫡男です」
「というと、団長のお父様が領主ですか?」
「そう、ではあるのですが……」
ユゼフは一度口を閉じ、息を吐いて再び話し出す。
「十一年前、ズウォティスキ領が隣国に侵略されました。当時、この一帯では数年にわたり凶作が続いていたので、それが理由でしょう。
侵略を受けた際、領主様も領都にいらっしゃったのですが――」
ユゼフは再び口を閉じる。今度は、すぐに口を開くことはなかった。
続きを引き継ぐようにエドガーが話し出す。
「侵略された時に色々あって、特に領都周辺が酷い有様らしくてな。状況的にもう……」
珍しく濁した説明だと、杏は感じた。
「だからアイツが『領主』を名乗ってもいいんだ。
でも、父親の現状がわからない、治めるべき領地もない。こんなの『領主』とは言えないって言い張っててな」
エドガーは肩をすくめた。
杏は視線を平地に移した。
「ズウォティスキ領はどこにあるんですか?」
「そうだな……。
まず、この峠の下にあるのがポドヌースキ領。その南側がウォヴィエツトフォツキ領。
この二つの領の東側にあるのがズウォティスキ領だ」
杏は、地平線の向こうを見ようと目を細めた。
「……遠い、ですね」
「まぁな、でもそれがオレらの最終目的地だ」
ふと杏の脳内に、カミルと出会った時に浮かんだ疑問が蘇ってきた。
「そういえば、どうして義勇軍なんですか? この国には軍があるのかと思っていたんですが……」
「国は、ここを取り戻すつもりはありませんよ」
ユゼフが吐き捨てるように答えた。
彼と出会って、初めて聞く声色だった。
「正確には、積極的に動くつもりはない、でしょうか。今回の謁見で多少の支援は取り付けられましたし」
「な、なんで……」
「この山脈で、馬車が通れるような道はここだけなんです。放っておいてもこれ以上攻め込まれることはないと判断したんでしょう。
実際、攻め込まれていません」
国から見捨てられた、ということだろうか。
そんなことがあり得るのだろうか。
いや、あり得るのだろう。けれど心が理解を拒んでいた。
「……こ、国王の妹さんが嫁いだ領地なんですよね?」
「妹といっても、異母妹です。奥方様の母君は侍女でしたから」
「で、でも、穀物地帯なんですよね? 大事な土地じゃ……」
「……昔の話です。今のあの地に、かつての生産力はないようです。もうここは、国にとって不要の地なんですよ」
自虐的な笑みを浮かべたユゼフに、杏は何も言えなかった。
おまけ
杏「ま、まさかユゼフさんも……」
ユゼフ「いいえ、私の生家は少し裕福なだけの普通の家ですよ」
エドガー「代々ズウォティスキ家に仕えてきた文官家系が普通なわけねぇだろ」
杏「」




