24話 木苺と噂
朝、杏が鏡の前で髪をとかしている後ろで、ハンナがゾフィー指導のもとでベッドを整えていた。
「あ、そうだアン様」
「こらこら、お仕えする方には作業の手を止めてからお話しなさい」
「はーい」
ハンナはシーツから手を離し、杏のもとへ歩み寄る。
「副団長が、今日はまず木苺を乾燥させてほしいって言ってました」
「そうなの? ……確か収穫時期ってもうちょっと後じゃなかった?」
「一昨日の嵐でたくさん落ちちゃったみたいですよ。ダメになる前に干し果物にしちゃいたいって言ってました」
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「うわ……」
杏は用意された木苺の山を見て声を漏らした。
屋外に設置された簡易天幕の下に、大人が背負うような大きさの籠二つに木苺が山盛りになっていた。
その籠を挟むように、二人の男達が座っている。
「おはようございます。凄い量ですね」
杏は、マルコと先日前線から戻ってきた魔導士に声をかける。
「おはよう、君の分はそっちだよ」
マルコが、机の上に置かれたボウルいっぱいの木苺を指差した。
杏が食材に魔力を流す事は、基本的にない。
「ソイツが魔力流すと味が濃くなる? 馬鹿野郎! いつでも同じ味を届けるのが俺らの仕事だ!」という料理長の一言で、杏に食材を扱わせる案はなくなった。
ただし、病人や体力の落ちた者向けの食材は別だ。
マルコが指差したその分が、『特別食』という扱いになる。
「なんだよ。そいつはそれだけかよ」
面白くなさそうに言う魔導士にマルコは「上の人間の決定だよ」と返す。
杏は、「すみません」と小さく謝り作業を始めた。
「オレらだけですか?」
「テオは前線の方行ってるし、他の魔導士も今君だけだよ」
黙々と作業する中、二人の会話はどうしても聞こえてしまう。
「え~。じゃあ二人で? この量を? マジかよ」
「マジだよ。ほら、口じゃなくて手動かしな」
「あ~あ、魔栓症になりてぇな」
「滅多なこと言うもんじゃないよ」
「本気じゃないですって。てか、上の人達は? あの人達も魔導使えるじゃないですか。それなのに雑用はオレらだけかよ」
魔導士の言葉に、この場にはいないと思っていた人間が答えた。
「副団長は今はお忙しい」
「ジ、ジーク副官!?」
魔導士は慌てて立ち上がり、礼をする。
マルコや杏も座ったまま、挨拶をする。
こういう時、自分もだいぶ医療班に染まってしまったと杏は思う。
けれど自分はこの作業を早く終わらせて、回復薬を作らなくてはいけないのだ。
仕方ない。
ジークベルトは一人立っていた魔導士を座らせ、自身も籠の前に座る。
「私は急ぎの仕事はない。手伝いに来た」
「あ、ありがとうございます」
杏はちらりとジークベルトの様子をうかがう。
顔色もいいし、元気そうだ。
ヘンリクが戻ってきてから彼の健康状態は改善しつつある。
もう観察も必要ないだろうと思いつつも、既に癖のようになってしまっていた。
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自分の担当分を終えた杏が医療区画へ向かっていると、ジークベルトから声をかけられた。
彼は周囲を見まわしてから、杏の護衛に少し離れているように命じた。
今までずっと杏を避けていたのに、何故。
杏は怪訝そうな顔を浮かべた。
「その、不躾な質問だというのは重々承知ですが……」
と、彼にしては珍しく言い淀む。
「貴方が……私を、その……『狙っている』という噂は事実でしょうか?」
「はい?」
「貴方が私を『狙っている』という噂は事実でしょうか?」
ジークベルトはそう言っただろうか。
まさか彼自身の口からその噂を聞くことになるとは思わず、杏は固まる。
「それが誤りであれ、真実であれ、私と技官殿の立場上、あの噂を放置するのは、双方及び軍の秩序を保つ上でも好ましくありません。今火消しをさせております。また事実だった場合、お伝えしたい事が——。技官殿?」
この男は、その噂が立ったのは誰のせいだと思っているのだろうか。
ジークベルトを事あるごとに見ている自分のせいだろうか。
それも、誤りではないだろう。
だが、カミルに頼まれなければそんな事をしなかったし、そもそもジークベルトが自分の体調管理を怠っていなければこんな事にはならなかった。
しかも、ジークベルトが杏を避けていなければここまで噂も大きくならなかったのではないか。
「技官殿? どうされました?」
噂の原因を作った男に真偽を確認され、杏の体はふるふると震えた。
「違いますけど!!?」
杏はそう叫び、護衛を連れて医療区画へと向かうのだった。
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「……という事がありまして」
その日の夜、カミルはジークベルトから事の顛末の報告をされていた。
「話の続きを、と思い呼び止めたのですが、聞こえなかったのか、意図的に無視をされたのか……。今は冷静に話のできる状態ではないと判断し、木苺の乾燥作業へ戻りました」
あの噂が二人の耳に入った時、ジークベルトは最近彼女に観察されているとカミルに言ってきた。
カミルはそれに、自分が彼女にジークベルトを気にかけてほしいと頼んだと答えた。
それをお願いした事に関しては色々と言われたが、彼女の行動の理由自体には納得した様子だった。
だから、それでその話は終わったと思っていたのだ。
それなのに、何故。
「なんで、わざわざ本人に……」
「ですので事実確認をと思いまして」
「噂が本当だったら何を言うつもりだったんだ?」
「訂正と、お断りを。そもそも私は家督を継ぐつもりはありませんので、私と婚姻しても侯爵夫人にはなれません。それに、現時点で彼女には何の爵位もありません。侯爵家の人間と婚姻するには、彼女は残念ながら不相応です」
「うん、うん……それは、まぁ……」
カミルは目頭を揉みながら尋ねる。
「で、でも本人は噂を否定したんだろ? 納得したか?」
「…………九割方は」
「…………残りの一割は?」
「人は図星を突かれると怒りを露わにする事があります。彼女も、普段の様子からは想像もできないほど怒って——」
「待て待て待て!」
カミルは片手を上げて制止した。
「それはお前があんな言い方したからだろう!? 第一、ほら、お前の事が好きなら、それを聞いた時照れたりしそうだが……どうだった?」
ジークベルトは手を顎に当て、記憶を辿る。
「…………照れては、いませんでした」
「ほら」
「ですがそれは私に恋愛感情を抱いている事についての反証材料であり、私との婚姻を望んでいる可能性は捨てきれません」
「お前さぁ……」
カミルは机に突っ伏した。
「そんな事考えるタイプじゃないだろ、彼女は」
「お言葉ですが——」
ジークベルトは不出来な上官をたしなめるような口調で続ける。
「彼女の立場は非常に不安定です。私との婚姻で地位の確立を望んでいたとしても不思議ではありません」
「わかった、わかった!」
この状態のジークベルトにはいつもの調子で言い返しても無駄だ。
完全にカミルが間違っている前提で話を進めてくる。
「……仮に、仮にだ。仮に、彼女にそういう思惑があったとしよう。……なんでお前なんだ? 一番親しそうなのはエドガーだし、地位の高さで言うなら、俺は現国王の甥だぞ? 一応」
「………………確かに、そうですね」
ジークベルトは目を瞬かせ、何かを考えているようだった。
「……納得、してくれたか?」
「はい」
「それは良かった……」
カミルは天井を仰ぎ、呟いた。




