12・キロヒ、遠い目をする
「おい、色気ブス。お前、図書室入れるなら、上霊についての本を借りて来い」
「イミルルセ、でしてよ?」
「……ウゼェ、もういい。アタシもあの教師に図書室の利用許可取ってくる。ビニニブスにタダで計算を教えてるんだ。そのくらいの見返り寄越せってんだ」
要求後、二秒で返り討ちにあったニヂロは、どすどすと屋根裏部屋を出て行く。
赤毛の教師から、精霊の階級差による強制従属の話を聞いて以来、ニヂロは知識への渇望が跳ねあがったように見える。
この学園は、授業時に使う教本がない。教本があれば、今後どのようなことを習うのかなど事前に知ることができるというのに。
「他の部屋の子たちとも交流を持って、情報交換をすべきかも、ですわね。知らないことが多すぎますわ」
「そ、そうですね」
そんな話を、キロヒはイミルルセとしていた。中央の丸テーブルでの出来事である。同じ場所で、サーポクは白雲に物語の文字を書き写す練習中。何度もイミルルセが読みながら教えた本で、サーポクもお気に入りの釣り人の話なので楽しそうだ。
そんな時、ノックの音が響いた。驚いてキロヒは扉の方を振り向く。ニヂロがもう帰って来たとしても、ノックをするはずなどないのだから。ということは、それ以外の来客ということである。
イルミミセとキロヒは目を合わせて、お互いに軽く頷く。
「どうぞ、お入りになって」
「やぁ」
現れたのは、四年生の指導担当のイシグルである。制服のジャケットだけ脱いだ、白いシャツに紺のスラックスという、前と同じ恰好だ。
「シグ先輩……ようこそいらっしゃいました。どうぞ、お座りになって」
イミルルセは即座に席から立ち上がり、空いている席を勧める。いまここにいないニヂロの席だ。
この素早い動きは、イシグルを情報源として長居させようという彼女の考えを如実に表している。何しろ彼女は四年生なのだから。同級生より、よほどたくさんの情報を抱えているのは間違いなかった。
「おや、熱烈歓迎だね」
にこりと微笑んで席に座った指導担当は、ちょうど向かいの席になるサーポクの書き取りを覗き込んでうんうんと頷いている。
「……ひとつシグ先輩にお願いがありますの」
「何かな?」
「シグ先輩の精霊に、ご挨拶させていただきたいのですわ。本当はスミウの自己紹介の時に、お聞きしたかったのですが、入園したてで心に余裕がありませんでしたの」
この学園や勉強に関する情報をくださいなどと、直接的に切り出すことをイミルルセはしなかった。軽やかな声と口調で、簡単なことであるかのように振る舞う。
キロヒはその話術のうまさに、向かいの席で拍手していた。心の中で。
部屋での自己紹介の時、イシグルは精霊を見せ合わせた。それを引き合いに出すことによって、精霊を他の人に見せることは大したことではないのでしょうと、暗黙に問いかけているのだ。
「ああ、そうか。紹介していなかったね……でも、ボクからもひとつお願いがあるんだけど」
イシグルは、紹介することそのものに抵抗はないようだった。しかし、あっという表情を浮かべて少し困った眉になる。
「何でしょう?」
「……ボクの精霊を見ても、決して悲鳴をあげたり嫌な顔をしないでくれるかな?」
それは至極まっとうなお願いであり、否定するものではなかった。しかし、あえてイシグルがそう言うということは、見た目に何らかの問題があるということなのだろう。
「も、勿論ですわ……」
気丈に頷いて見せるイミルルセだが、言葉に珍しく緊張感が漂っている。キロヒの方は、限りなく自信がなくなっていた。アレとかアレだったらどうしよう、と、想像したくもない生物の形が頭をよぎろうとするのを必死で振り払っていた。
「ボクの友人……シュルルだよ」
苦笑いをしながらもイシグルは、一度席から立ち上がって両手を広げた。
次の瞬間、何もなかったはずの場所に、ソレが浮かび上がる。右手の先には空色の逆三角の頭。そこから同色の細長い胴体は右腕を通って、イシグルの首の後ろを通り左腕に向かい、その手の先で細く終わりを迎える。
その精霊に一番近い生物の名前は、たったひとつだけ。キロヒの「アレだったらどうしよう」というまさにアレ──蛇であった。
キロヒは固まったが、イミルルセは事前に貼り付けた笑顔のまま乗り切っている。
ただ一人。
「わー、長かとよー」
蛇を見て大喜びした少女がいた。勿論その名前は──サーポクと言う。
「と、とても長いですが……上級精霊、ですわよね?」
「そうだよ。シュルルは細いからね」
「かわいかとよー」
イシグルは機嫌よく、そう答えた。視線の先にいるのは、サーポク。島の少女は書き取りをやめ、イシグルの側に駆け寄って、蛇と顔を突き合わせ挨拶を交わしている。特に女性が苦手にしやすいその形を、こんなに喜んで受け入れられるのが嬉しいのだろう。
キロヒは、その様子に「無理」となりながらも、同時に「あれは精霊、あれは精霊」と心の中で言い聞かせようとしていた。既にキロヒは、サーポクに少し距離を取られている。ここでイシグルの精霊に対する態度を誤って、彼女にまで距離を取られたくはなかった。
キロヒは頑張って上級精霊の姿を見つめる。普通の蛇と違うのは、水色の鱗のひとつひとつがとても大きく鏡のようにピカピカと輝いていること。そして何より蛇と違うのは、その胴の前半部分に、小さな白い羽がついてることだ。ふわふわの羽毛でできたような羽である。
「姿を消すことができるのは、すごいですわね」
少し慣れたのか、イミルルセは取り繕える程度には緊張感を抑えているようだった。
「うーん、それは上級精霊以上ならわりとできることだよ。あと、相性のいい人にだけ見えるようにできたりもするね」
「まあ」
「え……?」
その返答は、キロヒの緊張を吹っ飛ばす驚きを与えた。イミルルセも同じようで、二人同時に視線を向けた。サーポクが背負っているザブンに、だ。
「ああ、多分この子は、サーポクが強く望んでいるから姿を消さないんだろうね……サーポク、ザブンの姿を消せるかい?」
「何で?」
「そうだねえ、大きいとみんながびっくりして見ちゃうし、悪い人がザブンが欲しくて君を騙して言うことを聞かせたいって思っちゃうかもしれないからね……姿を消しても、ザブンは側から離れないから大丈夫だよ」
「悪か人……ビニニを六も取るキロヒより悪か人?」
「何したの君」
悪い人、という言葉はサーポクには鬼門だ。同時にイシグルの疑いの視線が飛んできて、慌ててキロヒは両手を左右に振った。
「ご、誤解です。あと、そういう話は……できたら控えた方が……」
泣きたい気持ちになりながらも、この会話の行く末が悪い方向にならないよう、話題を変えるように勧めた──のだが。
「悪か人はいやとよ……ザブンが見えなくなるともいやとよ。ザブン、ザブン……消えるのはダメとよ」
背中に両手を回して、はみ出しているひれや甲羅の下側に触って、その存在を確認し続けるサーポクは、いまにも泣きそうだ。
ゴロリ。
「「あ……」」
頭上から聞こえてきたその音に、イミルルセとキロヒは同時に声を発した。ザブンの目は、イシグルを見ている。
「シグ先輩、ザブンに消えなくていいと言ってあげてくださいまし」
「シグ先輩……空……空が」
焦ったイミルルセはシグに本気で訴え、キロヒは前回の記憶に打ちのめされながらも、指で屋根裏部屋の頭上を指した。
「あー……なるほど、こうなるのか。はー、すごいねー」
黒い雲に覆われて暗くなる部屋。その雲の中で、ゴロリゴロリと低い不穏な音がしている。
「って……うわあ、そうかあ。そうなるのかあ」
雲を見上げて感心しきりのイシグルだったが、彼女の腕にいたシュルルが側にいるサーポクの腕へとその身を移動させる。その様子に、イシグルががっくりと両肩を落とした。
「シュルル、ボクはシュルルの友人だよね? それはないんじゃない……よっぽどザブンと相性良いのか。うは……キッツイなこれ……」
イシグルの精霊が、ザブンの味方についてしまうという大事件が、目の前で起きた。階級差は一つ。しかも友人持ちで非協力の状態だ。授業では、かなり難しいとなっている条件だというのに。
しかし、すぐに立ち直って「そうか、こうなるのか……」と、向こう側に行ってしまったシュルルを観察し始めた。
いやそんなことより、この場を落ち着かせて上空の暗雲を何とかしてほしいと、キロヒは強く願った。
「くっそ、あの赤毛ブス! ふざけやが……あぁ? 何だ、こりゃ?」
ノックをせずに扉を開けられる少女が、怒鳴り散らしながら戻って来る。また説明が難しい事態に、キロヒは遠い目をしたのだった。




