9. 温泉に入ってそばを食うだけの、ハッピーな休日
本日は月に一度の入館料半額デーということで、目的地の温泉施設「クアハウス碁天」は地元民でごった返していた。だが、威圧感のある芹沢さんの周りには自然と人が近寄らない。体臭がアレなせいもあるかもだけど……ゲホゲホ、何でもありません。
脱衣所で脱いだ芹沢さんのボディは、まさに鋼。銃弾も弾きそうなみっちりとした筋肉で、一切の無駄なく引き締まっている。もう周囲の男たちの注目の的だった。
男にとって最強のファッションは筋肉だっていう説は本当だったんですね。一生付いて行きますぜ兄貴!
「いい身体してるねえ兄ちゃん! 何かやってたのかい」
「特になにも」
ビール腹の陽気なおやっさんに話しかけられても、芹沢さんはスポーツ歴を自慢するでもなくクールに返した。嘘つけ、きっと真冬の北海道でヒグマと格闘して鍛えたに違いない。
相手してもらいたいのか、おやっさんはなおも絡んでくる。
「にしても、山形はいいなあ! 全部の市町村に温泉があるなんてとこ、そうそうねえよなあ!」
「無理やり掘ってるだけですよ。北海道にも温泉はたくさんありました」
どうも芹沢さんは、誰が相手でも本音をずばっと言ってしまうタイプのようだ。山形愛に溢れたおっさんの話をばっさり否定し、さっさと浴場に向かった。
モヤシどころかそうめん並みのひょろひょろボディを持つ俺だが、芹沢さんの横にいるだけで何だか気が大きくなった。雄大なる筋肉のご加護を感じる。見るだけでご利益がありそうだ。
俺たちは湯気に包まれた大浴場に足を踏み入れ、軽く身体を洗ってからお楽しみの温泉に向かった。じゃぽんと熱い湯に肩までつかると、昨日から蓄積されていた疲労が全身から一気に抜け出てていった。
「あー、効く効くぅ~」
温泉大好き。足を伸ばして満喫していると、芹沢さんも俺の横で温泉に足先をつけた。どうやら熱がっているようだ。ぎっしりした筋肉のせいで体温が高いのだろうか。
「やっぱり風呂が嫌いなんですか?」
「いや……どちらかといえば、風呂に入る習慣がないから必要性を感じない。以前働いていた山小屋では水が貴重だったから、一か月に一度下山したときにしか入浴しなかった」
い、一か月に一回! ありえない風呂の頻度に引っくり返りそうになる。
でもお湯に浸からないと、身体の脂分とか老廃物が落ちなさそうだ。俺は多少ぬるくなっていることを期待し、露天風呂に芹沢さんを誘った。湯気で曇ったガラス戸を開けて外に出ると、冷たい外気が容赦なく俺の身体に襲いかかってきた。
「寒っ……おお、最高のロケーション! いえーい、見てるか最上川あー!」
解放的に開けた視界に、吹き抜ける風。松尾芭蕉もリスペクトした雄大なる川の流れ。今まで入ってきた中でもかなり上位にランクインするナイスビュー露天風呂だ。
興奮して目の前の最上川に向かってピースする俺に、芹沢さんはおかしそうに目尻にしわを寄せて苦笑した。
「天見は変わっているな」
「え、変わってませんよ」
「いや、こんな何もない辺鄙な土地で農業を始めたがる奴は、大抵変わっている。ましてや住み込みで、その歳でとなると相当変わっている。何がお前をそうさせたんだ?」
俺は芹沢さんと並んでほどよい温度の露天風呂に浸かりながら、人生哲学的な問いに首をひねった。
何で農業なんだ、俺? コンビニバイトでも工場のラインで働く人でもなく、なぜ農業? 体力も根性も無いくせに、どうして肉体労働の仕事に就こうと思ったんだ?
「何ででしょう。あー……やっぱり、楽しいから、ですかね?」
「楽しい?」
芹沢さんは眉をひそめて聞き返してきた。おそらく農業の酸いも甘いも噛み分けてきたが故に「お前みたいな初心者の若造に何が分かるんだ」と感じているのだろう。俺は鏡のように空の色を映す湯の表面に視線を落とし、しみじみと昔を思い出した。
「はい。俺、小学生の時にお花係だったんです。花瓶の水替えたり、花壇に水やったり。それで、ホースでわーっと水をかけたら虹が出て。花がきらきらして見えて。その時、すごく綺麗で、楽しいなって」
小学生の頃は色々なことがあったはずだが、なぜかあの場面だけは昨日のことのように鮮明に憶えている。俺は昔から役立たずで、周囲の空気が読めないノロマだった。昼休みに同級生同士の遊びの輪に入れてもらえなくて、寂しさを紛らわすために花の世話ばかりしていた。
照りつける日差しの下、雑草を抜いて、枯れた花弁を一つずつ取って。乾いた地面に水を注いだとき、自分の心まで潤っていくような気がした。たぶんその時、自分の手で植物を育てることに楽しさを見出したんだろう。
「あと、花とかの植物って、差別しないのがいいです。誰の前でも綺麗に咲いて、俺の前でだけ枯れたりしないですし。俺の悪口、言ったりしないですし。こんなどうしようもない俺のことも癒してくれて、もうほんとに、大好きなんです」
大切な恋人に愛の告白をしたようで照れくさい。でへへー言っちゃった、とにやけまくる。人様から見たらさぞやキモいことだろう。本音をさらけ出したのが気恥ずかしくて、芹沢さんの顔をまともに見ることが出来ない。黙って俺の話を聞いていた彼は、しばらくして声を発した。
「……そんなに花が好きなら、花卉農家に就職した方が良かったんじゃないのか?」
「あ、いや、でも食べることも同じくらい好きですから! もうぶっちゃけ花より団子です。お野菜最高~!」
俺はおどけて両手を天に突き上げ、野菜愛を叫んだ。ゆくゆくは、花と野菜を一緒に育てる農家になれたらいいんじゃないかとひそかに夢見ている。
……ん、俺今『夢』っつったか? 元ひきこもりニートの、親に迷惑かけまくりの人間のクズが、『夢』? 少し前までなら考えもしなかったことだ。俺も少しは変わってきたってことか?
「天見、例えばお前はどんな花が好きなんだ。オレは山に生えているものなら知っているが、店で売られているような花のことはまるで知らない」
「あ、それ聞いちゃいますか! いいですよー、まずはサイネリアですかね。こう、青とか白色の花がボールみたいに集まっててですね、これがもう何ともいえず華やかで、俺が入院したら持ってきてほしい花のトップ10には絶対入ります!」
裸の付き合いで心がほぐれたのか、俺はのぼせるまで好きな花の話題で盛り上がった。
小さい頃は一人で大騒ぎしながら話しまくる俺に、ばあちゃんが「またとうまくんの漫談が始まったねえ」とにこにこ顔で付き合ってくれたっけ。
本当は俺、人と話すのが好きなのかもしれない。学校に通っていた頃は、一日中誰とも話さない日の方が多かったってのに。今では誰かに話したいことが溢れて止まらない。これって、すごい変化だ。
結局俺はのぼせて気絶するまで喋り続けていたらしく、事務室の救急簡易ベッドの上で意識を取り戻した。うう、気持ち悪ぃ……せっかくの休みの日に何やってんだよ、俺!
気合で体調を整えた俺は、芹沢さんと共に地元で人気のそば屋に立ち寄った。
出てきたのはいわゆる昔ながら田舎そばで、うどんみたいに太いそばを濃いつゆにつけて食べると、がつんとくるそばの風味が感じられた。何というか、「そばを食べる」というより「そばとがっぷり四つに組んでぶつかり稽古する」と表現した方が良さそうだ。
初めて出会った強烈な味にカルチャーショックを受け、俺はあごが疲れるほどそばを噛みしめた。
「昔、この店に来た関西人が怒って出て行ったらしいぞ。『こないな割り箸みたいに固いそば、食われへんわ!』とかなんとか言っていたそうだ」
「へえー……まあ、食の好みって人それぞれですからね。山形のそばと関西のそばなんて、全然別物だと思いますし。ちなみに新潟のそばは、もっと緑色でヌルッとしてますよ」
「……それだけ聞くと、あまり美味そうに感じられないな」
とんでもない、新潟のへぎそばは一食の価値ありですぜ。つなぎに海藻を使っているので、奥ゆかしい海の香りがするのだ。思い出しただけで故郷の味が懐かしくなって、涙がこみ上げてきた。
芹沢さんとささやかな会話を交わし、俺は山形のそばとのぶつかり合いを制した。まことに天晴れであった、お前こそ我が最高の好敵手。ごちそうさまでした。
昼食の後は、芹沢さんのすすめで山村市の道の駅に行くことになった。お土産を買うわけではなく、今が旬の野菜を直売所で勉強するためである。
到着してみると山村市の観光拠点というだけあって、平日でも駐車場には観光バスや県外ナンバーの車が何台も停まっていた。道の駅の建物自体は小さめだが、中は売店や食堂が充実しているらしい。
「赤根農園の野菜も、ここで売っているんですか?」
「いや、今は出荷していない。震災があってから観光客も減ったからな」
芹沢さんは淡々と言って、道の駅の外にある直売所へ歩いて行った。屋根はあるがもろに寒風があたるため、全然買い物客がいない。お客さんは皆暖かい屋内にいるのだろう。
敵情視察みたいで申し訳ないが、ちょっと商品を見させてもらおう。見たことがある野菜はスルーして、俺は初めて目にした野菜のことを芹沢さんに聞いてみた。
「さっき車から見えたんですけど、この『青菜』ってそこらじゅうの家の前に積み上がってましたよね? 何なんですか?」
青菜、と聞くと大抵の人がほうれん草や小松菜を連想するだろうが、俺の目の前にある青菜はビニール紐で大量に束ねてあって抱き枕みたいな大きさなのだ。おそらく六十センチはある。茎が肉厚で見るからに歯ごたえがありそうだ。
「『あおな』じゃなくて『せいさい』だ。収穫したら軽く日干しして、漬け物にする。どこの家でも食べられている山形の在来野菜だな」
「へえー、赤根さんの家でも漬けますかね?」
「いや、大体の農家は漬け物をつくるが、あいつの家は一家全員が面倒くさがりだから一切やろうとしない」
なんだ、食べてみたかったのに惜しいなあ。農家は忙しいから仕方がないか。
気が付けば俺たちの横からやって来たおばあさんが、青菜と大根五本セットをお買い上げしていった。この時期のお年寄りは、漬け物用に大量の野菜を買い込んでいくようだ。
「じゃあ、この細長いかぶも漬け物用ですかね」
商品棚にはひょろ長い赤かぶが並んでいる。葉が付いていて、こちらも十本くらい束になっていた。スーパーでは中々お目にかかれない豪快な売り方だ。
「そうだな、山形ではこういう大根みたいなかぶはよく見る。オレは調理法に詳しくないが、麹漬けか甘酢漬けにして食べるそうだ」
どの野菜も漬け物アンド漬け物である。最近の若い人は自宅で野菜を漬けたりするのだろうか。俺だってせいぜいきゅうりを塩もみするくらいだし、一から浅漬けを作れと言われても絶対無理だ。ナスや白菜の漬け物は大好物だから作りたい気もするが。
しばらく品物を見て回った俺たちは、さすがに何か買っていこうと話し合った。これだけうろうろしておいて買い物しないなんて、直売所の人もいい気がしないだろう。
「天見、くぢら餅食べるか」
「く、くじら?」
くじら餅、鯨肉が入った餅? とんでもないゲテモノかと思って表情だけで拒否の意志を示すと、芹沢さんは変顔する俺を鼻で笑った。
「鯨は入ってない。くるみの入った餅菓子だ」
レジの横で売られているくぢら餅は、ようかんのような形をしていた。醤油と黒砂糖が練り込まれているらしく、色もこってりした茶色だ。家で焼いて食べるものらしい。
俺は今まで日本のことは大体知った気でいたが、聞いたことのない食べ物がまだたくさんあるんだなと思い知った。ソフトクリームやから揚げのような全国区の軽食ならどこのコンビニでも買えるが、地方の直売所にはミステリアスな未知のお菓子が隠されている。見識が広まったというか、遺跡を発掘したような刺激的な体験だった。
「お客さん、くぢら餅見るの初めて? 良かったらここで食べてく?」
「え、ここでって……いいんですか?」
俺が明らかに県外から来たように見えたらしい。店員のおばちゃんが、餅を焼くためにレジの後ろにあるストーブを貸してくれた。包丁で餅を切り分けてもらって、アルミホイルを敷いたストーブ上にのせた。俺と芹沢さんは暖を取りつつ、背中を丸めてお礼を言う。
「すみません、お邪魔して」
「いーよお、どうせお客さんいねえべし」
やはり俺が痩せっぽちの欠食児童みたいな見た目だから、お情けをかけてもらえたんだろうか。レジのおばちゃんは、芹沢さんの腕をたたいて声をかけてきた。
「赤根さんとこの人だべっちゃ? もう野菜持って来ねえんだか?」
「そうですね。あまり競争が激しくなると他の農家の方に悪いですから」
「なーんだず、いつでも持って来ていいんだべ。遠慮しねえで」
「いえ、うちは若い人手がそろってるので。体力のある内はなるべく遠くの方に売りに行きます」
そうか。高齢の農家さんは遠くまで野菜を売りに行くのはきついから、直売所が大事な販売場所なんだな。俺は焼きたての甘じょっぱいくぢら餅を味わい、芹沢さんの言葉に深く頷いていた。するとおばちゃんは俺にも話を振ってきた。
「そうそう。このへんの地域ではね、後継者がいる農家は、あたしが知ってる中で八軒くらいしかねえの」
「え、それだけですか……?」
反応が追い付かない。山村市は畑と果樹園だらけの農業地帯なのに、跡を継ぐ次世代がそんなに少ないとは思いもしなかった。どこの家庭も子どもは別の業種に就いてしまったのだろうか。
このままじゃ世紀末がやって来るぞ! 俺の脳内では、荒れ果てた田畑の上をモヒカン頭のバイカー集団が走り回っていた。
「んだから、赤根さんとこの優ちゃんが頑張ってくれてて嬉しいのよ。いつ頃お嫁さんもらうんだべかねえ。いつでも女の子紹介すっから、ちゃんとあの子に言っといてね」
それが目的で俺たちに話しかけて来たのか。うきうきしているおばちゃんには悪いが、優ちゃんこと赤根さんは今のところ女性よりトラクターに興味があるようなので、お見合いより農業機械の展示会に連れて行った方が喜びそうだ。
草刈り機なんかを撫でまわして「かわいいよ、かわいいよお」とうっとりしている姿が目に浮かぶ。いや、さすがにそこまで変人じゃないか。
直売所を後にして赤根家に帰った俺たちは、夕食時に赤根さんの好みのタイプについてお伺いを立ててみた。ボケないように対象は女性に限定させてもらった。
「やっぱ、おれより賢い子がいいなあ。クールビューティで気が強い感じの。何事も一歩先でリードしてほしいよね」
「ああ、いいですねー。甘えてダメ人間になりそうになったら、叱ってほしいですね」
「あと、おれの家を見ても泣かない子ね。『こんなに貧乏だと思わなかった』とか、『なんで水洗トイレがないの? リフォームするよね普通』とか言わない子。おれが一時間くらいかぼちゃの話しかしなくても飽きないでついて来てくれる子」
「なんでそんなにピンポイントなんですか? 実体験ですか?」
「その通りだよ! 君みたいな恵まれた家庭で育った子におれの苦しみは分かんないだろうねえ!」
日本酒ですっかり出来上がっている赤根さんは、紅潮した顔をぐしゃぐしゃにしてちゃぶ台に突っ伏した。外見がいいからモテそうなのだが、あまり女性に対していい思い出がないようだ。俺はもう一つ、気になっていた質問を投げかけてみた。
「あの、昔から気になってたんですけど……農家の人が自分の子どもに農業を継がせるには、どうすればいいんですかね?」
「ふっふっふ、それにはコツがあるんだよ」
意外にも赤根さんは答えを知っているようだ。俺が高校生時代から抱いていた疑問を解決してくれるなんて、何て頼もしい。知恵のない俺は息を飲んでベストアンサーを待った。
「子どもに『農家を継げ』って絶対に言わないことだね。どうせ反発されるんだから。それで、小さい頃から畑や直売所で楽しい体験をさせる。おれは〇才児のときからこういった英才教育を受け、囲い込まれるように農家になりました」
「ほあー、なるほど」
「おれは学歴も技術も社会経験もない未熟者だけど、農業のノウハウだけはある程度持ってるから。正直これしかできる仕事がなかったんだよなあ」
きゅうに自虐的になった赤根さんは、涙をこらえるように目をつぶって天を仰いだ。
気の毒だが、赤根さんはきっと農家の星の下に生まれた運命の人なのだ。俺はアルコールを帯びた空気に酔いつつ、親身になって励ました。
「元気出してください、赤根さんは市内でも十本の指に入る若手農家じゃないですか」
「……微妙な褒め方だなあ。もっと他のやつちょうだいよ」
「うう、えーと、山形の星! 立派な背中! しびれるなあ~」
「リスペクトが足りないよ、もっと本気出しておれを褒めて!」
俺はちょうどいい褒め言葉を次々にひねり出して赤根さんをヨイショした。上司の機嫌を取るのって大変だなあ。命令に従って、俺は赤根さんが寝るまで子守唄がわりに美辞麗句を並び立て続けた。




