51.キロヒ、男子を恐れる
「次は眼鏡の一年だな。線を引け」
「は、はいっ」
クロヤハも地面に線を引く。その後すぐに、ニヂロと同じようにバリーに抱えられる。
クロヤハはメガネを見たが、メガネは明後日の方を見ている。こんな状況でも、何ともとぼけた態度を見せる精霊だ。
「バリー、一歩だ」
「……っ」
「アァー?」
彼らはとても我慢強かった。ニヂロの絞り出した声とは、あきらかに抑え込んだ音に、キロヒは感心しかけた──が。
「眼鏡の一年、ちょっと手ぇ抜いてたか?」
意外な一言を、キムニルは口にする。
「ち、違いますっ」
「そうか? 多分、あんたがさっきの口の悪い一年くらい根性出して進んだら、ここまで来られただろ?」
とすんとクロヤハは地面に下ろされる。その位置で、苦し気ではあるけれども彼は立っていた。悔しそうにうつむきながら。
「もう一回、そこに線を引け」
キムニルの声は容赦ない。むしろ容赦してほしいのなら、この実験に手を挙げるべきではなかった。それはクロヤハも分かっているだろう。
苦痛や不安を伴う行為に、怖気づくのは悪いことばかりではない。身を守る防衛本能が強いということで、行動が慎重になり生存確率が上がる。クロヤハは、キロヒより遥かにやる気がある。ただニヂロより苦痛に強くなかった。それだけだ。
クロヤハがもう一度線を引き直し、改めてバリーに抱えられた。
「バリー……半歩だ」
ニヂロの時と違い、キムニルは限界点から半歩と言った。元々、ニヂロより遠い距離だったことと、彼が苦痛に弱いことを鑑みた判断だったのだろうか。
「……っっ!」
「アアァー?」
それでもやはり、苦痛の表現はニヂロとは違う。
「もう半歩行くか?」
「……」
歯を食いしばったまま、クロヤハが頷く。バリーへの指示が、再び半歩指示される。抱えられた身体が、声は出さないもののびくんと跳ねる。
「バリー、半歩戻れ」
限界という判断をしたキムニルに戻され、地面に下ろされる。クロヤハは地面にへたりこんだ。「耐えられなければいつでも戻れ」という言葉に、クロヤハは無言で頷くだけだった。それでも彼も、後から書き直された位置から半歩。実質一歩距離が伸びた。
「さて、次は……でっかい一年」
「ワイのことだな!」
待ってましたと言わんばかりに、ヘケテが両手を振り上げる。
「ところで、ドッカは気温の環境とかあるのか?」
「ワイのドッカに暑い寒いの苦手はない! 得意もない!」
「……だろうね」
キムニルは少し楽しそうに笑った。
「ニル先輩、一歩、頼む!」
よいしょとバリーに抱えられた大きな身体。その状態で、豪胆にも希望はバリーの一歩を口にする。
「バリー、一歩だ」
「うおっ」
ヘケテの奇妙な声と、ヴヴヴヴヴヴ、と柱が震える音。何とも不思議な音の組み合わせだ。緊張感がないというか、悲壮感がないというか。
「あれ、結構平気?」
「いやー、ははははは、これきついっすね、はははははっ」
ヘケテが声とともに奇妙な笑い声をあげる。
「負荷すごそうだけどな……どうする?」
「はははははは、もう一歩! 先輩! もう一歩! はははははっ」
その姿は、どこか酩酊して笑い転げている大人の姿を連想してしまう。正気とは、少し違う場所にいるような姿。本当に大丈夫だろうかと、心配になってしまう。
「すごいな……バリー、一歩だ」
感心しながら、精霊を歩かせる。
「うっほぉぉぉ……おおおお、はっはっはっはっ」
もはやヘケテの声は言葉になっていない。目をひん剥いて口を大きく開けて笑いながら苦しんでいる様は、もはや狂気の沙汰だ。ただキロヒが安心したのは、さすがのヘケテも、その苦痛の笑いの中では「もう一歩」と言うことが出来なかったからである。
とすんとバリーにその場で下ろされる。ヘケテはまだ笑い続けながらも、そこに立ち続けている。簡単に戻れるのに、戻ろうとしない。バリーの二歩。実質四歩進んだ場所に、彼はしがみつき続けている。
陽気で難しいことが苦手なヘケテという人間が、苦痛を伴って身体を張る場面になった時にどうなるか。キロヒは、それをいま初めて見た。
「気絶する前に戻れよ……次はっ、と」
視線を巡らせたキムニルに、軽く手を挙げて自己主張したのはシテカ。
「あー、だんまりの一年な」
「……二歩で」
どんな言葉よりも、希望の距離が先に出てくるシテカ。どうしてこうキロヒの周囲には、防衛本能の蝶番を吹っ飛ばした人間が多いのか。
キロヒは半目のまま、首を横に振ってしまった。無茶は身体に悪いと言うのに。
「決めるのは僕だ」
キムニルが、無責任な人でなくて本当によかった。
ひょいと抱えられたシテカが、八本足の自分の相棒のツムギを強い眼差しで見つめる。相棒の方は一番下の爪の付いた足を、しっかりと地面に突き刺し、絶対にここを動かないという構えだ。
どうして、こんなにどっちも覚悟が決まっているのか。
「バリー、一歩だ」
「……」
「……」
確かに一歩進んだのに、シテカもツムギも声を出さない。ギンッと、その目を大きく見開いて口を引き結んだまま。
「バリー、一歩だ」
それに何の反応も見せず、キムニルが足を進めさせる。
「……」
「……」
へたりこんでいるクロヤハ。笑い続けているヘケテ。そして目をギンギンにしながらも無言のシテカ。
それらを見てキロヒは思った。
男子コワイ。




