四章・2
面会謝絶。
病室の前に下がるそんなプレートが、今のカズヒトの姿を現していた。
誰もいない隙を見計らって、ユノエはこっそりと病室に忍び込んで――そのまま、動けなくなっていた。
いつか広いグラウンドを駆け抜けていたしなやかな身体は、見る影もない。
そこにあったのは、何本ものチューブに繋がれて命を繋ぐ、痩せ細った身体だけだった。
紅空もまた、ユノエと同じように衝撃を受けていた。
(俺の身体……俺の、俺の――!!)
走りたい。死にたくない。でも、このまま人形でいたい。ユノエと離れたくない。――ユノエを、狂気に突き落としたくはない。
様々な思いが紅空の中で交錯していく。心が引き裂かれそうだった。
ユノエは動かない。いつもと同じように、ただそこに立ってカズヒトを見下ろしている。
けれど、いつもとは違った。
「紅空」
ユノエが腕の中の人形の名を呼ぶ。その唇が、微かに震えていた。
「わたしは、馬鹿ね」
ぽつり、ユノエが呟く。
「いい気になってた。紅空を作って、それでこの人を理解できた気になってた。少しだけでも、この人の心を自分のものにできたと思ってた。……本当に、馬鹿だったわ」
一歩。ユノエが、眠っているカズヒトに近付く。
「そんなの、ただの自己満足じゃない」
ユノエの言葉が、腕の中の紅空の心に響いていく。
「わたしが本当に望んでいたのはそんなことじゃない。……わたしが好きなのは、笑ったり、怒ったり、走ったりしてる工藤くんだったんだって、ようやく分かった」
瞬間、紅空は理解した。
ユノエはもう、二度と狂気に囚われることはないだろう。
知ってしまったのだから。
狭いあの部屋の中では知りうるはずもない、残酷なほどに圧し掛かる、この世界の現実を――。
(……あれ、変だな)
ユノエの心が、徐々に歪みをなくしていく。その過程を何よりも待ち望んでいたのは、他でもない紅空だったはずなのに。
「工藤くん……和人、くん……」
初めて、ユノエはカズヒトの名前を呼んだ。
「お願い……」
その声が、だんだん潤んでいく。
(聞きたくない)
直感的に、紅空はそう思った。
自分は人形ではなく、人間なのだと。紅空はそう分かっていたはずなのに。
なのに――。
「もう、人形で人の心を手に入れようなんて思ったりしないから……」
(――やめてやメてヤめテヤメてヤメテ)
まるで警鐘を鳴らすかのように、頭の中をそれだけが駆け巡っていく。
「お願い、和人くん。目を覚まして」
ただただ、心が痛い。
身体が、引き裂かれそうなほど痛い――!
耳を塞ぎたくとも、ユノエの腕の中で動くことはできない。
何故なら自分は人形だから。製作者に、動けることを気取られてはいけないから――。
人形。
耐え切れないほどの苦しみで朦朧とする紅空の頭の中に、その言葉だけが残った。
(違う……俺は、人間、だ……!)
ぎゅっと手を握り緊めようとしても、どうしても動けない。人形であるという事実が、紅空の行動を妨げている。
今、紅空の中では『カズヒトである』意志と、人形としての本能がせめぎあっていた。
本当ならば今すぐにでも、自分の成すべきことを果たしたいのに。
「お願い、和人くん」
紅空の頬に温かいものが落ちる。それは、ユノエの涙だった。
「もう、わたしは……」
ユノエが、カズヒトの傍らに屈み込む。
紅空が人形としての本能を押さえ込むのも、そろそろ限界だった。
(俺は、ユノエの人形でよかったよ)
心の中でそう呟く。けれど、それがユノエに届くことはけっしてない。
「もう……わたしは、紅空を、あなたの代わりに愛したりしないから――」
(――っ!)
紅空の全身を、想像を絶する痛みが襲う。
――ぱりん。
耳の奥で、何かが割れる音がした。
それと共に、紅空のすべてに圧し掛かっていたすべてのものが、ふっと消え去ってしまう。
(ああ、今のは……)
……自分が、壊れた音だ。
『紅空』という人形の意思が、粉々に砕けてしまった音だ。
今、この瞬間。紅空は、ユノエに必要とされなくなったのだ。
自然と力を失う身体に任せて、紅空はユノエの腕を抜け出していく。
(架涼もこんなに苦しかったんだろうか)
紅空はふと、見たこともない自分の仲間のことを思う。
生まれてから、一度もユノエに必要とされなかった人形。そうして、自分で自分の命を、絶って――。
(……ああ。架涼の方が、俺よりももっとずっと、苦しかったんだろうな……)
ユノエは気付かない。ただ涙を流し、カズヒトを見つめているだけだ。
紅空の視界の中、ゆっくりとユノエが遠くなっていく。
後悔はしていなかった。
少なくとも紅空は、ユノエに幾ばくかの希望を与えることができるのだ。
自らの死による救いの兆し。
それはこれ以上ないほどの幸福と、不幸。
相反する二つの感情が、冷たくて美しい身体を満たしていく。
最後にもう一度、紅空は呟く。
「……」
心電図の音が響くだけの静かな病室で、それでも耳を澄まさなければ聞こえないほどの小さなささやきで。
たった一人の幸せを願いながら、紅空はゆっくりと目を閉じる。
視界が暗闇に包まれる寸前、ベッドの上の人影が微かに身じろぎした気がした。
けれどそれは、今の紅空にとって大したことではなかった。
紅空はいなくなる。カズヒトは目覚める。ただ、それだけだ。
それだけの、ことだ――。
あいしてるよ、ユノエ。
かちゃん、と微かな音を立てて。
「……紅空?」
ひとつの人形が今、その命を失った。