サバイバル
「ゾンビ……ですか?」
ゾンビと伝えた時嘘でしょと言う表情をしていた。だが、真顔で頷くと真実であると悟り、かなり動揺していた。かく言う俺も、人が食われた場面をまじまじと見てしまったのである。しいて言えば、窓と言う画面越しのお陰で吐かないで済んでいるが、今も酸っぱい物がこみ上がってくるのを必死に堪えていた。
「嘘……ですよね? 現実にゾンビなんてありえないですよ…………」
神崎さんは愕然とした様子で首を振って否定する。だけど、事実は変わらない。取り乱す彼女に「落ち着いて」と言うが、効果はなかった。
頭を両手で押さえ、「嘘でしょ、嘘でしょ、嘘でしょ……」、と一人ぶつぶつと呟いている。その目は焦点が合わず、死んだ魚のようにくすんでいた。肩を揺するが反応なし、どうにかしないと、と気は逸るがいい方法が思いつかなかった。
「神崎さん、しっかりして! 落ち着いて!」
ひたすらに声をかけ続けるが効果は見られない。頭を抱え体育座りをする彼女の怯え方は尋常じゃなかった。
かく言う俺もゾンビの件しかり、神崎さんの狼狽した姿を見てパニックに陥りそうになる。だけど、俺だけは冷静でいないと、と言い聞かせ。たこ糸のような細い糸で理性を辛うじて保っている。
気の利いた言葉、甘い言葉、そのどれかを投げかければこの状況は良くなるのか? と、思ったが、俺は芸術家でもなければ、役者でもない。量産型日本人だ。そんな都合の良い言葉は見つからず、しまいには黙り込んでしまった。
無情にも時間だけが過ぎ去っていく。
どれくらい時間が経過したのかは分からない。部屋に置いてある時計に、癖で振り返るが0時を指したまま時を刻む事は永遠になかった。
すっと目を離し、神崎さんを見やる。一向に回復の施しが見えない。視線も合わせようとせず、耳を塞ぎ一人でぶつぶつと喋る彼女の精神状態は悪化する一方だ。
ただ、明日も明後日もその次もこんな感じのままならどうしよう……。
食料はまだ大丈夫。飲料水も買い込んだ。風呂は我慢すればいい。
だが、それのどれもが尽きた時———彼女は? 最悪は――。
いや、もしかしたら助けが来るかもしれない。と自分に言い聞かせるが、心のどこかでそれを完全に否定する自分もいた。
やはり、この状況で生き延びるためには自分でどうにかするしかない。そういきり立ったが、何をしていいものか。部屋の中をうろうろとしていると、
「イヤーッ! 辞めてっ! あぎぃ……ッ」
女性の悲鳴が聞こえた。驚き体が跳ねる。突然の出来事に、足を止めて立ち尽くす。神崎さん! と慌てて彼女を見た。驚き目を見開くと、耳を塞ぎ顔を自分の膝に埋めしまう。
「ヤメロッ! 来るなっ!」
「———くんっ! しっかりしてっ! あぐぃっ……イギギッッ!」
「あぁ! ……噛むなっ! 誰ががきぃッッッ!」
きっと、さっきまで目の前で繰り広げられた光景がそこら中で起きているのだろう。辞めてくれと願うが聞く耳持たないと言わんばかりに、そこかしこで人の悲鳴がこだまする。
外は惨劇の真っただ中。静かだった部屋の中を恐怖と絶望で満たしていく。
「宗田さん……怖いよ……」
神崎さんの助けを求める声が聞こえた。真っ青な口は小刻みに震え、涙を滴らせている。そっと彼女のそばに寄る。彼女を抱きしめる。
———。
「どう? 落ち着いた?」
どれくらい時間が経過したのか分からない。ずっと彼女を抱きしめていた。いつしか悲鳴が聞こえなくなりそっと彼女を胸の中から解放する。
「はい……なんとか」
いつもは元気が良くて、人当たりがいい彼女。だけど、今は感情の色を全て落として能面のように無表情だ。頬がやつれたようにげっそりと、俺の目から見ても大丈夫には見えなかった。
「これ、飲んで」
もしもの時に買っておいたスポーツ飲料を彼女に渡す。まったく冷えていない飲み物。人肌より温かく、それを飲んだところで美味しくはないだろう。ただ、こうしているだけで大量に汗をかくほどに熱した部屋。互いに密着していた事でそれが加速した。少しでも水分を取らないと熱中症の危険もある。
だから、落ち着いた今のうちに渡したのだ。
「あー、染みる」
それはぬるかったが、カラカラの喉を潤すには十分であった。美味しくはないけど、贅沢は言えない。するとそれを見ていた、神崎さんも、ちまちまと飲みだした。少しだけ安心すると、もう一口くちに含む。
ぬるくて、少ししょっぱくて、甘い、それを堪能するように飲み込み、魔王が言った戦争について考えを巡らせた。
戦争とは言っていたがまさかこんなサバイバルを強要させられるとは思わなかった。魔王と言えば、魔物の王様だろ?まさかゾンビが相手になるなんて誰が想像できたか。
「……これから、私たちはどうなるんでしょう?」
神崎さんがそう言った。
この状況での生活を余儀なくされるのは間違いないだろう。だから、これからは生き残るすべを探すしかない。
どうなるかについては……分からない。
「ゾンビを相手に……どうにかしないと俺達は生き残れないと思っている」
彼女の精神状態から考えて、酷な事を言った自覚はある。だが、それが事実だと俺は思っている。遅かれ早かれこの状況を受け入れないと死ぬだけだ。まだ、余裕のある今、この状況を互いに、しっかりと認識するべきだと思い、告げたのだ。
飲み物の入ったペットボトルを両手でぎゅっと握ると、舌唇を噛んで一点を見始める彼女。不安の色がより濃く、表に出る。
だけど、俺は話を続ける事にした。
「大丈夫……だとは言えない。でも、神崎さんは命に代えても守るから……」
「命に代えてもなんて嫌です……私と一緒に生きてください」
まるで愛の告白のように聞こえる彼女の発言に頷き返す。そうしてまた、チビチビと飲み物を飲んで黙ってしまった。まだ完全に割り切れないのだろう。少し考える時間が必要なのかもしれない。
少しだけ、そっとしておく事にした。
ただ、彼女が言った言葉を思い出して、生きる意志を明確に感じると少しだけ安心した。
しかし、静かだな。
隣の部屋の人はどうなったんだろうか? 物音一つしない。どこかに避難したのかな? 無事だといいんだけど。
そんな事を考えながら時間だけが過ぎる。
時折、遠くで悲鳴のような声が聞こえるがそれには反応せず聞かなかった事にした。
それにしても、時間が分からないとこんなにも不便なのか。正確な時間は分からないが、夕日がカーテンの隙間から床を染めるのが見える。今が夕方くらいだと言う事だけが分かるが、
すると、ぐぅっと腹がなった。
あんな光景を見ても腹が空くのか……。自分の神経がこんなにも図太いとは正直驚いた。
「神崎さんも何か食べる?」
俺は桃の缶詰を取り出しながら、そう声をかける。
「私は……いいです」
断られたが、一応同じ缶詰をテーブルに置いて置くことにした。
お腹が空いたら食べるだろう。
「いただきます」
手を合わせて食事の挨拶をすると、保存料なのか少し色が黄色味がかったそれを口に含む。
その味は懐かしかった。
子供の頃に食べた甘ったるいようで少し酸味のある桃の味。
俺はそれをあっと言う間にそれを食べ終えてしまった。物足りないがあまり食べ過ぎないようにと我慢する。缶詰の感をビニールの袋に入れて、キッチンの外へと置いた。
ベランダがないアパート。部屋の中に食べたゴミを置くしかない。匂いが漏れないようにしっかりとその口を縛る。
そうして部屋に戻ると神崎さんを見たが、桃の缶詰めにも手をつけず、テーブルに背を向けて横になって丸まっている。
特に話す事もなく、俺も横になった。
今後の事をしっかり考えておこうと思う。
食料にゾンビが一番の問題だ。
他にもこんな混乱した世界では人間すら信じる事が出来ない。
こう言う時だからこそ、人の本性が出ると言うものだ。安易に人を信じればどうなるかなんて簡単に想像できてしまう。
自衛する手段も必要である。
てか、魔王って言うくらいなんだから、ゴブリンとなオークとか定番なのが出てくるのが普通だろうに。
なんでゾンビなんだよ。心の中でそう愚痴った。あー、せめて対抗手段に魔法くらいは使えないのだろうか。
暗くなった部屋の中で右の手の平をなんともなしに見ていた。
「魔法か……火よ……なんてな」
俺はライターの火が右手の指先から出てくるのを想像しながらそう呟いた。
そんな魔法なんて使える分けないのに。
子供の頃に夢見たそれを想像しながらそう願うーー
「——なっ!?」
それは有り得ない光景だった。
右の人差し指、そこから俺が想像した通り火が出現した。
「嘘だろ……」
火の光がいつの間にか暗くなった部屋を静かに照らす。吹けばすぐに消えてしまいそうなその火。
だけど、本当に魔法が使えてしまった。
不思議と指先はまったく熱くない。だからと言って熱を持っているわけがなかった。
「てか、どうやったら消えるんだこれ?」
ライターの火が消える所を想像すると、ふとその火は消えてしまった。俺は急いでその事を神崎さんに伝えるため、起き上がろうとしたのだが、
「あれ? 力が……」
体に力が入らない。
例えるなら、限界まで走った時のような感覚。それに近い感覚に全身が襲われる。
きっと魔力が切れ……なのか? 初めての体験で戸惑うがそれ以外に原因が見つからない。ただ、ちょっと火を出しただけでこれなら実用化するのはまだ時間がかかるだろう。
急な倦怠感に襲われて全身に力が入らず、重力に身を任せるようにべったりと床に張り付く俺。
小さな火だったが、俺はこの絶望的な世界で海を照ら灯台のような希望の光に見えた。