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精霊士養成学園の四義姉妹  作者: 霧島まるは


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32.キロヒ、避難訓練をする

 扉を開けるとそこは──密林だった。

「……少し待て」

 ラエギーは開いた扉を再び閉めた。何事もなかったかのように。

「私の精霊を出す。驚かないように」

 振り返って告げる教師の言葉に、好奇心旺盛な生徒の目は爛爛と輝き始める。そこへ、ツヨイの巨体が現れる。多くの男子と一部の女子の目がキラキラと輝いている。精霊の外見にも、好みがあるのだろう。

 自分の精霊の名を紹介せずに、ラエギーは軽く視線で指示を出す。中級精霊では難しい対話方法だ。言葉になさずに指示ができるということは、他の人に何をしているか分からないという利点がある。

 キロヒも人前では言葉で伝えるのが苦手になるので、静かにクルリと静かに理解し合えるようになりたいと思っていた。そのためには上霊が必須になるのだが。

 ツヨイは両手で扉に触れて、そして離した。それだけ。すぐにツヨイは姿を消す。「あー」と、残念そうな声があがった。

 教師が再び扉を開けると、そこは芝生の敷き詰められた円形の巨大な広場だった。大木の中をまるまるくりぬいて作ったかのような場所に見えるが、それにしても大きすぎる。学園の全生徒数が千人くらいだと計算しても、全員余裕で入るだろう。さすがは大講堂、という名前だけのことはある。見上げると屋根裏部屋のように上まで吹き抜けになっており、光が降り注ぐ空が見えた。

 そして普通の学園の内部より、もっと身体が軽い。霊密を上げてその分、広さを確保してあるのだろう。

 キロヒたちは、既に霊層という言葉を知っている。詳細の授業はまだ行われていないが、イミルルセたちと語り合う時のお題にしたこともあって、理論は分からずとも推測はできていた。この学園という名の亜霊域器の中で、同じ場所でありながら違う空間として区切られている不思議な構造。

 それを考えると、大講堂はこの学園の建物である木の内部のほとんどすべてを、仕切ることなくひとつの亜霊域器として使っているのではないかと推測できた。さっきの密林は、この芝生の広場とは違う霊層だったのだろう。

「授業が終わった後から夕食が始まる時間まで、君たちはここを自由に使っていい……ただし、上級生も来る」

 二百人全員が大講堂へと入り、きょろきょろとしている。そんな彼らに、ラエギーがどきっとする言葉を最後に付け足した。

 上級生。指導担当という名で、四年生のイシグルとは何度も会っているが、他は遠目で別の部屋の指導担当をたまに見るくらいだった。

「この学園に来て日が浅い君たちに、上級生がつっかかってくることもあるだろう。上級生と言っても、相手は君たちと多くとも四つしか年が離れていない子供だ。万が一はないかとは思うが、この学園内部で、もしも身の危険が迫った時などの緊急避難方法を説明しておく」

 その自然な流れの説明に、キロヒは震えた。すごいと。生徒に何の違和感も不信感を抱かせずに、学園内で生徒に身を守らせる方法を教えようとしているのだ。フキル(除名者)のことがなければ、キロヒもまたそのあまりの自然さに、裏側にある意味を感じ取ることもできなかっただろう。

「君たちは、学園の壁か床あるいはここのような地面のどこかに、指輪で触れなさい。そして強く『助けて』と願いなさい。声に出さなくても大丈夫だ。そうすれば君たちは、この学園(・・)に助けられる」

 それは、理にかなった助けを求める方法だった。

 壁際に追い詰められた時。床や地面に倒れ、あるいは倒された時。声が出せなくても、指輪と意識さえあれば助かる道がある。

「午前の授業は、ここの案内と緊急避難のやり方で終わりとなる。一度試しておいた方が分かりやすいだろう。座って地面に触れ、助けを求めてみるように」

 ラエギーの号令に、好奇心の強い人間からさっそくしゃがみ込む。慎重な者は、隣の人との距離を気にして少し離れる。もっと慎重な者は、先にしゃがみこんだ者がどうなるか見守っている。

 キロヒは二番目から三番目の人間だ。

 近くの少年がしゃがみこんだので、少し距離を取りながら見つめていると、一瞬で彼が──消えた。

 大講堂から、次々と生徒が消えていく。ニヂロも、一通り眺め終わった後に消えた。

 キロヒとイミルルセは、サーポクに先に座らせてから消えさせる。そうしないと、説明についていけずに最後に一人、ここに残る羽目になりそうだったからだ。

 無事にサーポクと背負われたザブンが消えたのを見守って、キロヒとイミルルセもしゃがみ込む。その頃には、残っているのはラエギーと彼女たちだけだった。

 助けて。

 心の中で思うだけでいい言葉とは、何と気楽なのか。キロヒは、この言葉を願えることが嬉しかった。常に誰かに助けを求めたいわけではない。けれど、助けを求めたい時に、必ず求められるものではないことも知っている。

 忙しい両親。そんな両親から学ぶのに忙しい、年の離れた姉二人。自分を頼ってくる妹たち。行き場のない「助けて」の言葉が、キロヒの中で何度も渦巻いたことがある。

 それでもこの学園の生徒である間は、学園そのものに助けを心の中で求められる。その求めに学園が応えてくれる。それを知れたことが、キロヒの心の大きな支えになったのは確かだ。

 そんな彼女の「助けて」に──視界が変わる。

 彼女が一人立っていたのは、継ぎ目のない木の床と壁でできた小さな部屋だった。扉が三つついている部屋。

 部屋には何もないわけではなく、いやある。一番目立つものがあるのだが、それは壁を背に設置されている──便座だった。

 部屋の中にむきだしの便座があるという、違和感しかない光景の意味を理解して、キロヒは思わず声を洩らした。

「あ、あはははははは……」

 力の抜ける自分の笑い声に、キロヒは更におかしくなって笑った。子供が「助けて」と願った時に、一番近くに用意されているのが便座とは、と。

 学園の洗面やトイレは、階段の踊り場にある。二階と三階の間。あるいは、食堂や教室に向かう、一階と二階の間だ。しかし、時間帯によってはとても混む。男子女子、それぞれ百人ずついるのだからしょうがないだろう。

 部屋の場所によっては、トイレがとても遠くなる。それに、午前、午後の授業の各三時間の間に、一度休憩時間が設けられてはいるが、授業中にやむをえない場合は、黙ってトイレに立つことは許されている。

 要するに、嘔吐やおなかの緊急事態からも、この学園は生徒を救ってくれる、というわけだ。学園のトイレには、簡易清潔機能もついている。清潔室の下半身版と言えばいいだろう。

 それとは別に便座の隣には、透明の小部屋がある。中には腰掛けられるでっぱりがあり、だいだい色の光が降り注でいる。キロヒはそれが、一人用の清潔室だと分かった。もしも何らかの事情で、服がひどく汚れてしまった場合、その状態で食堂横を通り過ぎて清潔室に向かう、ということを避けられる、ということだ。

 さらにその向こうには、奥の壁に向けられた椅子がひとつと机がひとつ。

 そこは、どうしても一人になりたい時の場所に見えた。強制的なスミウ制度に、心がきしむこともあるだろう。そんな時に、一時的に逃げ込める部屋。

 一年生が、最初にこの部屋を教えられていたら、スミウやイヌカナとの関係をよくしようという努力から逃げて、ここにこもってしまう者もいただろう。キロヒなどがそうだ。

 避難部屋を考えた人間は、人の心をよく知っていて、その尊厳を静かに守ろうとしてくれているのがよく分かった。

「さて、その部屋にある扉の説明をするので聞くように……ああ、私には君たちの姿は見えていない。声が聞こえるようにしているだけだ」

 キロヒは、びくっとした。突然、部屋の中にラエギーの声が響いたからだ。完全に気を抜いていた彼女は、飛び跳ねる心臓を両手で押さえなければならなかった。

 音が霊層を抜けてくるのは、前にもあったことだ。ザブンの波音事件である。ラエギーはツヨイを使って、それを意図して起こしているのだろう。

「君たちが最初に通った扉を開ければ、同じ場所に戻れる。この場合は、大講堂だな。階段で使えば階段に戻るので、戻る場合は十分足元に気を付けるように。次に途中の壁にある扉は、学園の外につながっている。いまは開かないようになっている。君たちをその避難部屋から外部に出さなければならなくなった時は、このように教師が声で知らせて誘導するので、それまで使うことはない」

 もしも、は来ない方がいい。しかし、来るかもしれない。そのための避難経路だ。

「そして最後に、一番奥の扉は……君たちの部屋につながっている。何かが起きて、同じ場所に帰れない時は、その扉から部屋に帰れ。スミウやイヌカナが一緒の時も、避難部屋を経由して自室で合流するように。君たちの自室の扉は、教師や指導担当でもない招かれざる客は、勝手に開けることはできない」

 キロヒはこの学園という存在を、とても好きになった。生徒が大事にされているのが、とてもよく伝わってくるからだ。たとえその先にあるのが、精霊士という危険と義務の多いものであっても、このゆりかごの学園のことを思い出せば頑張れる気がした。

「さあ、奥の扉を開けて自室に戻ってよし……これで午前の授業は終わりだ。午後の授業には遅れないように」

 髪をまとめた冷徹なラエギーの声が、この時のキロヒにはとても優しく聞こえたのだった。


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