52.キロヒ、不思議な踊りを見る
「バリー、半歩だ」
片腕にシテカを抱えたキムニルが、バリーの足で累計二歩と半分を進めようとしている。
その半歩が踏み出された時、シテカのひんむいていた目に、異変が起きる。黄玉の目が上まぶたの陰へ、一気に駆け上がろうとしていた。
キロヒは、ひぃっと悲鳴をあげそうになった。白眼をむいて、失神しかけているようにしか見えなかった。
「ニル先輩! シテカが!」
慌てて大声で止めたのは、カーニゼク。
「おっと、バリー半歩戻れ」
無言で耐え続けていると思っていたらしいキムニルが、それで進むのをやめた。
「生きてるか?」
「……」
無言だが、抱えられたままの彼は頭を揺らして見せた。意識は残っているようだ。そのまま下ろされると、どさりと尻もちをついたが、ぐぐぐぐっと身体に力を入れて立とうとする。
キロヒはこの上霊狂の面々に、すっかり怖気づいていた。正気の沙汰を故郷に置き忘れてきたのかと。
「声出さないと、僕も分からないから。ちゃんと意思表示して」
「……」
立ち上がるので忙しいらしく、キムニルの言葉はシテカに無視された。まあいいやと、彼はこちらへと視線を向ける。
「次の一年は?」
その目は、精霊と距離を取って立っている、カーニゼクとキロヒに向いていた。イミルルセは、あまりの環境の合わなさにすぐにヌクミを回収して戻っているのでここには残っていない。
思わずキロヒは首を横に振る。振りながら、そぉっと横歩きでクルリの方へと一歩ずつ戻った。森の浅い部分で、冬の寒さ。クルリの環境としては、実はそこまで悪い場所ではない。訓練するならいまだという気持ちは、ないわけではない。
けれど、あまりに壮絶な前任者たちが、彼女の防衛本能に火をつける。
「え? ちょ、え? オレしか残ってない?」
キロヒが逃げ出したことに気づくのが遅れたカーニゼクは、前方のキムニルと、後方でクルリを拾っているキロヒを見比べて、どうしたらいいか分からない顔でおろおろとした。
結局──カーニゼクの記録は半歩。
「ぐうぇえええ、もうーむーりー」
どさりと下ろされた彼は、地面に這いつくばった。彼の姿を視界に入れない優しさを見せながら、キロヒはタタンのため息は可愛いなあと思っていた。
「さて、フウリグ……どうする?」
一年の実験をひととおり終えた後、キムニルが一番遠くにまだ立ったままの自身のイヌカナに声をかける。
いつの間にか、ヘケテの笑い声は消えていた。だからといって、自分の精霊の方に近づいているわけではない。こらえるように立ってはいるが、キロヒの目からは何だか少し苦痛に慣れ始めているように感じた。他の一年生も。
少し乱れた呼吸音だけ響く森の中で、五年の特級と、五年の中級が視線を交わし合う。
「結構、キツそうだね」
これまでの一年の苦悶の全てを見て来たフウリグは、少し悩んでいるような顔をしている。この実験の「苦痛 対 効果」を考えているような顔。キロヒは、この人はまともな感性だと親近感を覚えた。
「そうだな」
キムニルも無理強いする様子はない。最終学年でいまだ中級のフウリグは、秋休暇前までの間に上霊しなければ、卒業扱いにならない。その後、五年猶予はあるけれども、同学年のほとんどが上霊して卒業するのを、劣等感無しで見ていられる人は少ないだろう。
だからこそキムニルは、この実験に付き合ってくれることになった。効果があれば、それはフウリグの上霊にも役立つのでは、と。
現時点で、本当に役立つかはまだ分かっていない。しかし「離」の、あまりに大きな個人差には、何か意味があるのではないかと考えるのが自然だ。
「じゃあ、半歩だけ……頼もうかな。半歩だけだからね」
残り期間の短さに、やはりフウリグも焦りがないわけではないのだろう。苦痛に耐えられそうな距離で、キムニルに頼んだ。
「……分かった」
そうして、フウリグの目の前にバリーが立つ。その黒い腕が、小柄な五年生の身体を持ち上げる。キロヒは、あまり苦しくありませんようにと祈っていた。自分に性質が似ていそうなので、彼に苦しまれると自分まで苦しくなってしまいそうだったっからだ。
一番遠く離れた精霊と見つめ合うフウリグ。それを抱えたバリーに、指示が出る。
「バリー、半歩だ」
「うっ」
「ばさ?」
苦しそうなフウリグのうめき声とは裏腹に、木の形に似た精霊ハッパは、その上半分を斜めに傾けた。人が首を傾げるように。
「ばっさばっさばっさ、ばっさ?」
続けて上半分を前後に振り始める。葉っぱの部分が鳴き声と同じように音を立てて、また斜めに傾く。
「ばっささばっさ、ばっさっさ」
今度は前に後ろに横に斜めに、奇妙な拍子で振り続けている。一体何をしているのか。
「ハッパ、どうしたの?」
「ばっささばっさばさばっさばばばささばばっさばさ」
返事なのか何なのか分からない、頭をぐるぐると振り回す精霊の異常な状態を見たキロヒは、クルリを抱いたまま茫然と立ち尽くしていた。
そうしていると、上部にある葉っぱがどんどん落ち始める。秋の落ち葉のように、次々と容赦なく。落ちて行く葉は、地面についたかと思うと消えた。それなのに、まだ残っている葉を落とす。もっと、もっと。
あっという間に、最後の一葉。
「ばっさばさー!」
大きな枝の一振りで、ついにはその葉さえも落ちて消える。
残ったのは、葉がまったくない冬の木の姿。
その裸の枝が──にゅうんと、伸びた。
「「え?」」
キロヒとイミルルセの声は、同時。
にゅうん、にゅうんと、鹿の角のように枝が伸びる。一本ではなく、こちらも、あちらも。そして幹も少しずつ、太く、高く変わっていくではないか。足のような根も、その太さと長さを増す。
もう両手には乗せられない、小さな子供くらいの大きさになってようやくハッパは、頭を振るのをやめた。
次の瞬間。
ぽんっと、その寂しすぎる裸の枝に一気に棘の葉が現れる。その葉の色は五色ほど。赤に紫、緑に黄色と黒。そこに小さな白い花が咲いて行く。
キロヒはここまで来ても、自分が何を見ているのか分からなかった。
「ハ……ハッパ?」
いまだにバリーに抱えられたままの、フウリグが茫然と自分の友人の名前を呼ぶ。その顔がはっと我にかえり、じたばたともがくと、キムニルが「ああ」と、彼を下ろしてやった。
「ハッパ? ハッパ?」
足をもつれさせながら、精霊の方へと歩いてくる彼に、精霊が新しく生えそろった頭を軽く前後に振って鳴いた。
「ばささー」
ようやく距離を詰めたフウリグが、大きくなった精霊を抱き上げる。
「ハッパ、色とりどりになったね。かわいいよ」
「ばさささー」
大喜びの一人と一霊を見て、ようやくキロヒは自分の見たものを理解した。
上霊だ、と。
いま彼女は、上級精霊への上霊を目の当たりにしたのである。
それは──「離」には効果があるということを、証明したということでもあった。




