30.キロヒ、悪い人の話を思い出す
「フキルとは、どんな方でしたの?」
何とも言えない夕食を終え、全員で屋根裏部屋に戻って来たのは、いつもよりかなり遅い時間。もう夜前の刻も終わる頃。
サーポクはそのままベッドに直行だ。彼女のための子守歌である小さな波音が始まる部屋で、三人は中央のテーブルに座っていた。ニヂロは、椅子に横向きに座り足を組んでいる。三人それぞれの窓枠の光だけが、屋根裏部屋の中をぼんやりと照らしていた。
「何っつうか、よく分かんねー奴だった。覚えにくいっつうか。瞬きする度に、違って見えるっつうか」
思い出しながらも、ニヂロは首をひねり続けている。
「声は、まあ、多分女だな。髪も顔も服も全体的に白くて、外が暗くなりかけてたから見やすかったけど、昼間だと遠目には白い布っきれみたいに見えるかもな」
外見の情報共有は大事だ。次も同じ服装かどうかは分からないが、知っていれば警戒くらいはできる。
精霊士を除名されたというフキルのことは、ラエギーから少しだけ話を聞くことは出来ていた。
「フキルは除名されてはいるが、人が考えるような形の犯罪行為をしたわけではない」
教師の説明は、矛盾に満ちているように思われた。
「普通の犯罪ではなく、フキルは精霊士の義務をすべて投げ捨てた。卒業した途端、精霊士協会にも顔を出さず、招集も派遣も出頭要請も全て無視して行方をくらませた」
精霊士とは協力を重要視する職業で、義務が非常に重い。ただしその分の、特別な権利や報酬は約束されている。
「当初は、事件や事故に巻き込まれたのではないかと疑われた。フキルは有名な精霊士のひ孫であり、本人も在学中に特級に上霊したくらい優秀だった。生活態度には……まあ、問題があったが。だが失踪後、奴はたびたび目撃情報が出た。おそらく自分の意思で行方をくらませているのだと、周囲に知らしめようとしたのだろう」
ラエギーが膝の上で組んでいた手に、ぐっと力がこもる。特級の圧は感じないので、心は平静に保っているようだが。
「そのフキルという方は、どうしてそんなことをなさったのでしょう」
イミルルセが、話を誘導する。
「…………分からない」
長い沈黙の後、ラエギーはそう答えた。組んでいる指がほどかれ、そこで話は終わりとなった。
「分からないって、嘘ですわよね」
「まあ、心当たりくらいあんだろ。馬鹿じゃねぇんだし」
屋根裏部屋では、ラエギーの反応をそう結論づけていた。キロヒも同意する。しかし、迂闊に大人の事情を生徒に話すわけにもいかないというのも分かる。
「そうですわよね。ニヂロが何もされなかったかと心配してましたし……何かされる可能性を考えていた、ということですわ」
そうだ、そこなのだ。イミルルセの指摘する部分を、キロヒも気になっていた。
ただ義務を放棄して行方不明になっただけの元精霊士であれば、そんな心配を最初に考えない。
フキルという人物は自分から行方不明になったため、神殿で絶交させられているわけでもない。指輪も特級精霊もあるはずだ。ということは。
「あの……」
波音の流れる中、キロヒの思考から浮き上がるひとつの仮定。
「何ですの?」
「何だぁ?」
二人の、特にニヂロの視線が怖くて、キロヒは言葉をごくんと呑み込んだ。けれどこれは単なる仮定の話。現時点では証明できないことなら、口にしても許されそうな気がした。
「あの……前にニヂロが言ってたこと、覚えてますか?」
「どれだよ」
「わ、悪い人の話です」
「!?」
バンッと左手でテーブルを叩かれて、キロヒは椅子から腰が浮きそうになった。キロヒの視界の端で、サーポクのベッドのびくんっと動いた。
「そうか、あいつの特級精霊にツララが服従させられるっていう話か」
叩いたのはニヂロだ。声も結構大きい。キロヒが慌てながら、サーポクの方を見ていると、それにニヂロも気づいて、面倒臭そうにため息をつきながら頭をかいた。
幸い、サーポクは目覚めることはなく、再び部屋は波音だけになる。
「今回外に出ていたのはニヂロだけでしたけれど、これがもし大勢だったとしたら……目的は分からなくても大変なことですわね」
「そ、そうですね」
「そうか……だからか」
声を落として再び会話を始めた彼女たちだったが、ニヂロの思い出した声で中断される。
「あいつがここの卒業生だって話をした後に、言ったんだよ。『一年生かな? もう亜霊域器、習ってるんだ……こんな早かったっけ』って、な」
ニヂロの記憶の中の会話は、キロヒの背筋を冷たくした。卒業生のただの雑談としてなら、その話題に怖さなど付随しない。だが、フキルは元精霊士。縛られない特級精霊の力を使える人間。
ラエギーが、亜霊域器の授業の時に言ったではないか。亜霊域器の中にいる精霊は、二階級上であっても強制的に協力させることはできない、と。
今日のニヂロは、亜霊域器にツララを入れた状態で外に出ていた。その時はまだ完成していなくとも、瓶に蓋はかぶせていただろう。
「ニヂロ……その時、亜霊域器が完成してないって、フキルという方に言いましたの?」
「言うわけねぇだろ。知らねぇ奴に、誰がそんなこと言うかよ」
これに関しては、ニヂロの反骨精神が功を奏した。イミルルセとキロヒは、ふぅと安堵の息を吐く。
蓋さえ開けなければ、亜霊域器が完成していないということは分からない。何故ニヂロが外に出たかも相手は知らない。教えてやる優しさもニヂロにはない。だからフキルは、ツララを従属させることはできないと思い込んでいたはずだ。
勿論、ニヂロに直接危害を加えようとすればできるし、ニヂロを脅してツララを亜霊域器から出させることもできる。
しかしたった一人の生徒に、学園の目の前でフキルはそんな暴挙には出なかった。
ただ、ラエギーに伝言を頼んだ。
フキルという人間がこの学園の前まで来たのだと、彼女に伝えろ、と。ラエギーに対しての、何らかの意思表示に違いなかった。
「今後、外に出ることがあれば、亜霊域器は必須になりますわね」
習っていてよかったですわと、イミルルセがため息をつく。
「ああ、あいつ以外な」
妬みの目を隠すことなく言ったニヂロの視線は、この部屋でただひとつ膨らんでいる毛布に向けられていた。




