第072話 異変
あれだけ青々と広がっていた新緑のカーテンも、今や折り重なるように降り続けている白い悪魔の重みに敗れて消え果て、溶けぬまま増えるばかりになった地面は白く染まり、もはやそこが元畑だった片鱗すら見せてはくれない。あれから一ヶ月降り続けた雪は、森から全ての色を奪い去っていた。
村人たちの住居も雪を処理し続けなければ押し潰されてしまうほどの量に襲われ、今や次の作付の準備すらままならぬ有様だ。
「よもやこのようなことになろうとは……。もしハク殿やリッケ殿が収穫までの日程を前倒しして作業を進めていなければ、今頃我々は冬の食料不足に怯え、食糧庫の前で震えるばかりの毎日となっておりましたぞ」
猫族の族長の言葉に皆が静かに頷いた。しかし彼の言葉はあながち嘘ではなく、仮にピルピル草の収穫がなく今の状況に陥っていた場合、ハクイモのみを頼りにして春を待つことになっていた。備えだけでいえば十分な量ではあるものの、不測の事態を考慮するとまだまだ心許ないのも事実。だからこそ今回の収穫前倒しによる成功は、本当にナイスプレイだったと言わざるを得なかった。
「何を仰います。それもこれも、俺やリッケさんだけでなく、皆さんの知識や努力、そして少しの運が味方してくれた賜物なんですよ。間違っても俺たち二人だけの成果……なんて思わないでくださいね!」
いやはや情けないと笑う族長たち。しかしそれに水を差すように、近くで耳障りな音が響いた。どうやら音源はマーロンさんの持ち物のらしく、彼女は眉をひそめながら、胸元に手を入れた。
「マーロンさん、それって……?」
「ああ、……ギルドからの緊急招集だ」
ギルドカードが激しく警笛を鳴らし、周囲に緊急事態を知らせていた。対外的にAランクの冒険者であるマーロンさんのもとには、緊急度に応じてギルドからの呼び出しがしばしば発生する。これまでも度々呼び出されることはあったが、これほど激しく緊急性を知らせる音が鳴ったことはなかったみたいで、珍しく彼女が狼狽えていた。
「こ、これ、Bランク以上の冒険者を緊急招集する呼び出し音だ。マズいよ、どうしようハク!?」
本来のランクはCであり、しかもこのところは農作業にかかりきりで、鍛錬が疎かになっているせいもあったのだろう。分厚い雲の掛かった薄暗い寒空の下、種族のプライドすら忘れて縋った彼女は、無様に醜態を晒してしまう自分の姿を想像して頭を抱えていた。しかし反対に何も事情を知らないリッケさんは、そのおかしな状況にしばし頭を傾けていた。
「貴女はAランクの冒険者なのだから、特に問題ないように思うのですが……、何か特別な理由でも?」
俺は仕方なくリッケさんにこれまでの事情を説明し、彼女が置かれている状況を伝えた。これまでの経験から一瞬で全てを察してくれた彼女は、「別に思い悩むことなどないじゃありませんか」と俺の背中をパチンと押した。
「それなら村長さんを連れて行けばよろしいかと。村のことは私たちでやっておきますので、お二人はさっさと行って、さっさと用事を済ませてきたらよろしいですよ」
うるうる瞳を潤ませリッケさんの手を握ったマーロンさんは、「そうさせてもらいます!」と即決し、俺の意見など聞かずに「すぐ参ろう!」と手を引っ張った。本当のところを言ってしまえば、最初からそのつもりだったんだけどね。
「じゃあ少しだけ町へ行ってきます。雪の処理など大変なことは重々承知してますが、どうか村のことをお願いします」
任されますと手を振ってくれた村人たちに見送られ、俺たちは雪降りしきる森の奥地を出発した。町へと続く道はあえて整備しないままにしていたのが仇となったか、未熟な冒険者ではまず無事で済まないほど荒れに荒れており、微かな視界すら奪ってしまうブリザードに加え、降り積もった大量の雪、そして延々と続く深い森たちが、俺たちの行方を阻んでいた。
「これは酷いな。こんなところで遭難したが最後、まず無事に生きて帰ることはできないだろう。町から我が村に到達するだけでも、最低でもC、いや、それ以上の冒険者ランクでなければ野垂れ死んでしまうぞ」
「ですかねぇ……。少なくとも目を瞑って魔力感知して走れるくらいじゃないと、苦労するのは確実かもね。ところでマーロンさんや、『Cランク以上でなければ』とか格好つけて言ってますけど、貴女様はずっと俺に『お姫様抱っこ』されてるだけに見えるんですけど?」
「そ、それは!? た、たまにはいいでしょ……。こんなことでもないと二人きりになれないし、ゴニョゴニョ……」
「は〜い? なんですって? 何か言いました〜?」
「う、うるさい! はぐれる可能性を考えると、こうするのがベストと言ったのはトアじゃないか!? と、トアは黙って私を運べばいいの!」
「ハイハイ、わかってますよ♪」
背の高い木々の天辺を碁石を蹴るように抜けていく俺たちは、最高速でモリスの森を駆けていった。しかし俺たちが思っていた以上に森の状態は悪く、一番積もっていた谷の底などは30メートル近くになる背の高い木々が埋まってしまうほどで、この異常気象の凄まじさをまざまざと物語っていた。
「私たちも長年この森に住んできたけど、族長ですらここまで酷い雪は初めてだって。本当に何もなければ良いのだけど……」
などと嫌~なフラグを立てたがる彼女の額にチョップし、「余計なことを言わないの!」と注意しながら高く飛び上がる。雲の上からなら多少は見通しも良いかなと思ったものの、あまりに分厚い雲は天井すら見当たらず、俺たちは改めてこの状況のマズさを思い知らされていた。
通常なら半日もあれば楽々到着できる道程を丸二日半かけて踏破した俺たちは、一面雪景色になった平原を抜け、いよいよ町へと近付いた。しかし近付くにつれその異様さは勢いを増し、町の景色が見えてきた頃、その疑念は確信に変わった。
俺たちが見たもの。
それはいつもの活気で溢れていたはずの町が、全ての色を失い、生き物の息吹すら掻き消されたような、惨たらしい姿だった。