序章・最終話 無色の始まり
家の中は、静かだった。
いつもと同じはずの空間。
だが。
空気だけが違う。
重い。
言葉にできない何かが、そこにあった。
アルトゥスは、ゆっくりと口を開く。
「……母さん」
母親が顔を上げる。
その目は、すでに分かっているようだった。
「……行くのね」
問いではなかった。
確認だった。
アルトゥスは頷く。
「……ああ」
短い言葉。
だが。
それだけで十分だった。
沈黙が落ちる。
母親の手が、わずかに震える。
「……危ないのよ」
小さな声。
だが。
抑えきれない感情が滲んでいる。
「レオンも……そうだった」
その名前が出た瞬間。
空気がさらに重くなる。
「……分かってる」
アルトゥスは静かに言う。
「でも」
一歩、前に出る。
「行かなきゃいけない」
母親は首を振る。
「……違う」
声が震える。
「行かなくていいの」
「もう、誰もいなくならなくていいの」
アルトゥスは黙る。
その重さを受け止める。
そして。
ゆっくりと言う。
「……兄さんを、連れて帰る」
母親の目が揺れる。
「それだけだ」
世界じゃない。
使命でもない。
ただの、家族の話。
「……必ず戻る」
母親は言葉を失う。
そして、崩れるように座り込む。
「……どうして」
涙がこぼれる。
「どうして、あなたまで……」
アルトゥスは動かない。
逃げない。
「……約束する」
静かな声。
だが、強い。
「絶対に帰ってくる」
その時。
「……行ってこい」
低い声が響く。
父親だった。
「やることがあるんだろ」
アルトゥスは頷く。
「……ああ」
父親は言う。
「なら、行け」
そして。
一言、付け加える。
「――明日な」
その言葉で、空気が変わる。
アルトゥスの目がわずかに揺れる。
母親も顔を上げる。
父親は続ける。
「今行っても変わらん」
「準備して、考えてから行け」
現実的な言葉。
だが。
優しさだった。
アルトゥスは少しだけ息を吐く。
「……はい」
セリーナが静かに頷く。
「その方がいいですね」
母親は涙を拭う。
まだ不安は消えない。
だが。
ほんの少しだけ、落ち着く。
「……明日なのね」
アルトゥスは頷く。
「……ああ」
短い答え。
その夜。
誰も多くは語らなかった。
だが。
それぞれが考えていた。
これからのこと。
失ったもの。
そして――
守るべきもの。
夜は静かに過ぎる。
クウが、そっとアルトゥスのそばにいる。
ぴたりと寄り添うように。
アルトゥスは目を閉じる。
迷いはない。
だが。
重さはある。
それでも。
進むしかない。
朝が来る。
その時。
すべてが動き出す。




