四章・1
本当は多分、心のどこかで分かっていたのだ。自分が人間なのだと分かっていた、そのときと同じように。
ユノエが、紅空という人形を見ていなかったことを。
時おり胸に沈む、重く鈍い痛みは、きっとそれを表していたのだろう。
(いや、正確には違うか……)
紅空は苦笑して首を振った。
ユノエは紅空を見ていなかったのではない。紅空を通して、他の誰かの影を追っていたのだ。
今なら分かる。ユノエが紅空の中に誰を見ていたのか。誰を、求めていたのか――。
「……また僕の友人がいなくなるんだね」
隣に腰掛ける紫闇が、そう呟く。抑えられた声から、感情が覗くことはない。
「ごめん、紫闇」
紅空は申し訳なさそうにそう言ってから、次の言葉を繋ぐ。
「でも、もう決めたんだ」
紫闇は、ふっと苦笑した。
「紅空、君は強いね。あの人はカズヒトの走りの中に、その強さを見ていたんだろうか」
紫闇の瞳が柔らかな光を帯びる。その手が、そっと紅空の頬に触れた。
「君は人形の本能に逆らおうというんだろう? 自分の手で、自分の身体を壊すと」
「……うん」
紅空は申し訳なさそうにうなずく。
ユノエはおろか、紫闇までも悲しませる方法だと、紅空は充分に承知していた。
けれど、ユノエが見せる狂気を少しでも断ち切るには、そして紅空がカズヒトに戻るためにはこれしか方法がなかったのだ。
「俺はユノエに、日の当たる幸せを感じて欲しいんだ。だから、少なくとも俺はユノエに必要ない。……そう思い切るのは、少し辛かったけど、な」
「人形はすべからく、製作者を愛するものだと言っただろう? 製作者に必要とされない人形が幸せなわけがない」
現に、架涼は自死を遂げている。織は壊れ、壊された。
「そして人形は誰もが、製作者の幸せを望むものさ。……きっと、君が人形で、それでいてカズヒトだからこそ、そんな結論を出すことができたんだろうね」
「紫闇……」
「お別れだ、紅空。僕はあの人の幸せがこの部屋にあると信じている。だから、君と共に行くことはできない」
紅空にも、それは分かっていた。
だから紅空は、思いっきり紫闇の身体に抱きつく。
ひんやりとした肌と柔らかな髪。上質なベルベッドの生地がとても心地よい。
紫闇は驚いたようだったが、紅空を咎めることはせず、軽くその背中を叩いた。
「さよなら、紅空」
「……さよなら、紫闇」
人形は涙を流せない。よかった、と紅空は心から思った。
ここで過ごした期間はけっして長くはなかったけれど、そのほとんどを共に過ごした相手だった。
色々なことを懇切丁寧に教えてくれて、突然、自分が人間なんだと言っても、丁寧な助言をくれた相手だった。
紅空はゆっくりと紫闇から離れて、元の体勢に戻る。
「おまたせ、紅空」
紅空が落ち着いてまもなく、ユノエは部屋に戻ってきた。明らかに真っ青な顔をしていた。
やはり、ユノエの言葉は嘘なのだ。
紅空という人形では、本当に心に想っている相手の代わりなどできない。たとえそれが、想う相手を元にした人形であっても。
ユノエはテーブルの上にちょこんと座る紅空を抱き上げて、紫闇の頬に口付ける。
「……じゃあ、行ってきます。お留守番よろしくね、紫闇」
その声が震えているのは、誰が聞いても明らかで。その姿に、いつかの狂気を見出すことはできない。
けれど。カズヒトが死ねば、きっとユノエは壊れてしまう。
(……だから、その前に)
紅空は、汗ばんだ手のひらから伝わる、ユノエの体温をしっかりと心に刻み込む。
紅空をしっかりと抱きしめて、ユノエは部屋を出た。
閉まっていくドアの向こう、紫闇がぱっちりとウインクをしたように見えたから、紅空も片目を閉じる。
それが、紅空と紫闇の最後の交流だった。
***
ドアが閉まっていく。
お別れの挨拶は済ませてしまったから、片目だけつぶってみせた。ドアが閉まる直前に相手も同じことをしていたように見えたのは、けっして幻や見間違いでないと思いたい。
これでお別れだ。
そう思うと――笑いが止まらなかった。
くすくすと、忍び笑いが部屋中に響き渡っていく。
「さようなら、紅空」
不気味なほど優しい声で、紫闇は紅空の名前を呼んだ。おもむろに立ち上がると、手近にあったシャープペンを掴む。
「僕は一度たりとも」
と、紫闇は上着をめくり上げると、白い腹を露出させた。
二本の切り傷が痛々しいそこに、紫闇はためらいもせず、ペンの先を突き立てる。
人形に五感はない。故に、紫闇は表情ひとつ変えることなく、自らの腹に傷を増やした。
「……君が、本当は人間なんだと信じたことはないよ」
伏せた瞳。長いまつげが顔にかげ翳を落とす。
不意に、すぐ近くに置かれた箱の中から、オレンジ色の影が覗いた。レーヴェだ。
「お前が自分から僕の前に姿を見せるのは珍しいね、レーヴェ。……紅空が心配かい?」
レーヴェがうなずく。その動きがいつもとは比べ物にならないほど早いことに、紫闇は苦笑する。
「紅空は二度と帰ってこないよ。だから、その醜い姿を二度と僕の前に晒さないことだ」
紅空の描く紫闇の姿からかけ離れた言葉。レーヴェは慌てて箱の中へ姿を隠した。
「よくもその姿で、あの人に愛され続けているものだね。少しは恥を知ったらどうだい?」
慌てふためくレーヴェにくすりと笑い、紫闇はテーブルの縁に腰かける。
後はここで待っていればいいだけだ。
紫闇の願いは、絶対に紅空が叶えてくれるのだから。
「紅空……君がもし本当に人間なら、あの人はもう一度明るい笑顔を取り戻してくれるかもしれない。けれど、君が人間でなくて、カズヒトが目覚めることなく君が壊れたとしても――」
紫闇の口の端が、微かに上がる。
「あの人に愛される人形が、また一体減るだけだ」
製作者の幸せも、愛されることも、人形として至上の喜びに他ならない。
「……この腹の傷の分だけ、あの人は僕を愛してくれるんだ」
共有した痛みの数だけ、愛は深まっていく。
――だから。
「さようなら、紅空。君のことは、けっして嫌いじゃなかったよ」




