第058話 ある者の懺悔
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多くの生き物が眠りにつく夜半過ぎ。
しかしある者は、わざわざその時間に目を覚まし、行動を開始する。
誰もいない夜の森を、ただひたすら静かに、音も立てず歩く者がいる。
野生というものは、本当に面白い。
一度明確に良いと感じたものを忘れることなく、再度明確に繰り返そうとする。
それは知恵ある者ほど忠実に、再現性を模索したうえで再び実行しようとするものだ。
当然それは、あの夜あのゲージを訪れた者にも言えることだ。
あの夜、一体の野生が触れた非日常は、
その者にとって、あまりにも甘酸っぱい経験だったのだから……
クンカクンカと鼻を鳴らす彼は、あの夜と同じ匂いをまた感じ取った。
自分だけがわかるあの独特の匂いが、鼻の奥にある嗅細胞に反応し、身体を突き動かされる。本能に抗うことは難しく、彼の身体はまたひとりでに、野山を駆け回っていた。
二山先からでも匂い立つ、あの芳醇な香り。
いつもは一ヶ所に留まることなく、恐ろしい速度で跳ね回り続けるアイツなのに、ただ成す術もなく、身動きすら封じられ、同じ箱に留まっている。それは素早く動けない彼にとって、思ってもいない好機、絶好のチャンスだった。
地面の感触を確かめるよう一歩一歩確実に歩みを進めるその性格は、実直そのもの。なんの迷いもなく、ただ目的のためだけに、ゆっさゆっさと揺らした身体は大胆不敵。しかしその存在を闇に紛らせながら、不敵に目だけを輝かせている。
開けた空間が目の前に。
彼は周囲を警戒し、敵がいないかを確かめた。
ここで捕まってしまえば、あの濃厚な匂いを近くで感じることはできなくなってしまう。
絶対に失敗することはできないと、緊張しながら息を飲む。
目的の場所は、怪しい建物が並んだ一角の外れにある。森と建物の境に建てられた、小さなカゴの中だ。暗闇でも利く目と鼻が、明確にあそこだと伝えていた。カサカサと動くあの生き物の息吹と、お尻の先から分泌している甘い液の匂いが鼻の奥を柔らかにくすぐっている。居ても立っても居られずバリバリと腹を掻きながら、彼はいよいよ動き出した。
周囲に人影は……、ない。
モンスターや、生物の匂いもしない。
風下に身を隠しながら、彼は重たい腰を上げ、次の影元へと移動する。絶対に足音を立てぬよう、そして絶対に一処に留まらぬよう、自分にできる全速力で向かうのだ。
もう少し、あともう少し。
もう少しで、あのとろけてしまうほど香り高く、芳しい旋律の一節が自らの手に。ハフハフ口を動かさずにはいられない。ぐるぐる胃を動かさずにはいられない。脳を巡らせ想像せずにはいられない!
意を決して、彼は最後の角を曲がった。
この先にアレがある。
愛しい彼女に会うように、一歩一歩確実に歩みを進めた彼は、あの夜と同じように、グッと伸ばした震える指先でゲージの端を握った。そしてさらに力を込め、愛しき彼らの姿を拝むのだ。
それは、無数に燦めくダイヤモンド。
それとも俄に輝くサファイアか。
焦る両足が地面を離れて空転し、何もない空気の壁を蹴ってしまう。
もはや自分の欲求を止めるものはどこにもいない!
しかし興奮の坩堝に達したとき。
そんなときが生物にとって、最も危険なタイミングとなり得るのだ。
彼がゲージを覗き込んでテンション最高潮爆上がり!
……となったその瞬間、誰かが彼の肩をトントンと叩いた。
「泥棒は犯罪ですよ……」、と。
急転直下、彼は慌てふためいた。
肩を叩いた何者かは、光源を自らの顔へ向け、まるでバケモノかのような笑みを浮かべている。
永遠に思えるほどフフフフフフと「フ」を繰り返したそのバケモノは、
ギンギンに見開いた化け猫のような眼を押し出し、
舐めるように彼のことを見つめている!
顔、そして身体、指先、手、足、そして最後にまた顔、と。
そしてバケモノは、細い指先をゆらりと動かし、彼の鼻先にちょんと触れ、「く、くくく、フヒヒヒヒヒヒヒヒャヒャヒャ!」と、壊れたように笑い始めるではないか!
硬直する全身の筋肉。
これが恐怖に支配されたものの末路か!?
あれだけ楽しみにしていた匂いすら感じなくなり、抵抗する気力はもう浮かばない。
蛇に睨まれた蛙とはこのことで、見上げた先でチロチロと動いている敵の舌先が、今にも自分を食い殺さんとしているようで、彼は思わずぽすんと尻もちをついてしまった。
「可哀想に、そんなに怯えてしまって。さぁ、どうしてくれようか、泥棒さん?」
ヌッと伸びるように広がる影。
驚嘆し、見上げたバケモノの姿は、彼の身の丈の三倍はあるだろうか。
長い髪を振り乱し、ヒヒヒと繰り返す耳障りな笑みに加え、手にした鋭利な物体はバケモノの武器だろうか。荒くなっていく呼吸を止められず、彼は仰向けに仰け反り、ついには倒れてしまった。
このまま腹を貫かれ、串刺しにされる。
彼は自分の不幸な未来を想像してしまった。
しかしそれもこれも、自身が招いたものだ。
自分は虎の尾を踏んでしまったのだ。
絶対に踏み越えてはならぬ領域に、足を踏み入れてしまったのだ、と。
いよいよ覚悟した彼は、そっと目を閉じた。
背後に光源を背負ったバケモノに見下され、成す術もないままに――
「……って、怯えきってるじゃないですかリッケさん。そんなに虐めるものじゃないですよ、……意地悪だなぁ」