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本格推理評  作者: sinsin
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本格推理評 本格ミステリーアチーブメント

今回は、包括的に「本格推理のアイデンティティ」について解析します。

 ヒーローものなら「バトル」という魅力があるように、推理小説には「謎を解く」というカタルシスがある。そこが好きかどうかでこのジャンルのファンになるかも左右してしまう、そんな作品的独創性の強さを持つのが「本格ミステリー」という分野である。「ミステリー」に他の要素を取り込み、その両方の観点で評価できる作品には文句はないし、逆に「ミステリーは本来のテーマを盛り上げるための要素」として薄く扱うことも間違っていない。また、「本格ならでは」の雰囲気とか、「本格だからこそ」の意外性とかに対し、鼻に付いて嫌がる人がいたとて、それでなければ作れない領域があるのも確かなのである。排他的に言ってしまったが、ミステリーに限らずどんなものであれ「それはそれ」という部分が根幹にあるということ、幅広い人に楽しんでもらう本格ミステリーを創るならなおのこと「それはそれ」にきっちり向き合うべきだと言えることから、一般の人が思う本格ミステリーへの疑問から本格ミステリーの価値を考えたい、これが本稿の意図である。


伏線と読者への理解

 「ミステリーにおける伏線」を考える時、大きな問題を抱えたものとして「叙述トリック」が挙げられる。「読者がAさんだと思っていた人が、実はBさんだった」というような「言葉の綾」的なトリックのことである。この場合、「登場人物は読者と同じように驚くことはできない」という特殊性が絡まり、「サプライズのポイント」に関しては(内容から作者に「伝えて」もらうのではなく)読者自身で感じ取らなければならないという欠点になる。ミステリー以外におけるこれを回避する例として、『シティーハンター』などの北条司の漫画では、人物が二人以上いる場面でコマを分け、そのコマごとに注目してほしいキャラにスポットを当てる、という方法を取り、北条が得意とする心理描写を際立たせている。この「コマの分割」と比較すると、叙述トリックを扱ったミステリーの表現は、ある種の「不親切さ」を内包していることが分かるだろう。「手がかり」にもそれと同じことが言える。いちいち「何ページの何行目に書いてあることが、探偵の推理の根拠になっている」というように解説することはほとんどなく(映像では「回想シーン」という手があるが)、「ああ、あそこに書いてあったことから連想して状況を把握しなければいけなかったのか」と読者に気付かせる構成が基本となっている。

 「意図を考察して分かること」というのは、少なくとも娯楽の観点で言えば微妙なものでもある。頭をからっぽにしても楽しめる、という要素が弾かれている以上、ミステリーは排他的な側面が強調されてしまう。要は「分かる奴だけ分かればいい」をコンセプトの時点で貫いてしまっている。その排他性をそのまま受け入れるか、或いは「ここにこういう手がかりが……」ということをできる限り描いて分かりやすくするか、この二つの方向性で本格ミステリーの将来が大きく分かれていくだろう。筆者としてはどちらでもいいと思う。拙文「アリバイ講義・補論」にて、「「アリバイ工作らしく」ても「アリバイ工作として華」でない」ということを書いたが、ミステリーというジャンルの根本に「手がかりでトリックなどを暴いていく」という物理的構成がある以上、その「謎と手がかり」だけで作品を評価できると言えるのではないか。だから「トリックらしいトリック」なども単純に評価できるし、「表現としての美しさ」的な芸術面(と思われる)の評価と相対的な意味で「ミステリーとしての文学性」を「謎と手がかり」に集約してもいいのではないか。最近はテロップの情報量が多すぎるバラエティに批判も多いのだから、ミステリーのこの方向性から、「メディアの在り方」という範囲まで考え方を広げていいはずだ。

 とはいえ、あまりにもここがストイックになって、「ミステリー初心者お断り」だけを賛美するのはやりすぎではある。カプコンの『逆転裁判』が「ライトゲーマー」にも推理ゲームを広めたように、「何がどう魅力的なのか」を誰にでも発信する心がけは必要だ。


「読者との距離感」「犯行手段とご都合主義」

 エラリー・クイーンが発明した「読者への挑戦」。「ここまでのページに全ての手がかりがある」と読者に宣言するこれは、まさに「本格」を目指す作家にとってこの上ないお手本であり、多くの作家が自身の作品に取り入れている要素である。

 一方で、この「読者からの挑戦」という要素から「読者との距離感」というミステリーの問題点も見え隠れする。有栖川有栖『マレー鉄道の謎』で、解決編にてあることを「深く考える必要はない、犯人のミスだろう」と片付けていることがある。この作品では手がかりから考えて「そう考えられなくはない」というレベルに達していたが、「謎として強調しているのに“犯人のミス”だけで片付けていいものか」と思われなくもない。読者にしてみれば、着目点として作者との温度差を感じてしまうのである。このあたりに関しては、作家がきっちりと「読者が納得できる」手がかりを提示しなければならない。犯行の状況から「犯人は結構ズボラな人物だ」「突発的な犯行で色々考える暇もなかった」ということが分析できなければ、「犯人のミスだと考えられるもの」とかもはっきり分からない。

 また、映像表現としてのドラマ・印刷媒体である漫画でのミステリーでは、人工的に作った小道具の状態とか、漫画家の手で描いた画だとかが目に付くと、「スタッフがリアルなものを作れなかっただけなのか」「細かいゴミのようなものは印刷ミスなのか」という部分までミステリーのリアリズム論が及んでしまい、先述したような細かい手がかりに納得しきれない時もある。揚げ足取りに近い話ではあるが、実際に『金田一少年の推理ミス』という、重箱の隅を扱った所謂「謎本」で、『金田一少年の事件簿』のある事件の「畳に関する作画ミス」から、金田一一の推理の疑問点を分析している。そういう表現も敏感に評価されるジャンルが「本格推理」なのだ(この「媒体による魅力」は後程詳しく書く)。

 この部分で言うと、所謂「ご都合主義」は、本格ミステリーにおいては「作者側にとって不利なこと」と言えるだろう。つまり、普通は「都合よく現れた設定によって物語としての面白みが減る」とされるご都合主義がミステリーに表面化すると、「都合よく現れた設定が不自然に強調されることによって、読者に手がかりの目星を付けられる」のである。文学として「読者とのコミュニケーション性」を踏まえても、本格ミステリーは「探偵役の考察で終わったとしても、謎の解決を読者に伝える」ことで成立する(=サスペンス小説とかと違う部分がある)と思っている筆者は、「謎解き重視の本格ミステリーは低級」とする意見には賛同しない。「読者への挑戦」は、そういった文学性から胸を躍らせるものがあるのではないだろうか。


「犯人」の役回りとは?

 古典文学では『西遊記』、ヒーローで言えば『科学忍者隊ガッチャマン』、ドラマで例を挙げれば『ショムニ』などのような“集団”を扱う作品では、孫悟空や大鷲の健、坪井千夏のようなリーダー格だけが明確な主人公としてキャラを確立し、仲間はどちらかというと「サポート的な準主役」という立ち回りをすることが多い。寧ろ、経典の持ち主であるお釈迦様だとか、大鷲の健と意外な繋がりがあったレッドインパルスだとか、庶務二課を目の敵にする秘書課の杉田美園とか、そういうキャラの方が「主人公に太刀打ちできる、もう一人の主人公」的なレベルの存在感を持っているケースの方が割と一般的である。

 話し手・探偵の助手を務めるワトソン役と、事件の根幹を握っている犯人にも、これと同じようなことが言えまいか。物語のキモである「事件」の根幹を握る(というか当事者)である「犯人」は、雑多な脇役の中に紛れていながら、真実が明るみに出た時、その事件の「主人公」の役割を与えられることになる。読者に語りかけ、状況を説明するワトソン以上に、その存在感は大きいと言える。これは、本格ミステリー、もとい「何かの出来事」を扱う作品でのみ成立させられる要素である。

 そして、「謎解き」のための手がかりを集め、論理的に事件を解決していくことで突き止めることができる真犯人は、読者に鮮烈な印象を残す「その場限りの主人公」であると断言できる。犯人側から描く「倒叙形式」の場合も、ストーリーの根幹が「如何にして探偵に追いつめられるのか」ということに集約されるため、よりその存在感が高まる。事実、『刑事コロンボ』『古畑任三郎』が倒叙形式の連続ドラマミステリーとなったのも、スター俳優が無理なくミステリーに登場し(俳優の知名度で視聴者が犯人に目星を付けてしまうのを防ぐ)、ギャランティも制作予算を圧迫せずに配分できたからである。また、セガサターンのアドベンチャーゲーム『金田一少年の事件簿 星見島 悲しみの復讐鬼』(ハドソン)は、「プレイヤーが殺人犯になって(!)、探偵役である金田一一を欺く方法を推理する」という異色の作品で、これもミステリー作品のキモである“事件”に関わるという形でプレイヤーとのコミュニケーションを高め、金田一少年と対決する「犯人」の存在意義を追求した快作である。その犯人の役回りに、ミステリーという作品の魅力もある。解決篇で探偵に指され、今まで他の登場人物と同じ「脇役」だったその役割がランクアップする瞬間には、「謎解き」の文学的面白さの醍醐味もあるはずだ。


トリックの意義

 「不気味の谷」という概念がある。確証がある理論ではないが、人間に近いロボットなどは「ロボットだから」という考えが通じないという「不気味さ」が生まれる。「杓子定規なロボット」でもなければ「人間をバッチリ再現」できてもいないその「狭間」が、人に対して不気味な印象を与えると言われているのである。分かりやすい考え方として、「美人をリアルに描こうとして気持ち悪い絵になってしまう」といった経験も読者にあるだろうが、それもこの概念に当てはまる。実はこれは、バラエティ番組で近年も議論される「やらせと演出の違い」にも通じる話で、「娯楽映像として面白くしようと仕込んだもの」が「出演者の生の感覚を見ている」と思い込んでいる視聴者に大きなギャップを与えてしまっているのである。その問題に対するテレビ局などの対応が、一般の人からしたら言い訳がましく感じるのは、このような部分によるものが大きい。非常にデリケートな話なので、簡単に何かを割り切って解決するものではないが、バラエティであれ何であれ、その不気味さを生み出す要因となっている「情報の真実味」を感じさせていることについてコントロールしようとする意識だけは持っているべきだろう。

 派手なトリックを使ったり、意外な所から偽装工作をしたりといったミステリーは、ある意味で一般の人からは「それがミステリー」と思われてしまっていることでもある。クイーンのような「ロジックの美しさ」以上に、密室やアリバイといった「不可能性」が、ミステリーを強く印象付けているのだ。「それだけがミステリーではない」とはいえ、そこだけに着目すること自体が悪いのではないのだが。裏を返せば、「トリックの実現可能性」の部分でミステリーをバカにする風潮があることも確かである。如何に派手さ・リアルさを重視していようとも、「本当にそんな犯行ができるのか」「ミステリーはこういう読者への喜ばせ方しかないのか」と冷めてしまいやすいのも事実である。そして、それが作品の「彩」としての役割を得た場合、「不気味の谷」の議論に突入してしまう。「謎を解く」遊戯性を持ったトリックが、読者の心に“リアル”として響かなければ、「実現不可能なのだから、探偵のように作品内の謎解きができない」と感じてしまう。

 以上のことから、謎解きを探偵と一緒になって楽しむ上で、細かい所でリアリティがあるのかを想像することが、トリックの魅力を大きく左右すると断言できる。「怪しげな洋館」「大都会での怪事件」といったような「ミステリーらしい雰囲気」は、トリックに「空想的」な面でのリアリティを「不気味の谷」の越えて伝えるものであり、それが現代性をやや弾いた中でのトリックの妙味を生み出しているのだと言える。


発表媒体によるオリジナリティ

 漫画などでもミステリー作品が増えている現代、筆者も「色々な形で多くの人がミステリーに興味を持つ」ことを幸せに思う。有栖川有栖などが語っているように、例えば漫画のミステリーなら「コマの隅っこに手がかりを描く」という方法も取ることができ、小説とは一味違った展開が描ける。その部分を考察する上で、少し考えておきたいことがある。

 井上ひさしは、『自家製文章読本』にて「“文”を感じさせないような文章ではなく、感じさせる文章の方がいい」といった旨の論を書いている。自他共に認める「遅筆堂」だったほど丹念に文章を書いていた井上のような人物がこう発言していることに、芸術に「写実的」なイメージを持っている若人は違和感があるかも知れないが(まあ、実際に『自家製文章読本』を読んでもらったら井上の真意は分かるだろう)、映像にだってそれは同じことが言える。2006年に発売されたゲームソフト『ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス』は、任天堂が誇るゼルダシリーズの中でも、完成度が非常に高いグラフィックが話題になった。特に、オープニングで主人公のリンクが愛馬のエポナに跨り平原を駆け抜けるシーンは、ゲームとしてもトップクラスのリアルさでプレイヤーの度肝を抜いた。しかし、この美しさは「ゲームのCGとは思えない」という美しさではなく、「グラフィックという表現を感じているから美しく感じる」というものだと筆者は考える。ゲームをあまりしない人には分かりづらい書き方をして申し訳ないが、このゲームの対応ハードであるゲームキューブやWii以降のゲーム機のソフトで、如何に現実に近づけたグラフィックを構成しても、ゲーマーの間でしか話題にならないのは(ゲームをあまりしない人は精々、ゲームキューブとハードとして同世代であるPS2の、カクカクしていない「なめらか」なグラフィックぐらいしか記憶にないのではないか)、この「映像らしい映像」で魅力の感覚がストップしてしまうからではないか。感覚がストップすることが恥ずかしいのではなく、根本的な「表現の魅力」が『トワプリ』のようなゲームの時点である程度完成しているからだと言える。それが、井上の「文章に対する主張」と通ずる部分であり、“表現”における媒体の意義が内包されている部分でもある(「不気味の谷」もここに関わってくる)。しかしながら、井上も少し語っている通り、「文章・映像“らしさ”を感じさせない」ようなものも悪くないし、表現方法として間違ったことではない。ここで言いたいのは、どうあがいても「文や映像で表現している」ことには変わりないのだから、その結果として受け手の感覚を無視して制作することは、創造として間違いだということである。

 長々と語ってしまったが、兎に角こういう所で本格ミステリーの魅力も左右される。特に映像の場合、心理的な意味での「情報量」は減ってしまう。「バラエティ番組のテロップでどこに注目すればいいのか」というようなことで伝わることが、映像の物語では表現しづらいので、「心理的情報量」と言えるようなことが薄くなってしまうのだ。寧ろ、小説や漫画のように「音もない(小説なら画すらない)状況」であれば、読者の想像力で描写された状況を補正してしまう部分もあるため、読者自身の心の中では「心理的情報量」が比較的安定している面もある。実際、金田一耕助作品の映画版とか、耕助の孫が活躍する『金田一少年の事件簿』のアニメ化された作品などでも、横溝正史や天樹征丸の原作小説・漫画に比べて、その辺がすっきりしない作品もあった。それを補う意味でも、この「媒体を感じさせる表現」を意識する必要がある。手がかりなどの描写を行っていくジャンルなので、その部分で作品の良し悪しは大きく左右されるのだから。


総括に代えて

 これまでの考察の締めとして、本格ミステリーの“これから”を考えるため、少しまた「ミステリー」自体から離れた所から分析していきたい。

「感想文と評論」について、よく言われる通り「感想文」は飽く迄感想であり、個人の感覚を自由に書いていくものである。無論、何を感じようが正解であり、自由に考え、人に伝えていい。「評論」はそこで「客観性」という感想文との違いを得ることになるのだが、単に「(筆者がよく言うように)絶対に変わらない、そのものの本質から生まれる社会的価値を考察すること」だけではなく、「“人によって好みが分かれるだろう”“こういうものが好きな人なら好きだろう”と評価する」ことも「客観的な」行為だと断言していいはずで、その意味でも「評論」はより広い視野に立ったものでなければならない。

 反面、「自分が好きではないけれど、確かにいいものだと言える」ものに対し、人は複雑な感情を持ってしまうのが常である。というか、そういうのが嫌だから、その道のプロはあまり「評論」は書かないのではないかとも思う。そんな無理をして書く必要もないだろうが。「いいものだとは思うけど……」というような、人間が個人で生まれ持った「感想を生み出す感覚」は、仕方がないにしろ勿体ない部分がある。その点に関しては、その「客観的にいい」と言える部分は認めるだけでいいと思うのだが、「本格ミステリー」を含めて、そういう感情がジャンルの未来まで左右してしまいかねない現状が、筆者としては納得しがたい。先述したとおり、「そのジャンルの初見さんお断りを突き通す」のは考え物だが、だからと言って「全ての人には受け入れられないようなことは無視する」ようでは、未来は明るくない。「万人向けではなさそう」なことも「実は面白い」と、そのジャンルに精通していない人に思ってもらえるくらいの気合が必要だと筆者は考えている。それこそ、様々な受け手の方々が書く「感想文」の中に、「こういう風に本格ミステリーを見ている人がいるのか」という発見をしていき、更にそこから「どれだけ特殊であろうと、こだわって後世に伝えていくべき」ということも見出して欲しいと、筆者は願っているのである。だから、こういう評論を書くことで、様々な人の心に眠る「感想」という反応を頂けるのであれば、これに勝る喜びはない。

 あと、近年は特にゲームで批判が多いことなのだが、作品を再販するにあたって「完全版商法」的発想になってしまうのは、少々残念に思う。「より良いものを提供できればそれでいい」と考えられなくもないが、文庫とかで新しい版が登場した際に、原本より完成度が高まって「原本を買った人は未完成の体験版をつかまされた」という状況にもなりやすい。本ならゲームと違って金銭的ダメージが少ないし、幸いにも問題になるくらい版による酷い改善があるような小説はあまりないのだが、やはり道徳的にも納得いく作品創りとして、意識はしていたい。特に本格ミステリーは、トリックやロジックという物理で「読者にも解決を促す謎」の「物理性」自体を描く分、一回謎解きを書いただけでそのネタの価値が評価されてしまうので、SFのように「昔の小説を元ネタにして新たな面白さを……」というようなことはできない。最高峰の密室トリックとも言われながら文章などの評価は低い『黄色い部屋の謎』がいい例である。「だったら第一版の時点で完成度を高くすればいい」という話ではあるが、ミステリー作家を志す人には、この部分で読者に真摯な想いを持つためにも、「捨てるような出来」な作品を時には書いてでも、より強い向上心を持っていてもらいたい。そこから、より入念な意識を持って「本格ミステリー」にしか持ちえないセンス・オブ・ワンダーが発展して欲しいと願う。

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