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第十幕 唯香の魔法の記憶

 唯香は、生まれたときから“カメラの前”にいた。


 父は映画監督、母は元女優。

 0歳の頃から赤ちゃんモデルとして撮影に参加し、

 幼稚園の頃には教育番組にレギュラー出演していた。


 中でも有名だったのは、「よい子のマナー」コーナー。

 「こんにちはを言いましょう」の撮影では――


「はい、笑顔もう少しキープ」

「口角足りない。テイク17、いきます」


 ただ「こんにちは」と言うだけで、何十回もリテイクを繰り返す。

 自然な笑顔も、“完璧に作る”のが当たり前だった。


 小学校に入ると、連ドラで主人公の妹役に抜擢された。

 セリフは流暢に、大人びた表情を求められる日々。


 学校行事に出られないことも多く、

 「すごいね」と言われる一方で、いつしか周囲から距離を置かれるようになっていた。


 そして、小学3年の夏――


 川沿いの撮影現場で、セリフが飛んだ。

 照明の熱とプレッシャーに、思わず逃げ出した。

 現場を飛び出し、見知らぬ公園のベンチで、ただ一人、泣いた。


(あれが、私の“演じること”の限界だったのかもしれない)


 中学になると、母との衝突も増えていった。

 自分の言葉ではなく、誰かの期待で動く日々に、耐えきれなくなっていた。


「仕事を続けなさい」「演技は才能よ」


 その言葉に背を向けるように、唯香は一度だけ、家出をした。


あの頃の彼女は、“演じること”に心底うんざりしていた。

「演技なんて、所詮ごっこ遊び」「大人の都合で子供に仮面を被らせるだけ」

 そんな風に捻くれた考えを、どこかで本気で信じていた。


 そんな中、ある日ふと見た雑誌の記事で――

 **「来年度開校予定の“舞風学園”」**という学校の存在を知る。


 自主性を重んじる自由な校風。表現活動を支援する独自のカリキュラム。

 (ここなら、“誰か”を演じるんじゃなく、自分自身のままで立てるかもしれない)


 唯香は初めて、“自分の意志”で未来を選んだ。

 芸能の世界を離れ、この学園に進むことを決めた。


___

 朝の光が、薄いカーテン越しに静かに差し込んでくる。

アラームが鳴る前に、唯香はそっと目を開けた。


 ――この家で、自分の息づかいだけが響く数少ない時間。

 布団を整え、制服に袖を通し、髪を結ぶ。動作のひとつひとつに、無駄はない。


「唯香、まだなの?」


 キッチンから母の声が飛んできた。

 冷たい音色。いつも通り。


「もう行くわ」


 声を整えてからリビングに入る。朝の食卓は、整然としていた。

 彩り、栄養、見た目……どれも“正しい”食事。

けれど、温かさはなかった。


 母・真知子はサラダを盛りながら言う。

「食べながらニュースを見て。演技の流行ぐらい、抑えておきなさい」


 唯香は何も言わず、フォークを手に取った。

 テレビから流れる芸能ニュースと、新聞を読む父の沈黙が、部屋を満たしていた。


 父・秋哉。

 かつて名監督と呼ばれた男は、今は講師として大学や専門学校で講師をしており、映画制作のために家    を離れることが多く、娘ともほとんど言葉を交わさない。


「ねえ、唯香」

 母の声が一段低くなる。


「来週、劇団の公演があるの。マネージャーさんと挨拶してきなさい。演技を再開する気があるなら、準備しないと」


 唯香はスプーンの動きを止めた。


「今は……まだ、考え中よ」


「“高校生活を一度やってみたい”って言ったのは、あなたでしょ? それでも、何を選んで、何を捨てるかは、もう決める時期よ」


 壁には、天才子役だった頃の写真が並んでいる。

 輝いていたのは、あの時の“商品としての自分”。


 唯香は静かに席を立った。


「ごちそうさまでした。先に出るわ」


「制服の背中、シワになってない?」


「大丈夫」


 玄関のドアを開けると、風が頬を撫でた。

 まるで、閉ざされた家から逃げ出すように、外の空気を吸い込む。


 ポケットの中には、昨日の部活でもらった台本のメモ。

 “魔法がまだ信じられていた時代”。


(子役だった頃と、今の“演じる”は違う)

(あの舞台でなら――私は、自分のままで、誰かと何かを作れるかもしれない)


 制服の裾を揺らす風に背を押されながら、唯香は坂を下る。


 高級住宅街の整った道を抜けて、駅から電車に乗り、舞風学園へ。

 見上げた空は青く澄んでいたけれど――

この街の空気は、今日もどこか息苦しい。


(“戻る”んじゃない。私は、私を見つけるために……この場所に来たんだ)


 そう胸の中で呟き、唯香は前を向いた。

 今日という“舞台”の一幕目へと、静かに歩き出す。


 校門をくぐると、すでに始業前のざわめきが校舎から聞こえていた。

 唯香は淡々と足を進め、昇降口でローファーに履き替える。鏡のように磨かれた床、並べられた傘立  て、廊下をすれ違う生徒たち――

 そのすべてに、どこか“舞台装置めいた”整いすぎた匂いを感じてしまう。


(学校は、まだ“自由”があると思ってたけど……)


 そう心の中で呟きながら教室のドアを開けた。


「おはよー唯香ちゃん!」

「今日の髪型もキマってる〜」


 クラスメイトたちの明るい声。

 唯香はにこやかに微笑んで、軽く会釈を返す。


(“こうするのが正解”……って分かってる)


 でも、それはあくまで「演技」だった。


 席に着くと、窓の外に目をやる。

 まだ朝日が残るグラウンドには、走り込みをする陸上部の姿が見える。

 その一瞬――ふと、胸の奥がざわついた。



 ――カメラのフラッシュが目の前で瞬き、スタッフの怒号が飛ぶ。


「もう一度! 表情が違うでしょ!」

「笑って、唯香ちゃん! 笑顔は“商品”なんだから!」


 汗で張りついた子供用のドレス。

 ライトの熱で滲む視界。

 喉が乾いているのに、水はまだ許されない。

 「OK」が出るまで、演じ続けなければいけなかった。


 けれど、ある日だけは――


 小さな体で精一杯逃げ出した。

 現場の裏口を飛び出し、走って、走って、辿り着いたのは町外れの小さな公園だった。


 誰もいないベンチに座り込み、肩を震わせて泣いていた。

 言葉も出せず、誰にも気づかれたくなくて、声も殺した。


 その記憶はずっと遠く、色あせた写真のように脳裏に貼りついていた。



「……!」


 唯香は机の上で、ペンを握る手に力を込めた。

ノートの文字が、にじんで見える。


(思い出す必要なんてない。もう、終わったこと――)


 けれど、今日の風はどこか、あの日の公園の風と似ていた。


 教室の窓を通り抜ける風が、唯香の髪をほんの少し揺らした。


 ――「白の記憶」脚本打ち合わせ中


 日が傾き、放課後の多目的室には温かなオレンジ色の光が差し込んでいた。

 演劇部の5人は、各々台本を手に取り、机を囲んでいた。


「じゃあ、改めてキャスト確認しようか」


 七海が手元のプリントを軽く叩く。


「登場人物は5人。

 ユキノ――白い制服の魔法使い。これはひのり。

 アオイ――記憶を失ったもう一人の魔法使い。私がやる。

 カゼナ――風を操る放浪者、これは紗里。

 メル――記憶の結晶であり、無垢な存在。みこちゃんがぴったり。

 最後に……セラ。“記憶を呼び起こす存在”っていう、概念的な役」


 全員が一斉にうなずく中、視線が自然と唯香に集まる。

 唯香は台本をじっと見つめたまま、ページをめくっていた。


「……セラは、演者がいなくても成立する構成にはしてある。

語りや演出で補えるようにね」


 七海がそう補足する。


「つまり、“唯香ちゃんが出るか出ないか”で、物語の印象が変わるってこと?」


 ひのりが言いながら、視線で問いかける。


 唯香は少し黙ってから、低く答えた。


「セラ……この役は、“誰か”ではなく、“何か”。でもだからこそ、逆に“誰か”として演じることができる。……すごく面白いと思ったわ」


「……それって、唯香ちゃんが出てくれる可能性、あるってこと?」


 みこが小さな声で聞いた。


唯香は答えず、代わりにページを閉じて言った。


「もう少し、考えさせて」


 七海が頷く。


「うん。無理にとは言わない。セラって存在自体が、“過去と向き合うこと”の象徴だから、誰が演じても、演じなくても、きっとこの舞台の軸になる」


「“過去と向き合う”か……」

 紗里がぽつりと呟き、背もたれに軽くもたれかかる。


「それって、舞台の中の話だけじゃないよね」

 みこが言ったその言葉に、唯香はふと小さく目を伏せた。


(過去……)


(私の“記憶”も、“演技”も――まだ、すべては終わっていない)


 部室の窓の外で、夕暮れが静かに深まっていく。


 次の一歩を、誰もがそれぞれの場所で、少しずつ探していた。



 カシャン。

 帰宅した唯香が机の上に台本を置く音が、静まり返った部屋に響いた。


(私……ほんとにこの舞台に立つべきなのかな)


 机に置かれた台本を見つめながら、唯香は胸の奥に小さな波紋を感じていた。


(“もう一度演じたい”って気持ちは、確かにある。だけど……)


 思い返すのは、母の冷たい声。父の無言。家の中に置いてきた“期待”と“監視”。


(もし私がこの舞台に立てば、また――あの頃の私に戻ってしまうんじゃないか)


 でも、演劇部で過ごす時間は、確かに“あの頃”とは違った。

 紗里とみこの地元に行った時のナレーション役も誰かに演じさせられるのではなく、誰かと一緒に“創  っている”感覚。


(私は……ただ、誰かに認められるためじゃなく、自分の意思で――)


 唯香は自分の胸に手を当てて、そっと息を吐いた。


 制服のまま椅子に腰かけた唯香は、ゆっくりと深呼吸をした。

 手元には『白の記憶』の脚本。そして、演じるかどうか、まだ答えの出ない「セラ」の名前。


(“記憶を呼び起こす存在”……)


 唯香は、ふと立ち上がって机の引き出しに手を伸ばす。

 奥の方から、ひとつの小さな缶を取り出す。

 色あせたフタには、子どもの頃に貼った動物のシールが今も残っていた。


 カチ、と開ける。


 中には、昔使っていたヘアピンや小物が雑然と入っていた。

 その中に――虹色に反射する、プラスチック製の指輪がひとつ。


(……あった)


 唯香はそれをそっと手に取る。


 淡い水色の透明な石が嵌められた、小さなおもちゃの指輪。

 100円のおまけのようなそれが、いまも大切にしまわれている理由。


(……あのときの……)


 かすかな記憶が、薄皮を剥ぐように戻ってくる。


 ――幼い頃、撮影中に怒られ、現場を飛び出した。

 寒かった。

 泣きながら走って、公園のベンチで膝を抱えた。


「ねぇ、“魔法使いごっこ”しない?」


 ――声をかけてきたのは、同い年くらいの女の子だった。

眩しいくらい明るい子。名前は聞いていない。顔も、もうはっきりとは思い出せない。


 けれど――


「これは魔法の指輪。“また会える”ようにって、おまじないがかかってるんだよ!」


 笑いながら、指輪を渡してくれたあの子の声は、今も耳に残っている。


(本当に、魔法だった……)


 唯香はそっと目を閉じた。


 演じるとは、誰かになること。

 けれど、セラは“誰か”ではない。

 “記憶”そのもの。“呼び覚まされる想い”の化身。


 そして――


(あの時の私に、あの子が“魔法”をかけてくれたように。

 今度は私が、“誰かの記憶を照らす”役になれるかもしれない)


 ベッドに座り、唯香は指輪をしばらく見つめたあと、そっとポケットにしまった。


(セラは“演じる”役じゃない。“思い出す”役)


 自分の奥底にしまいこんでいた記憶と、いま繋がろうとしている何かが、

 静かに交差していた――。


 翌日の放課後、多目的室。


 演劇部の練習が始まると、部屋には活気が満ち始めた。紗里がいつもの調子で元気よく台詞を叫び、七海がそれに冷静なアドバイスを返す。


「“包み込む”って言う時は、ちょっとだけ語尾を優しくしたほうが風っぽくなるかも」


「語尾にも風、ね……よし、やってみる!」


 ひのりは鏡の前で魔法少女ユキノの台詞を繰り返しながら、動きや表情のパターンを試している。


 みこは小さなノートにステップやポーズのメモを書き込み、台詞に合った動きのイメージを一つ一つ組み立てていた。


 その光景を、唯香は少し離れた椅子から見つめていた。手には台本、ポケットには、あの指輪。


 静かに、それでも確かな熱量を感じる舞台づくりの現場。彼女の中にも、また少しずつ灯がともっていくのがわかった。


「ねえ、唯香ちゃん」


 不意に、ひのりが振り返って声をかけてくる。


「“記憶”ってさ、不思議じゃない?」


「……どういう意味?」


「なんか……突然思い出したり、逆に全然思い出せなかったり。でも、気持ちだけは残ってたりするじゃん。今日、“メル”の台詞読んでたら、なんかグッときちゃってさ」


 “メル”――記憶の結晶として舞台に登場する少女。演じるのはみこだ。


「……たぶん、“映像”じゃなくて、“感情”として残るんだと思う」


 みこがそっと言葉を添える。


「だからこそ、“思い出せないのに、なぜか大切に思える”っていう記憶もあるんだよね。私、そういうの、信じたいな」


 唯香はその言葉を聞きながら、ポケットの中の指輪をそっと握った。


「……セラは、誰かの記憶に触れる存在。目に見えない感情を、そっと引き出す……そんな役」


 七海が、自作の脚本に視線を落としながら呟く。


「唯香ちゃん、どうかな。セラ……やってくれるなら、私、すごくうれしいんだけど」


 一瞬、空気が静まった。


 唯香は、台本をそっと閉じて答える。


「……まだ、決められない。でも、考えてる。ちゃんと」


 そして、ポケットの中の指輪に目を落としながら、静かに心の中で呟いた。


 (私が“演じたい”って思う気持ち……それも、きっと、私自身の記憶。あの時、魔法をくれた誰かに――応えたいって思ってる)


  そのとき――


「ねえ、唯香ちゃん」


 今度はひのりが声をかけてきた。

 練習の合間のちょっとした休憩。軽く汗をぬぐいながら、ふと思い出したように話し始める。


「記憶ってさ、不思議だよね。……私、小さい頃に公園で“魔法使いごっこ”をしたことがあるの。知らない女の子と」


 唯香がわずかに目を見開く。だが、ひのりは気づかずに続ける。


「その子、何かの撮影の途中だったみたいで……大人たちから逃げてきたみたいだったの。泣いてて、すごくつらそうな顔してたけど、一緒に遊んでくれて……最後に、指輪を渡したんだ。“魔力を託します”って」


 笑うように語るその声には、どこか切なさが混じっていた。


「……また会えたらいいな、って思ってるの。今、どうしてるんだろうって……時々、気になっちゃう」


「――勉強会のときに話してたよね」


 静かに、けれど優しく七海が返す。


「私も覚えてる。あれ、ひのりが“魔法少女になった原点”なんでしょ?」


 ひのりは照れくさそうに笑った。


「そうかも。……あの子がいたから、今の私がいるのかもって思うくらい」


 紗里が肩肘をつきながら言う。


「名前も顔も覚えてないんだっけ?」


「うん。すごく眩しかったことと、指輪のことや「魔力を授けます」って言ったことは覚えてる。不思議だよね。記憶って、細部より気持ちのほうが残ってたりするんだ」


 その言葉に、みこがそっと呟く。


「……それって、まるで“メル”だね。記憶だけじゃなくて、想いも残ってるって」


 唯香は静かに皆のやり取りを聞いていた。

 ポケットの中で、彼女の指先が小さな指輪をそっとなぞる。


 そして心の奥で、誰にも聞こえない声が、かすかに囁いた。


(――やっぱり、あの子……)


 唯香は、ふと顔を上げて言った。


「……私も、子どもの頃に一度だけ、不思議な出会いをしたことがあるの」


 視線が唯香に集まる。


「え、それってどんな……?」


 ひのりが興味津々で身を乗り出す。


「小学校の低学年くらいの時。……河原でドラマの撮影があって、私、そこで子役として出演してたの。でも、上手くできなくて――叱られて、撮影現場から抜け出した」


 淡々と語る声に、ほんの少しだけ、震えが混じっていた。


「そのまま走って、近くの公園にたどり着いて……誰にも見つかりたくなくて、ベンチに隠れるように座ってたの。泣きながら」


 唯香は静かに息をつき、続けた。


「そしたら、見知らぬ女の子が声をかけてきた。“魔法使いごっこしない?”って。突然だったけど、不思議と怖くはなかった」


 ひのりの表情が、はっと変わる。


「その子と……少しだけ話して、一緒に遊んだ。“空飛ぶベンチ”で旅に出るって設定だったかな。最後に――“魔力を託します”って、指輪をくれたの」


 ポケットに手を入れ、唯香はその小さなおもちゃの指輪を取り出した。


「……これ。今も、ずっと持ってる」


 透明な水色の石が、小さな光を反射する。

 ひのりは、言葉を失って見つめていた。


「そのときのことが、私にとって……子役だった頃の、数少ない“幸せな記憶”なの。名前も知らない。顔も、もう思い出せない。でも、魔法みたいに心が軽くなったことだけは、今でもはっきり覚えてる」


 唯香は少し目を伏せたあと、ひのりのほうに視線を戻した。


「……ねえ、ひのりちゃん。その子って、もしかして――」


 そこまで言いかけて、言葉が止まった。


 ひのりは、信じられないような表情で唯香を見つめていた。


 部室の中に、静けさが広がる。


 その沈黙は――次の“記憶の扉”が、静かに開き始める予兆だった。


 唯香が差し出した指輪を見つめていたひのりは、ゆっくりと鞄に手を伸ばした。


「……ちょっと、待って」


 ファスナーを開け、ポーチの奥から、小さな缶を取り出す。

 その中から――ひのりもまた、色あせたおもちゃの指輪をそっと取り出した。


 淡いピンク色の、同じ形のプラスチックの指輪。


「これ……」


 ひのりはかすれた声で言った。


「……あのとき、“魔力を託す”って言って、私が渡した指輪……」


 唯香が手のひらの中で握っていた、水色の指輪と――

 ひのりが持っていた、ピンク色の指輪。


 二つの指輪が、いま、時を越えて向かい合う。


「唯香ちゃん……もしかして、あの時の子……?」


 ひのりの目に涙がにじむ。


「……ずっと気になってたの。あのとき、急にスタッフの人が来て……あなた、何も言わずに行っちゃったから。でも、あれは、私にとって……本当に、魔法みたいな時間だったの」


 震える声でそう言いながら、ひのりの目から、一粒の涙がこぼれ落ちた。


 唯香もまた、指輪をそっと胸元に当てながら、目を伏せていた。


「私も……あのとき、魔法をかけてもらったんだって、今でも思ってる」


 そして顔を上げる。


「だから、こうしてまた出会えたこと……この演劇部で、同じ舞台を作ってること……これって、運命なんだね」


 声は震えていたが、確かだった。

 記憶という名のパズルのピースが揃うかのようだった。


 紗里は目元を押さえながら、ぽつりと呟く。


「……ほんとに、物語みたいなこと、あるんだね……」


 隣では、みこがすでにハンカチを握りしめて、ぐしぐしと目元を押さえていた。


「ううっ……だめ……無理……こういうの……っ……感情が……っ!」


 涙と鼻水で顔をくしゃくしゃにしながら、みこは泣きじゃくる。

 七海はそんな光景を見ながら、小さく微笑み、そっと言った。


「……セラの役。唯香が演じたら、すごく、いい舞台になる気がする」


 唯香はその言葉に、ゆっくりとうなずいた。


「……うん。私、やるよ。ちゃんと、“思い出す”ために」


 5人の少女たちを包むのは、過去と未来をつなぐ――本当の“記憶”。


 今、舞台の幕が、確かに一つ、開かれようとしていた。


 ひのりと唯香、二人の指輪が並べて置かれた机の上に、夕陽が差し込んでいた。


 その光を浴びながら、唯香は立ち上がる。


「……私、決めたわ」


 その声に、みんなの視線が一斉に集まる。


 唯香は、一人ひとりの顔をしっかりと見つめながら、はっきりと言葉を紡いだ。


「舞風学園演劇部の、5人目の部員として――正式に入部します。そして、セラを演じるわ」


 言い終えると、静かな沈黙が流れ――


「やったぁあああ!!」


 真っ先に声を上げたのは、もちろんひのりだった。


「わぁあ! よかったあああ! これでもう、キャスティングの心配なし!!」


 紗里が笑って唯香の肩をぽんと叩く。


「ようこそ、舞風演劇部へ!」


 みこはまたもや涙をこらえきれず、感極まって唯香に抱きついた。


「うぅぅぅ……本当によかったぁぁ……」


 その様子に、唯香は驚きつつも、ふっと優しく笑った。


 そんな中、七海がぽつりと言った。


「……実はさ」


 全員が振り返る。


「ひのりが前に、“小さい頃に公園で一緒に魔法使いごっこした子がいた”って話したとき――なんとなく、唯香ちゃんじゃないかなって思ったんだよね」


「ええっ!? そうだったの!?」


 ひのりが目を丸くする。


 七海は静かに頷いた。


「根拠はなかったし、言ってもプレッシャーになったらイヤだと思って。だから……敢えて言わなかった」


 唯香は、その言葉に目を見開いて、それから優しく微笑んだ。


「ありがとう。……そういう“距離感”、私、救われたかもしれない」


 誰かに決められた舞台じゃない。


 自分の意思で立つ、初めての“舞台”。


 唯香の胸の奥で、確かに何かが変わり始めていた。


 放課後の光が静かに部室に差し込む。


 こうして、舞風学園演劇部は――ついに5人、全員がそろった。


 この出会いが、やがてひとつの“物語”になる。


 次の幕は、もう――すぐそこに。


 続く。




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