第六幕 余韻の中で
多目的室の照明は穏やかに灯され、テーブルの上にはコンビニのお菓子やペットボトルのジュース、そして部員たちが持ち寄った差し入れが並んでいた。
「というわけで――演劇部、初公演、おつかれさまでしたー!」
パチパチパチッ、と控えめながらも賑やかな拍手が響く。
「ささやかだけど、打ち上げよ」と七海が言いながら、ポテトチップスの袋を開けると、すかさず紗里がジュースを持って乾杯の音頭を取った。
「はいはい、じゃあ皆で、かんぱーい!」
「「かんぱーい!」」
ペットボトルと紙コップが軽くぶつかる音が響き、思い思いにお菓子をつまみ始める部員たち。
その中で、ひのりは少し離れた椅子に腰掛け、窓の外をぼんやり眺めていた。
唯香が持ってきたノートパソコンには、昨日の本番の映像が映っている。
ナレーションに始まり、ミコリア姫が起き上がる第一幕の冒頭――
あのときの緊張と高揚が蘇るようだった。
「……こうして見ると、私の声、ちゃんと出てたんだね……」
みこが映像を見ながら、ポツリと呟く。
「うん。動きも自然だったし、表情も良かったよ」と唯香が答える。
七海も頷きながら言った。
「ひのりの“なんだこの衣装!?”のとこ、テンション完璧だったわ。観客も笑ってたし」
「サリナの“変な生き物拾った〜”も絶妙だったよね〜!」
紗里が自分で言って笑いながら、グミを口に放り込む。
誰もが笑顔で、昨日の舞台の話題に花を咲かせていた。
……ただ一人を除いて。
ひのりは笑わず、映像の中の自分をじっと見つめていた。
「……すごいよね、昨日の私たち。あんなの、本当に自分たちがやったのかな……」
「え? ひのり?」
紗里が首を傾げる。
「いや、うん。うまくいったのは、わかってるんだけどさ……。なんか、こう……終わっちゃったっていうか。すっごく盛り上がった分、今、抜け殻みたいになってるっていうか……」
ひのりの言葉に、一瞬だけ、部室の空気が静まった。
「……“燃え尽き症候群”ね」
七海が呟く。
「演劇って、リハも練習も全部が“本番”に向かってるから。終わるとぽっかり空くのよ。しかも私たち一期生だから、先輩の背中も参考にできないし、余計に」
「……うん、そうかも」
ひのりは笑おうとして、少しだけ口角を上げた。
「今までずっと、“伝説作るぞー!”って、頭の中そればっかで……終わった今、なんか、次に何をしていいかわかんなくなっちゃった」
唯香が静かに口を開く。
「でもひのり、それって“ちゃんとやりきった”からこそ、感じることじゃない?」
「……やりきった、か」
「うん。だからこそ、次の舞台が必要なのよ。そこに向かって、また動き出せばいい」
七海が横からポテトチップスを渡しながら笑った。
「ほら、燃料切れてるなら、糖分補給からどうぞ」
「……ありがと」
ひのりはポテチを一枚取って、ぽりりと口に入れた。
部室に響く笑い声と、画面に映る“昨日の自分たち”。
そこには確かに、ひのりの“最高の瞬間”が刻まれていた。
でも――それは“終わった物語”じゃない。
一期生として、まだ誰も歩いていない道を進む物語のはじまりなんだ。
テーブルの上では、ポテチやグミの袋が少しずつ軽くなっていた。
皆が順番に、本番での思い出を口にし始める。
「ねえねえ、私の“起きて〜!”のセリフ、客席の子どもたち笑ってたよね? あれ地味に嬉しかった〜」
と紗里が語ると、みこが「……“起きない〜!”って声も聞こえてたよ」と、ぽそっと返す。
「サリナの“神……かな?”ってところ、完全にウケてたじゃない」
と七海が言うと、紗里はどや顔でピースを決めた。
「でしょでしょ? あそこアドリブに近かったけど、七海ちゃんの脚本がちゃんとしてたから、ちゃんと“返し”ができたんだよ〜」
「……演劇って、ほんと“みんなでやるもの”なんだね」
みこがぽつりと呟くと、誰もが自然と頷いた。
そして――
「……それって、やっぱりひのりのおかげでもあると思う」
唯香が、ぽつりと語った。
「一番最初に、“伝説作ろう!”って言ったの、ひのりだったし」
七海も同意する。
「正直、最初は“無理でしょ”って思ったけど……あの勢いと発想がなかったら、私たち動けなかった。感謝してる」
「私も……ひのりちゃんが引っ張ってくれたから、頑張れたよ……」
みこが、小さな声で添える。
紗里も笑いながら、手を挙げた。
「ってことで、今日の主役、ひのり〜!」
「えっ……えっ、わたし!?」
突然の流れに戸惑いながらも、ひのりは周囲を見る。
みんなが笑っている。
みんなが、自分を見ている。
心の奥に、小さな熱がふつふつと戻ってくるのを感じた。
――ああ、そうだ。
私、やっぱり……“演じること”が、好きなんだ。
ひのりは立ち上がり、胸を張った。
「えへへ……ありがと。でも、あれはほんとにみんなで作った伝説だから。私一人じゃ何もできなかったし!」
「謙遜しすぎ〜!」
「……でも、ひのりらしいね」
「じゃあ次は、ひのりの“新たな伝説”に期待だね!」
「えっ、もう次!? はやっ!」
と笑いながらも、ひのりはまた“何か”が動き出す予感を、胸の奥に感じていた。
次の舞台、次の物語。
まだ何も決まってないけど――
この仲間となら、きっと、また“面白いこと”ができる気がする。
そして、ひのりは小さく拳を握り、言った。
「よーし……今度こそ、もっとすごい伝説、作っちゃおっか!」
「出た、ひのりの口癖〜!」
部室にまた、笑い声が戻ってくる。
ひのりはその中心で、ようやく、心からの笑顔を見せていた。
部室の扉が、コンコンと軽くノックされる音とともに開いた。
「失礼するわね」
現れたのは――音屋先生。手には紙袋がひとつ。
「先生……!」
「おおっ、女優降臨!」
紗里が冗談交じりに立ち上がると、先生はにこやかに紙袋を掲げた。
「今日の打ち上げに差し入れ。ノンアルのスパークリングよ。未成年でも安心」
「わぁ〜〜!」
「ありがとうございます!」
先生が椅子に腰を下ろすと、七海が問いかける。
「先生……ひとつ、聞きたいことがあるんです」
「なにかしら?」
「どうして、魔女ヴェルダ役を自分でやるって言い出したんですか?」
その問いに、音屋先生は少しだけ目を細めて、穏やかに語り出す。
「前にも話だけど……昔ね、私も“演じる側”だったのよ。芸術大学で、ミュージカルを専攻してて。舞台女優を目指してたの」
「え……!?」
思わず、ひのりが声を漏らす。
「でも、ある時ふと、気づいたの。“自分はたぶん、選ばれない側かもしれない”って。それでね、別の夢に目を向けた。“演じることの魅力を、伝える側になろう”って。……教職の道に進んだのは、そういう理由よ」
「……それで先生に?」
「そう。でも、夢を完全に捨てたわけじゃなかった。“もしも”の気持ちは、ずっとどこかに残ってた」
先生はそう言ってから、演劇部の面々をゆっくり見渡す。
「あなたたちの練習を見ていて――その“もしも”が、また動き出したのよ。“この役を演じたい”って、心から思えたの。魔女ヴェルダって、ただの悪役じゃない。挑戦する者たちの前に立つ“試練そのもの”。演じることを諦めた私が、もう一度舞台に立つなら……その役しかないって思った」
「……先生」
ひのりが、ぽつりと呟く。
「……あの舞台には、たしかに“本物の女優”がいました」
照れくさそうに笑いながらも、先生は頷く。
「ありがとう。でも本当に主演だったのは、あなたたちよ。舞風学園一期生、最初の舞台に立ったあなたたち」
七海が続ける。
「確かに……“私たちしかやれない舞台”だったと思う。だって、先輩もいない。モデルケースもない。ゼロから作った舞台だもの」
「そうだね! 演劇部の“第1号舞台”だよ!」
紗里がグッと拳を握る。
「……なんか、誇らしい」
みこが小さく呟き、頬を赤らめた。
先生は頷きながら言う。
「だからこそ、あなたたちが次に何を作るかが大事になる。第一号の伝説は始まったばかりよ」
ひのりは大きく息を吸い、拳を握った。
「……また作りたい。もっとすごい伝説を!」
「出た、ひのりの口癖〜!」
紗里が笑う。
その問いに、先生は少しだけ目を細めて笑った。
「本当は、誰かにやらせるつもりだったの。でも――台本を読んで、思ったの。“この役、私にしかできないかも”って」
「わかるかも……めちゃくちゃ迫力あったもん……!」
みこがこっそり呟く。
「実はね、リハーサルの時……私、少し泣きそうになったの」
「えっ!?」
「あなたたちの目が、本当に“この世界に生きている人の目”になっていて……教える立場なのに、逆に“観ていた”の。……その瞬間、自分も舞台に立ちたいって、久しぶりに思ったのよ」
「先生……」
ひのりが思わず呟いた。
「だからね、あの魔女は“悪役”であって“導き手”でもあったの。あなたたちにとっても、“最後の壁”として、立ちはだかる必要があった」
「……なんか、深い……」
紗里が感心したように頷く。
「あともう一つ。……本番前のリハーサルで、誰よりも緊張していたのは、ひのりさん、あなたよ」
「えっ!? バレてた!?」
「目が泳ぎすぎてて、“このままカーテンに隠れるんじゃないか”って思ったくらいよ。でも、その直後、ひのりさんが皆に“楽しもうね!”って言った。その言葉で、空気が変わった」
七海が微笑んで言う。
「それ、私も思った。“あ、これなら大丈夫だ”って」
「……うん、私も……あれで力もらった」
ひのりは、照れくさそうに笑う。
「でも実は……公演終わってから、少し燃え尽きてたんだ。……伝説作っちゃったな〜、って。なんか、それで満足しちゃって」
その言葉に、静かに先生が頷いた。
「達成感は大事よ。でも、それが“終わり”ではなくて、“始まり”に変わるとき……演者として一歩、進めるの」
そして、先生はひのりの目を見つめながら、続けた。
「本宮さん。あなたがこの部を、ここまで引っ張ってくれたの。あなたの“最初の一歩”がなければ、誰も舞台に立てなかったわ」
「……うん」
ひのりは大きく息を吸って、ゆっくり吐いた。
「ありがとう、先生。……また、次の物語、作りたいって思えたよ」
拍手が自然と起こる。
唯香がスパークリングをみんなに注ぎながら、静かに言う。
「じゃあ、乾杯しましょう。“第一回公演・大成功”と、“次の物語”に」
「かんぱーい!!」
紙コップが軽やかにぶつかり合う音が、部室の中に響いた。
(私は、舞台が好きだ。演じることが、好きだ。 だから――また、ここからだ)
カーテンの向こうにある、まだ誰も知らない物語の続きを、ひのりは今、見つめている。
部室には、あたたかい空気と笑い声が満ちていた。
テーブルの上には、ジュースの空き紙コップとお菓子の袋、そしてスマホで撮った舞台写真がずらりと並ぶ。
「ねぇこれ見て、私のジャンプした瞬間! ちゃんと浮いてない?」
紗里が画面を拡大して見せると、
「いや、それ“ジャンプ”というより“滑って転びかけてる”でしょ」
七海が即ツッコミ。
「ちょっ、マジで!? あたしの勇姿が〜!」
笑いが広がる中、みこは自分が写っている一枚に目を止める。
「……これ、“どこですか”って言ったときの……」
そこには、静かに森の中で目覚める“ミコリア姫”の姿があった。見開かれた目と、不安そうな手の動き。その一瞬が、物語の始まりを象徴していた。
「みこちゃん、あれめっちゃ良かったよ。空気が変わったもん、あの一言で」
ひのりが笑顔でそう言うと、みこは少し照れたように俯いた。
「……演じてる時、私、自分でもびっくりするくらい……言葉がすらすら出てきたの。普段じゃ考えられないくらい」
唯香が、その様子を見守りながら言う。
「役に入り込むことで、自分でも知らなかった自分に会えるのよ。舞台って、そういう場所」
「私も……“ヒノリス”って、ちょっとだけ“なりたい自分”だったかも。普段はさ、空回りすること多いし、みんなに迷惑かけるし……でもステージの上では、ちゃんと“誰かを引っ張る役”になれた気がして……」
「空回りしても、あんたの勢いに救われたとこあるから」
七海が、ふっと笑って言った。
「そーそー! あたし、ひのりがいなかったら“精霊やります!”なんて絶対言ってないし!」
「うん……ひのりちゃんがいたから、勇気もらえた」
ひのりは一瞬、言葉に詰まって――
「……ありがと」
その一言だけが、素直に出てきた。
唯香が、手に持っていた紙コップをふっと掲げる。
「じゃあ、ここで“次の一手”を宣言してもいい?」
「お?」
「“みんなで、順番に主役を演じる”。つまり――“各自の物語を舞台にする”ってのはどう?」
「えっ、それめっちゃ面白そう!!」
「完全に次回予告じゃん!」
「ねぇねぇ、じゃあ誰から?」
その時、紗里がぴしっとひのりを指差した。
「決まってるでしょ〜。“フォーカス・オン・ひのり”! 次回の主演はこの人で〜す!」
「えぇぇ!? いきなり私!?」
「順番でしょ。“伝説の始まり”をぶち上げた張本人なんだからさ〜」
「しかも今回、“演劇って何?”って悩んでたじゃん。つまり次は、ひのりが“演じる意味”と“自分の過去”に向き合う番ってことよ」
七海が真面目な顔で乗っかる。
「ちょ、もうみんな勝手に話進めすぎ〜〜!!」
「というわけで!」
唯香が立ち上がって、カメラのように両手でフレームを作りながら言う。
「次回、舞風学園演劇部 第六幕――“主役は譲れない!フォーカス・オン・ひのり!”」
「ちょっ、サブタイまで決まってるじゃん〜〜!!アニメみたいだよ」
ひのりが笑いながら叫ぶ。
でも、その顔には確かな決意とワクワクがあった。
(また、演じたい――)
(もっと、自分を知りたい――)
紙コップがもう一度、カチンと合わさる。
その音が、次の“物語の始まり”を静かに告げていた。
――つづく。